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那須隼人5
泥濘
ぐちゃり。
踏み出した一歩が、靴底で泥を押し潰す鈍い音を立てた。
隼人が履いていたのは、街歩き用の防水スニーカーだった。
くすんだチャコールグレーの布地に、ラバーソールが組み合わさったモデルで、撥水加工はあるものの、ぬかるんだ地面に踏み込むことまでは想定されていない。
泥は、ソールのラインを越えてじわじわと這い上がり、足の甲を包む布地の隙間から、冷たく染み込んでくる。
それでも、隼人は構わずもう一歩を踏み出した。
ぬかるみは一歩目よりも深く、足がずぶりと沈む。
泥の冷たさも、鼻をつく腐臭もひどく不快だったが、ファインダーの向こうには、下生えのシダが開け、踏みならされた地面が確かに見えていた。
土が水を含み泥濘と化しているとはいえ、沼ではない。それ以上に足が沈むことはないだろうと考え、隼人は現実を無視し、ファインダーの中に見える地面を歩くつもりで、さらに足を進めた。
くるぶし近くまで泥に埋まりながらも塚に向かう。
水と泥に靴を持っていかれそうになりながらも、なんとか塚の前に立った。
石仏の横に、ひざを抱えてうずくまっている者がいた。
胸が高まる。
ワンピースのような素朴な形状の白い服。腕や首などが服と同じぐらい白い。長い髪だけが濡れたように黒い。
期待と不安が入り混じり、鼓動が速くなっていた。
声を掛けると消えてしまうのではないかなどと考え、逡巡していると、うずくまった人物が不意に顔を上げた。
──違う、美月じゃない
すでに隼人は、白い女が美月であることを疑いもしていなかった。
しかし今、隼人を見上げているのは、どことなく美月に似た雰囲気を持ちながらも、まったく知らない顔だった。
非常に痩せた女だった。しかしそれと生気が感じられないことを除けば、他に異常な点は見受けられない。
切れ長の目や整った鼻梁――美しいといえなくもない顔だったが、どことなく無機質で人形のような印象があった。
「こんにちは」
掛ける言葉に迷い、出てきたのは結局そんな場違いな言葉だった。
女はこくりと頷いた。
だがそれ以上、何も言葉を発しなかった。
沈黙があたりを支配した。
隼人はファインダーを下ろした。
途端に、町の音が耳を満たす。自動車の走行音。遠くから響いてくる工事の音。
そして現実の風景には白い女はおろか、塚すらない。
しかし一度感得したからなのか、そこに何かがあることは、はっきりと感じ取ることができた。
再びカメラを構えてファインダーを覗く。
女は変わらず隼人を見上げていた。確かに人の形をしているのに、その姿はどこか曖昧で虚ろだった。
輪郭はきちんと見えているはずだが、視線を定めた瞬間、どこか焦点が合わずぼやけてしまう。
「君は、ずっと、ここに?」
そう問いかけて、隼人は相手の反応を待った。
女は何も答えない。ただ、石仏の横で膝を抱えた姿勢のまま、身じろぎもせずに静かにこちらを見ている。
その視線には、まったく感情が感じられない。
怒りも、悲しみもなく、ただ見るという動作だけがそこにある。
──いや、違う
見ているのではなく、覗き込んでいるのだ。
隼人の裡にあるものを知っているかのようなまなざしだ。
突如、彼女の背後──塚の斜面の下の方の一部がゆっくりと膨らんだ。そして次の瞬間には沈んでいた。まるで呼吸をするかのように。
「そこに、何かあるの?」
隼人が言いかけたとき、女がゆっくりと立ち上がった。まるで糸に引かれる操り人形のように。音も立てず、滑らかに。
しかしそこから歩を進めるでもなく、隼人の足元付近を、ただじっと見る。
釣られて視線を落としかけたところで、これまでとは比べものにならないほどの強烈な腐臭を感じた。
「いったい何が……」
呟いたところで、足が沈んでいることに気が付いた。
