酸いも甘いも噛み分けて

篠原 皐月

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第7章 色々な転機

(9)田宮の奇襲

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 営業二課にその人が姿を見せた時、友之以外の社員達は訝しく思ったものの、直後にちょっとした事件が勃発するなど全く想像できなかった。

「田宮専務?」
「どうしてここに来てるんだ?」
「珍しいな」
 多少は気にしながらも仕事を続行している社員達の机の間を進み、田宮は笑顔で友之の前に立つ。

「やあ、松原課長。仕事中に悪いね。今少々、時間を貰っても良いかな?」
「それは構いませんが、どんなご用でしょうか?」
(まさかこんな所で、あの見合い話の返事を聞きたいとかいうわけじゃあるまいな!?)
 彼の姿を認めた瞬間から嫌な予感を覚えた友之だったが、残念な事にその予感は的中してしまった。

「いや、大した事では無いんだが、この前渡した見合い写真のお嬢さん達の中で、気に入った女性がいないかと思って。気になる女性がいたならすぐにでも双方のスケジュールを擦り合わせて、セッティングしようと思ってね」
 にこやかに田宮がそんな事を口にした途端室内が静まり返り、友之に好奇心に満ちた視線が集まる。

(最悪だ……。せめて午前中に来たのなら、沙織が外に出ていたのに……)
(へぇ? 『見合い写真』に『お嬢さん達』ねぇ……。初耳だけど)
 友之が辛うじて動揺を面に出さないまま、さりげなく仕事中の沙織の様子を窺うと、彼女からは冷めきった視線が返ってきた。それに顔が引き攣りそうになるのを必死に抑えつつ、友之は控え目に事態の収拾を図る。

「田宮専務。お気持ちは大変ありがたいのですが、自分には勿体ないお話ばかりなので」
「そうか。目移りして、一人に絞れないのか。それならそれで、じっくり選んでくれて構わないから」
(そうは言ってないだろ! 何を曲解してやがるんだ、この耄碌親父がっ!)
(ふぅん? 『勿体ないお話』かぁ……。田宮専務も自信ありげだし、どんなお相手なのかしらね?)
 訳知り顔でおうように頷く田宮を、友之は怒鳴り付けたくなったが、ここで何故か話の矛先が沙織に向かった。

「ああ、そうそう。君は、関本さんだったね?」
「はい、関本沙織です。専務、何かご用でしょうか?」
 室内を見回してから、スタスタと自分に歩み寄りながら声をかけてきた田宮に沙織は困惑しながら立ち上がり、友之ははっきりと顔色を変えた。

(え? どうしてこの流れで、私にお鉢が回ってくるの?)
(おい、ちょっと待て! この上、沙織に何を言う気だ!?)
 沙織の困惑と友之の動揺など全く意に介さない田宮は、笑顔のまま彼女に語りかけた。

「君の父上の一之瀬社長とは、最近業務内容を離れて、親しく語らう機会を得てね。大変意気投合したんだ」
「そうでしたか。父が専務に、失礼な事を申していなければ良いのですが……」
(『業務内容を離れて、親しく語らう機会』って……。要はこの前私の噂を流してから親子関係が分かって、頭を下げに行った時の事よね。でも自分の背後にいたのが田宮専務だと、吉村さんが口を閉ざして社内には公になっていないし、そこら辺は流しておきましょうか)
 どことなく顔色の悪い吉村一瞬視線を向けて、何食わぬ顔で応じた沙織に、田宮が愛笑いを振り撒きながら話を続ける。

「とんでもない! 彼は懐の深い立志伝中の人物で、心の底から尊敬しているよ。それでお近づきの印に、『お嬢さんの縁談を自分に任せて貰えないか』とお願いしたのだが、『娘には我が社の有望社員との縁談を模索している最中なので。お気持ちだけありがたく頂戴します』と固辞されてしまってね」
「そんな事があったとは、全く存じませんでした……」
 本人抜きで何を話しているのやらと呆れながらも、沙織は傍目には冷静に応じる。

「いやぁ、一之瀬さんは君の事が本当に心配で、CSCに入社して欲しかったらしい。だがそうなっていたら、我が社は優秀な営業部員を一人獲得できなかったわけだし、仕方が無いな! それでせめて結婚相手は自分の部下と、と言うわけだ。いやぁ、いじらしい親心だ!」
(友之さんに加えて、私にも縁談を……。何をどうしたら、そんな荒唐無稽な話になるのよ! 和洋さんも体の良い断り文句では無くて、まさか本当にそんな事を考えていたわけでは無いでしょうね!?)
 公表していないにしても、結婚している夫婦それぞれに縁談を持ちかけるとはどういう了見だと、能天気な田宮の様子も相まって沙織は憤慨したが、彼女はそれを綺麗に押し隠し、満面の笑みで言葉を返した。

「田宮専務。お気遣い、誠にありがとうございます。専務自ら普段付き合いの無い平社員の縁談を纏めようとしてくださるなんて恐縮ですし、それ以上に感激しました。父がどんな縁談を持ち込むつもりなのかは聞かされておりませんが、今後どんな方とご縁があっても、これまで通り仕事に邁進するつもりです」
 沙織がいつもの営業スマイルを超越した笑顔と、しおらしさを炸裂させてみせた事で、普段の彼女を知り抜いている同僚達は、思わず仕事の手を止めた。

