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しおりを挟む……この子が欲しい。
万の人の群れから、この子を見つけだした奇跡を絶対に逃してはならない。
本能でそう感じた。柊木は腕の中のさつきを、再び強く抱き締めると、優しく囁く。
「ナユタはきっと、天国からきみの幸せを願ってる」
柊木の甘言に、さつきはぼんやりとしながら腕の中で頷いた。
その時、出入口に人の気配を感じ、柊木はとっさに腕を緩めた。他診療科の医師と思われる白衣の男が二人、雑談をしながら入って来る。
「ご、ごめんなさい」
我に返ったさつきは、頬に残る涙の跡を袖で拭うと、慌てて出て行こうと踵を返した。
柊木はその肩を一度だけ掴み、暗示をかけるように、さつきの耳元で囁いた。
「いつか、ナユタがきみを運命の人に巡り合わせてくれる……」
さつきがその謎めいた言葉を心に受け取ったか定かではない。俯いたまま会釈をして、逃げるようにその場を後にした。
人の顔を見て話すことの出来ないさつきは、おそらく柊木の顔など覚えていない。
そして、柊木はまもなくこの病院での研修期間を終える。さつきの次の診察日には、もうこの病院にはいない。さつきとの繋がりは完全に無くなる。
それでも、彼を必ず手に入れる。
離れ際、さつきに最後に触れた手のひらの温もりを抱きながら、柊木は誓った。
柊木は再びさつきと出会う為の計画をすぐに実行に移した。
カルテに書かれたさつきの情報と彼の語彙の癖から、掲示板のあたりを付けて書き込みを特定するのにそう時間はかからなかった。
無防備にも病院で相談した内容を定期的に書き込むさつきーーハンドルネーム“kou”に対して、他の人間からのレスポンスはほとんどなかった。
柊木はまず、kouの最初の書き込みから今まで約一年分をすべて読み込んだ。
学校のこと、家庭のこと、自己嫌悪、同性への好意。そして、最近の書き込みは、唯一心を寄せていた愛犬の死についてばかりだった。
“ずっと一緒に居てくれたから居なくなってしまったことを、まだ受け入れられません。男なのに、泣いてしまう。学校や人前で泣いたら変だからやめたいのに、止まらない”
そこは同性愛者専用掲示板だった。性的な書き込みも散見されるスレッドの中、小さなため息のような脈絡のない書き込みはあっという間に流されていく。しかし、柊木にとってその書き込みは、暗闇の中小さく揺らいで光る星のように見えた。
『ナ……ユタ……』
涙を流してか細く呟くさつきが、柊木の脳裏に浮かぶ。
Y、U、T、A。
掲示板の名前欄の入力を決める時、柊木の指は自然と、そのキーを押した。
さつきが彼の世界で唯一拠り所としていた飼い犬の名前の一部を借りて、その場所に自分が成り代わる。“YUTA”という愛犬と似た名前に、さつきはきっと親近感を持ち、受け入れるだろう。
YUTAはkouの書き込みに、不自然でない程度にレスポンスをし始めた。始めは日を開けて、徐々に詰めて。kouが掲示板に手の写真をアップした時は、褒めて褒めて、YUTAの存在を印象付けた。親の離婚や大学入学の不安を零した時には、見た目を変えるのも手だと好みの髪型、髪色に変えさせたりもした。その都度、きっと可愛い、綺麗と褒めちぎった。
何度も繰り返される好意的な書き込みやメールに、kouはあっという間にYUTAに懐いていった。アドレスを個別に交換してからは、ほぼ毎日やり取りをした。
さつきの抱える悩みや葛藤に対して、ユタはことごとく的確なアドバイスを与えた。それは事前に彼の診療情報を得ていた医師にとっては容易いことだった。
こうしてユタが四年をかけて慎重に温めてきた計画は順調過ぎるほどに、うまく進んでいるように見えた。少なくとも、さつきが大学二年になるまでは、ユタの存在はさつきの心の九割を占めていた筈だった。
さつきが成井田と出会い、恋を自覚するまでは。
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