いつの間にか、両足はすねの半ばまで泥に呑まれていた。
泥濘の中で、両足首を掴まれた。
人の手の、それも冷たい死体のような、確かな感触だった。
強く引かれた。
水に落ちたかのように、隼人の体は一気に泥の中へと引き込まれた。
頭の先まで没し、生ぬるく、ぬめった泥に包まれる。
全身が粘膜に覆われたような不快さ。
呼吸をしようともがいた瞬間、鼻と口の両方に、まるで軟体生物の触手のような泥が入り込んだ。
息ができない。
反射で吐き出そうとするたびに、さらに深く侵入され、嘔吐くことさえできない。
鼻腔が、喉が、肺が、焼けるように痛む。
視界も触覚も聴覚も嗅覚も味覚も、すべての感覚が泥に塗りつぶされる。
隼人はただ底の知れぬ何かに落ち続けていた。
上も下もわからない。どのぐらい落ちているのか。いつまで落ちるのか。
果てしのない恐怖が隼人の心を凍り付かせた。
死への怖れではない。
理解の及ばぬ存在に触れてしまったことへの、底冷えするような後悔。
おそらく、自分を泥に引き入れたモノは、死などという安寧を与えてはくれない。
白い女や頭を燃やした男などとはもっと別の、ずっとおぞましく、ずっと恐ろしい存在だ。
この町に関わるべきではなかった。
安易に、ひとならざるものに近づくべきではなかった。
美月はここにはいなかった。最初から、会えるはずなどなかったのだ。
ふいに、誰かが隼人の腕を引いた。
ぐい、と力強く。
泥がざばりと割れ、目の前に光が溢れた。
現実の世界だ。
隼人は、泥の中で四つん這いになっていた。
激しく咳き込み、泥を吐き、顔を覆う泥を掻き取る。
ようやく肺に空気が入ってくる。
身体の中に入り込んだ泥を吐き出すように、涙と鼻水と唾液がとめどなく溢れた。
泥と涙で視界が歪む中、背後に気配があった。
助けてくれた存在を見ようと隼人は上体を起こして振り向いた。
白い女か、と思った。
しかしそこにいたのは、白いシャツとソムリエエプロンを泥で汚した、葵の姿だった。
「隼人さん、聞こえますか!? 大丈夫ですか!?」
踏み出した一歩が、靴底で泥を押し潰す鈍い音を立てた。
隼人が履いていたのは、街歩き用の防水スニーカーだった。
くすんだチャコールグレーの布地に、ラバーソールが組み合わさったモデルで、撥水加工はあるものの、ぬかるんだ地面に踏み込むことまでは想定されていない。
泥は、ソールのラインを越えてじわじわと這い上がり、足の甲を包む布地の隙間から、冷たく染み込んでくる。
それでも、隼人は構わずもう一歩を踏み出した。
ぬかるみは一歩目よりも深く、足がずぶりと沈む。
泥の冷たさも、鼻をつく腐臭もひどく不快だったが、ファインダーの向こうには、下生えのシダが開け、踏みならされた地面が確かに見えていた。
土が水を含み泥濘と化しているとはいえ、沼ではない。それ以上に足が沈むことはないだろうと考え、隼人は現実を無視し、ファインダーの中に見える地面を歩くつもりで、さらに足を進めた。
くるぶし近くまで泥に埋まりながらも塚に向かう。
水と泥に靴を持っていかれそうになりながらも、なんとか塚の前に立った。
石仏の横に、ひざを抱えてうずくまっている者がいた。
胸が高まる。
ワンピースのような素朴な形状の白い服。腕や首などが服と同じぐらい白い。長い髪だけが濡れたように黒い。
期待と不安が入り混じり、鼓動が速くなっていた。
声を掛けると消えてしまうのではないかなどと考え、逡巡していると、うずくまった人物が不意に顔を上げた。
──違う、美月じゃない
すでに隼人は、白い女が美月であることを疑いもしていなかった。
しかし今、隼人を見上げているのは、どことなく美月に似た雰囲気を持ちながらも、まったく知らない顔だった。
非常に痩せた女だった。しかしそれと生気が感じられないことを除けば、他に異常な点は見受けられない。
切れ長の目や整った鼻梁――美しいといえなくもない顔だったが、どことなく無機質で人形のような印象があった。