「おう、それは頼もしい。さすがはあの一之瀬社長のご令嬢だ。これからの松原工業を背負って立つのは、君達のような若者達だ。期待しているよ?」
「専務の期待を裏切らないように、精一杯頑張ります。本当に、田宮専務のような松原工業を支えている方に気に留めて頂いていると思うだけで、日々の業務の励みになりますわ」
「いや、それほどでも。うわははは!」
 不自然さを感じない満面の笑みの沙織に煽てられ、高笑いしている田宮を見て友之は無言で顔を覆い、周囲の者達は囁き合った。

「うわぁ、関本の奴、120%営業スマイルだぜ」
「久々だなぁ……、あれを目の当たりにするのは」
「なんですか、それって?」
 しみじみとしたやり取りを耳にした吉村が尋ねると、朝永が真顔で解説してくる。

「吉村、教えておいてやる。関本があの笑顔を炸裂させたら、不用意に声をかけるな、近付くな」
「はい?」
 困惑顔になった吉村に、周囲から次々に声がかかる。

「滅多に見られないが、あれは関本の怒りが振り切れている状態なんだ」
「あいつの頭の中では今現在、凄まじい罵詈雑言が展開されているぞ」
「それは分かりましたが……。関本はどうしてそんなに腹を立てているんですか? 会社の重役が自分の縁談を持ちかけたのが、そんなに怒る事ですか? 確かに面倒そうですが、縁談を出す前に一之瀬社長に断られていますから、特に実害はありませんよね?」
 機嫌良く世間話を続けている二人を見やりながら吉村が確認を入れると、問われた周囲は揃って困惑した。

「……言われてみれば、そうだな」
「自分の頭越しに、父親に話を持っていったのが気に入らないとか?」
「それは違うだろう。父親が、自社の社員との縁談を目論んでいる事か?」
「さぁ……、わけが分からん」
 男達が首を傾げていると、腹立たしい茶番に内心で飽き飽きしていた沙織が、さりげなく相手を追い出しにかかった。

「ところで専務。お時間は大丈夫でしょうか? お忙しい専務をお引き留めして、業務に支障を来すわけにはいきませんのに、長々とお話ししてしまって申し訳ありませんでした」
(いつまでもダラダラつまらねえ話をして、他人の仕事の邪魔してんじゃねぇぞ!)
(「とっとと帰れ」という副音声が、聞こえる気がする)
 相変わらず笑顔のまま沙織は軽く頭を下げ、遠巻きにその様子を窺っていた同僚達は密かに肝を冷やした。しかしその空気を全く感じ取れなかった田宮は、笑顔で彼女を宥める。

「いやいや、関本さん、気にしないでくれ。こちらこそ急に押し掛けて、業務を妨げてしまって申し訳ない。これで失礼するよ。それでは松原課長、また返事を聞きにくるから」
「……はい、失礼いたします」
 少し離れた席の友之に呼び掛けてから、田宮は機嫌良く部屋から出て行った。
その姿がドアの向こうに消えた瞬間、沙織の押し殺した声での悪態が、いつもより静かな室内に響く。

「はっ! 一社員が結婚するかどうかなんて、普段役員室でふんぞり返っているあんたに何の関係があるってんだ。今時立派なセクハラで、一発アウトだろうが。頭にカビ生やしてんじゃねぇぞ」
「………………」
 吐き捨てるようなその物言いで、室内が完全に静まり返った。そして自席に座ろうとして振り向いた沙織と、どこか怯えた様子で彼女を見上げていた佐々木の視線がかち合う。

「佐々木君、どうかしたの?」
「いえ! 何でもありません!」
「そう」
 一見いつも通りの沙織に声をかけられた佐々木は、僅かに狼狽しながら中断していた仕事を再開し、それが合図だったかのように、他の者達も何事も無かったかのように仕事に取りかかった。

(まあね。友之さんがモテるのは前々から知っているし、松原家や松原工業と縁付きたいと考える方面から降るように持ち込まれる縁談を、お義父さん辺りがシャットアウトしているのは分かっていたつもりだったけど。加えて私が営業二課で仕事を続けたいから、謂わば私の我が儘で事実婚をしているんだけど!)
 沙織は内心でイラつきながらも傍目には冷静に仕事を続け、一時間程してそれに一区切りつけたところで勢い良く立ち上がった。そして悠然と課長席に歩み寄り、軽く頭を下げてから友之に申し出る。

「課長、申し訳ありません。体調不良につき、早退させて貰いたいのですが」
 いきなりそんな事を言われた友之は驚き、反射的に問い返した。
「どこか具合が悪いのか?」
「生理痛です」
 無表情の沙織に見下ろされながら端的に告げられた友之は、咄嗟に次の言葉が浮かばず、僅かに顔を引き攣らせながら了承した。

「………………お大事に」
「失礼します」
 友之に一礼して自分の机に戻り、てきぱきと帰り支度をしている沙織を眺めながら、上司と同様に度肝を抜かれた同僚達は、再度顔を寄せて囁き合った。

「完璧に怒ってるな、関本の奴」
「ああ、今まで生理痛だなんて、口にした事は皆無だし」
「それを理由に帰るって……。いつもの関本ならあり得ないぞ」
「課長も唖然としてたしな」
「そりゃあ、あの状態の関本に、帰るなとは言えないだろう……」
 その直後、彼らはさっさと部屋を出ていく沙織から視線を移し、まだ幾分呆然としている友之に同情の眼差しを送った。
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