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那須隼人5
腐敗した土
門に鍵は掛けられていなかった。
不動産会社所有の物件となった現状では、通常なら施錠されているはずだ。
しかし、レバー式のラッチは施錠できる仕組みになっておらず、黒いアイアン製のシンプルモダンなデザインの門のどこにも南京錠などを掛けられそうな場所はない。
隼人のような物好きがわざわざ侵入する事態など想定されておらず、施錠すること自体が最初から放棄されていたのだろう。
門を押すと、キイ、と軋む音が鳴った。しばらくの間、誰にも開かれていなかった証だ。
敷地に足を踏み入れる。
玄関へと続くコンクリート製のアプローチを進み始めるとすぐに、ドブのような臭気が鼻を突いた。思わず手の甲で鼻を覆う。
アプローチの右側は芝生になっており、植栽用の花壇も見える。
しかし芝は黒ずみ、隙間からさらに真っ黒な土が覗いている。
花壇の土も明らかに水分を含み過ぎており、表面はぬめるような膜を張って、てらてらと異様な光を反射していた。
──この土が腐っている。
隼人は口呼吸に切り替えながら、カメラを構えた。
ファインダー越しの景色には森が広がっていた。
朽ちた庭とは対照的に、木々は青々として力強く、コナラやクヌギが堂々と枝を広げている。葉一枚一枚も厚く、艶やかだ。
ファインダーを足元に向けると、深緑のシダが地面を覆い、その間にヤブコウジやヒサカキが控えめに立ち上がっていた。さらに、指先ほどの小さな白や薄紫の花も咲いている。おそらくニリンソウやスミレだろう。
下草の繊細な葉のギザギザまで、細かく見て取れる。
それらは以前よりも明瞭で、鮮やかだった。
葵との会話を経て、意識の焦点の置き方がよりはっきりしたのかもしれない。
隼人は臭いのことも忘れ、実際に森に分け入っていく気持ちで、玄関前まで歩を進める。
ポーチの前で一旦足を止め、カメラを下ろした。
アプローチはここで分岐し、建物の左手へと緩やかな曲線を描いて続いていた。
建物の横手側にも庭があり、そちらに続いているのだろう、と隼人は考えた。
玄関扉を見上げる。
居住者が退去してから、それほど月日は経っていないはずだが、ドアノブにはすでに赤茶けた錆が浮いている。
だが、隼人は最初から屋内に入るつもりはなかった。
高梨たちにも話した通り、本当に探しているものはあちらにはないと感じていた。
アプローチを左へとたどり、建物の側面へと回り込むと、開けた空間が現れた。もう一つの庭だ。
ポーチ脇の庭よりもはるかに広く、日当たりも良い。おそらく敷地内の南面に当たるのだろう。
しかし、その明るさにふさわしい清々しさはどこにもなかった。
地面は不規則に波打ち、ところどころ沈んだり盛り上がったりしていた。
芝はすでに色形を留めていないほどに朽ちている。もはや植生と呼べるものは存在しない。
庭は、まるで地面そのものが病んでいるかのようだった。
じっとりとした湿気が、地表から染み出すように空気を満たしていた。風はどこにもなく、だが空気はかすかに揺らいでいる。地面の下で、何かが静かに息をしているかのようだった。
鼻をつくのは、前庭よりもさらに濃くなった腐臭だ。ねっとりとした生暖かさを帯び、鼻孔の奥にまで這い込んでくる。
それは単なる土の腐敗臭ではない。崩れ落ちた命がさらに発酵を深めていくときに立ちのぼる、甘く湿った、決定的な負の匂いだった。
隼人は思わず顔をしかめ、無意識に一歩後ずさる。
それでも視線だけは、庭の奥へと吸い寄せられていた。
ゆっくりと、カメラを構えた。
なぜか分からないが、目的の場所が「そこ」であるとの確信があった。
ファインダーの中に再び森が立ち現れた。
そして隼人はそれを見つけた。
庭の奥、フェンス際の一角に、小さな盛り土の山がぽつりと浮かぶように存在していた。
直径はせいぜい二メートルほど。高さは隼人の腰あたり。表面に植物はなく、灰白色の礫(小石)がぎっしりと敷き詰められている。
──塚だ。
視線をファインダーから外すと、そこにはただ、どこまでも力なく沈んだ黒い芝と泥地があるばかり。盛り上がった地形の痕跡すら見当たらない。
再びファインダーを覗く。やはりそこには塚がある。
そしてその前には、子どもの腕でも抱えられそうな長方形の石が、ひとつ立っていた。
墓石を彷彿とさせるが、角は丸く摩耗している。
表面には碑銘ではなく、仏の姿が彫られていた。
丸彫りのように立体的ではなく、石の平面を浅く削って描いた素朴な線刻の像だ。
輪郭はすでに曖昧で、光背に刻まれた連弁も幾本かの線だけが見て取れるばかり。目鼻立ちもかすれた線としてしか見えない。ただ、何かを祈るように胸前で手を合わせた形だけは、ぼんやりと認識できた。
隼人はファインダーから目を離せないまま、しばらくその場に立ち尽くす。
仏像の、あるかどうかもあやふやな目がこちらを見ていた。
それはこの土地の「過去」そのものの視線であるように感じられた。
「……誰が見ているんだ?」
呟いた声は、空気に吸い込まれるように消えた。
次の瞬間、塚の周囲に揺れる何かを見て、隼人は目を凝らした。
ファインダーの中にも風はない。あたりに立ち込める木々も揺れてはいない。しかし、塚の周囲の空気だけが、ぼんやりと震えているように見える。
レンズの倍率を上げてズームしても何も見えない。
そこまで行く必要がある。隼人はそう直感した。
不思議と恐怖はなかった。