「こんにちは」
掛ける言葉に迷い、出てきたのは結局そんな場違いな言葉だった。
女はこくりと頷いた。
だがそれ以上、何も言葉を発しなかった。
沈黙があたりを支配した。
隼人はファインダーを下ろした。
途端に、町の音が耳を満たす。自動車の走行音。遠くから響いてくる工事の音。
そして現実の風景には白い女はおろか、塚すらない。
しかし一度感得したからなのか、そこに何かがあることは、はっきりと感じ取ることができた。
再びカメラを構えてファインダーを覗く。
女は変わらず隼人を見上げていた。確かに人の形をしているのに、その姿はどこか曖昧で虚ろだった。
輪郭はきちんと見えているはずだが、視線を定めた瞬間、どこか焦点が合わずぼやけてしまう。
「君は、ずっと、ここに?」
そう問いかけて、隼人は相手の反応を待った。
女は何も答えない。ただ、石仏の横で膝を抱えた姿勢のまま、身じろぎもせずに静かにこちらを見ている。
その視線には、まったく感情が感じられない。
怒りも、悲しみもなく、ただ見るという動作だけがそこにある。
──いや、違う
見ているのではなく、覗き込んでいるのだ。
隼人の裡にあるものを知っているかのようなまなざしだ。
突如、彼女の背後──塚の斜面の下の方の一部がゆっくりと膨らんだ。そして次の瞬間には沈んでいた。まるで呼吸をするかのように。
「そこに、何かあるの?」
隼人が言いかけたとき、女がゆっくりと立ち上がった。まるで糸に引かれる操り人形のように。音も立てず、滑らかに。
しかしそこから歩を進めるでもなく、隼人の足元付近を、ただじっと見る。
釣られて視線を落としかけたところで、これまでとは比べものにならないほどの強烈な腐臭を感じた。
「いったい何が……」
呟いたところで、足が沈んでいることに気が付いた。
いつの間にか、両足はすねの半ばまで泥に呑まれていた。
泥濘の中で、両足首を掴まれた。
人の手の、それも冷たい死体のような、確かな感触だった。
強く引かれた。
水に落ちたかのように、隼人の体は一気に泥の中へと引き込まれた。
頭の先まで没し、生ぬるく、ぬめった泥に包まれる。
全身が粘膜に覆われたような不快さ。
呼吸をしようともがいた瞬間、鼻と口の両方に、まるで軟体生物の触手のような泥が入り込んだ。
息ができない。
反射で吐き出そうとするたびに、さらに深く侵入され、嘔吐くことさえできない。
鼻腔が、喉が、肺が、焼けるように痛む。
視界も触覚も聴覚も嗅覚も味覚も、すべての感覚が泥に塗りつぶされる。
隼人はただ底の知れぬ何かに落ち続けていた。
上も下もわからない。どのぐらい落ちているのか。いつまで落ちるのか。
果てしのない恐怖が隼人の心を凍り付かせた。
死への怖れではない。
理解の及ばぬ存在に触れてしまったことへの、底冷えするような後悔。
おそらく、自分を泥に引き入れたモノは、死などという安寧を与えてはくれない。
白い女や頭を燃やした男などとはもっと別の、ずっとおぞましく、ずっと恐ろしい存在だ。
この町に関わるべきではなかった。
安易に、ひとならざるものに近づくべきではなかった。
美月はここにはいなかった。最初から、会えるはずなどなかったのだ。
ふいに、誰かが隼人の腕を引いた。
ぐい、と力強く。
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現実の世界だ。
隼人は、泥の中で四つん這いになっていた。
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ようやく肺に空気が入ってくる。
身体の中に入り込んだ泥を吐き出すように、涙と鼻水と唾液がとめどなく溢れた。
泥と涙で視界が歪む中、背後に気配があった。
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