そこに一体何があるのか、強く興味を惹かれていた。それは呼ばれているような感覚に近いものだった。
コンクリートの足場から、慎重に一歩を踏み出した。
不動産会社所有の物件となった現状では、通常なら施錠されているはずだ。
しかし、レバー式のラッチは施錠できる仕組みになっておらず、黒いアイアン製のシンプルモダンなデザインの門のどこにも南京錠などを掛けられそうな場所はない。
隼人のような物好きがわざわざ侵入する事態など想定されておらず、施錠すること自体が最初から放棄されていたのだろう。
門を押すと、キイ、と軋む音が鳴った。しばらくの間、誰にも開かれていなかった証だ。
敷地に足を踏み入れる。
玄関へと続くコンクリート製のアプローチを進み始めるとすぐに、ドブのような臭気が鼻を突いた。思わず手の甲で鼻を覆う。
アプローチの右側は芝生になっており、植栽用の花壇も見える。
しかし芝は黒ずみ、隙間からさらに真っ黒な土が覗いている。
花壇の土も明らかに水分を含み過ぎており、表面はぬめるような膜を張って、てらてらと異様な光を反射していた。
──この土が腐っている。
隼人は口呼吸に切り替えながら、カメラを構えた。
ファインダー越しの景色には森が広がっていた。
朽ちた庭とは対照的に、木々は青々として力強く、コナラやクヌギが堂々と枝を広げている。葉一枚一枚も厚く、艶やかだ。
ファインダーを足元に向けると、深緑のシダが地面を覆い、その間にヤブコウジやヒサカキが控えめに立ち上がっていた。さらに、指先ほどの小さな白や薄紫の花も咲いている。おそらくニリンソウやスミレだろう。
下草の繊細な葉のギザギザまで、細かく見て取れる。
それらは以前よりも明瞭で、鮮やかだった。
葵との会話を経て、意識の焦点の置き方がよりはっきりしたのかもしれない。
隼人は臭いのことも忘れ、実際に森に分け入っていく気持ちで、玄関前まで歩を進める。
ポーチの前で一旦足を止め、カメラを下ろした。
アプローチはここで分岐し、建物の左手へと緩やかな曲線を描いて続いていた。
建物の横手側にも庭があり、そちらに続いているのだろう、と隼人は考えた。
玄関扉を見上げる。
居住者が退去してから、それほど月日は経っていないはずだが、ドアノブにはすでに赤茶けた錆が浮いている。
だが、隼人は最初から屋内に入るつもりはなかった。
高梨たちにも話した通り、本当に探しているものはあちらにはないと感じていた。
アプローチを左へとたどり、建物の側面へと回り込むと、開けた空間が現れた。もう一つの庭だ。
ポーチ脇の庭よりもはるかに広く、日当たりも良い。おそらく敷地内の南面に当たるのだろう。
しかし、その明るさにふさわしい清々しさはどこにもなかった。
地面は不規則に波打ち、ところどころ沈んだり盛り上がったりしていた。
芝はすでに色形を留めていないほどに朽ちている。もはや植生と呼べるものは存在しない。
庭は、まるで地面そのものが病んでいるかのようだった。
じっとりとした湿気が、地表から染み出すように空気を満たしていた。風はどこにもなく、だが空気はかすかに揺らいでいる。地面の下で、何かが静かに息をしているかのようだった。
鼻をつくのは、前庭よりもさらに濃くなった腐臭だ。ねっとりとした生暖かさを帯び、鼻孔の奥にまで這い込んでくる。
それは単なる土の腐敗臭ではない。崩れ落ちた命がさらに発酵を深めていくときに立ちのぼる、甘く湿った、決定的な負の匂いだった。
隼人は思わず顔をしかめ、無意識に一歩後ずさる。
それでも視線だけは、庭の奥へと吸い寄せられていた。
ゆっくりと、カメラを構えた。
なぜか分からないが、目的の場所が「そこ」であるとの確信があった。
ファインダーの中に再び森が立ち現れた。
そして隼人はそれを見つけた。
庭の奥、フェンス際の一角に、小さな盛り土の山がぽつりと浮かぶように存在していた。
直径はせいぜい二メートルほど。高さは隼人の腰あたり。表面に植物はなく、灰白色の礫(小石)がぎっしりと敷き詰められている。
──塚だ。
視線をファインダーから外すと、そこにはただ、どこまでも力なく沈んだ黒い芝と泥地があるばかり。盛り上がった地形の痕跡すら見当たらない。
再びファインダーを覗く。やはりそこには塚がある。
そしてその前には、子どもの腕でも抱えられそうな長方形の石が、ひとつ立っていた。
墓石を彷彿とさせるが、角は丸く摩耗している。
表面には碑銘ではなく、仏の姿が彫られていた。
丸彫りのように立体的ではなく、石の平面を浅く削って描いた素朴な線刻の像だ。
輪郭はすでに曖昧で、光背に刻まれた連弁も幾本かの線だけが見て取れるばかり。目鼻立ちもかすれた線としてしか見えない。ただ、何かを祈るように胸前で手を合わせた形だけは、ぼんやりと認識できた。
隼人はファインダーから目を離せないまま、しばらくその場に立ち尽くす。
仏像の、あるかどうかもあやふやな目がこちらを見ていた。
それはこの土地の「過去」そのものの視線であるように感じられた。
「……誰が見ているんだ?」
呟いた声は、空気に吸い込まれるように消えた。
次の瞬間、塚の周囲に揺れる何かを見て、隼人は目を凝らした。
ファインダーの中にも風はない。あたりに立ち込める木々も揺れてはいない。しかし、塚の周囲の空気だけが、ぼんやりと震えているように見える。
レンズの倍率を上げてズームしても何も見えない。
そこまで行く必要がある。隼人はそう直感した。
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