裏腹なリアリスト

篠原皐月

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3.暴走

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「はい、藤宮です」
「うえっ……、よ、美子姉さあぁん!」
 リビングで珍しく夫婦水入らずで寛いでいる時にかかってきた電話に、受話器を耳に当てたまま美子は目を丸くした。

「え? 美実? あなたどうしたの? どこからかけているの?」
「今っ……、タク、シーで……」
「タクシーって……、今夜は小早川さんと、デートしているんじゃ無かったの? 帰るにはまだ早い時間だと思うけど」
 思わず掛け時計で時間を確認した美子が不思議そうに問い返すと、美実が途切れ途切れに何か言ってくる。

「それがっ……、淳……、ろしてっ……」
「え? 美実? ごめんなさい、良く聞こえないわ。もう一度、言ってみてくれる?」
 何やらしゃくりあげながら言っている為、良く聞き取れなかった美子が頼むと、電話の向こうで美実が泣き叫んだ。

「わ、私っ……、淳を殺しちゃったぁぁ――っ!!」
「はあぁっ!?」
「ちょ、ちょっと、お客さんっ!? 殺したって何ですか!?」
 思わず驚愕の声を上げた美子だったが、どうやら同様に驚いた運転手らしい人物の声も、微かに耳に届いた。そして咄嗟に判断できずに固まった美子に、背後から声がかけられる。

「美子、美実ちゃんがどうかしたのか?」
 これまでの美子の台詞を聞いて、家の固定電話にかけてきたのが義妹だとは分かっていたものの、急に驚きの声が上がった為、秀明は怪訝な顔で妻に声をかけた。すると彼女は受話器の通話口を手で押さえながら、真っ青な顔で振り返る。

「それが……、あの子が電話の向こうで『淳を殺した』と叫んでいて……」
「何だと!?」
 しかし顔色を変えたのは一瞬で、秀明はすぐに自分の携帯電話を持ち上げながら、美子に矢継ぎ早に指示を出した。

「今から、あいつと連絡を取ってみる。取り敢えずお前は美実ちゃんを落ち着かせて、デート先を聞き出して、どこでそんな事態になったかを確認しろ。それから、さっきタクシーがどうとか言ってたな?」
「ええ、今、タクシーに乗っているみたいで」
「それなら興奮して、運転手にちゃんと行き先を言っていない可能性もある。運転手に代わって貰って、確実にこちらに来る様に手配しろ」
「分かったわ」
 そして再度美子が美実相手に話を始めたのを横目で見ながら、秀明は淳に電話をかけた。しかしすぐに留守電に切り替わり、忌々しげに悪態を吐く。

「あの野郎……、こんな時に何をやってる。本当にくたばったわけじゃ無いだろうな?」
 いつもの彼らしくなく苛立っているところに、美子から緊迫した声がかけられた。

「あなた! 食事していた店で揉めたみたいで、渋谷の《カルベージュ》だそうよ!」
「分かった。これからそこの電話番号を調べて、店に様子を聞いてみる。どのみち騒ぎになっている筈だからな。運転手に代わって貰え」
「ええ。……美実、今車は走っている? 運転手さんに路肩に止めて貰って、電話を代わって貰いたいんだけど」
 それから検索をかけた秀明は、店に電話をかけて分かっている範囲での事情を聞き出し、謝罪して通話を終わらせると、既に通話を終わらせていたらしい美子が、無言で自分に視線を向けている事に気が付いた。それでまず先に、彼女の方に促してみる。

「どうだった?」
 すると美子は、何とも言い難い顔で口を開いた。
「やっぱり流しのタクシーを拾って、走り出してからすぐに電話をかけてきたみたいで、行き先を言って無かったわ。運転手さんにこちらの住所を教えて、送り届けて貰う様にお願いしたから。だけど、小早川さんの方は?」
「取り敢えず、殺人事件にはなっていないらしいな」
「それなら良かったけど……」
 当惑している美子に、秀明は溜め息を吐いて話を続けた。

「店の話では、個室で大声で言い争う声がしたので様子を見に行ったら、美実ちゃんが飛び出して来て、床に倒れて気絶していたあいつを放置して、そのまま店から出て行ったそうだ」
「気絶って……、一体何があったの?」
「少ししてから意識を取り戻したあいつから、店の人間が聞いた話では、空のワインボトルで頭を強打されたらしい」
 それを聞いた美子は、さすがに顔色を変えた。

「何ですって!? 下手したら死ぬじゃない!」
「死ぬまでは行かなくとも、怪我はするだろうな。だが幸いと言うか何と言うか、ボトルは空だったから衝撃は幾らかは軽かった筈だし、割れもしなかったからその破片で怪我をする事も無かったらしいが」
 そんな慰めにもならない事を言われても、当然美子の怒りがおさまる筈も無く、本気で腹を立てた。

「本当に、何をやっているのよ! お騒がせしたお詫びに、明日美実を連れてお店に出向いて、頭を下げてくるわ」
「そうだな。ところで淳の奴、意識を取り戻してから、すぐに店から姿を消したそうだ」
 そんな事を冷静に夫に報告され、美子もすぐに頭を冷やした。

「……ここに、向かっているのかしら?」
「おそらくはな」
 それに美子は、溜め息を吐いて応じる。

「明らかに、美実が帰って来る方が先でしょうね。怒るのは後回しにして、小早川さんが来る前に詳しい事情を聞いてみるわ」
「取り敢えず命に別状はないみたいだし、あまり怒るなよ?」
「内容によるわね」
 結構義妹に甘い秀明が宥めると、美子は僅かに顔を歪めた。
 そして待つ事暫し。門の前に車が停まる音が微かに聞こえてきた為、頃合いを見計らって玄関で待ち構えていた秀明と美子は、顔を見合わせた。

「帰って来たかしら?」
「そうらしいな。行ってみるか」
 そして二人で玄関を出て門まで向かうと、タクシーの後部座席から飛び出す様に出て来た美実と遭遇した。

「美子姉さぁぁん!!」
「ちょっと落ち着きなさい、美実」
「お客さん! 支払いをお願いします!」
 美子の顔を見るなり美実が抱き付き、盛大に声を上げて泣き出す。そしてタクシーから降り立って、困惑した声を出した運転手には、秀明が歩み寄った。

「すみません。義妹がお騒がせしました。デート先で恋人と痴話喧嘩をしてしまったらしく、勢いで殴った相手が倒れて気絶したのを、死んだと勘違いしただけなんです。本当に申し訳ありませんでした」
 そう言って深々と頭を下げた秀明を見て、彼は明らかにホッとした顔付きになって言葉を返した。

「あ、ああ……、そういう事でしたか。いや、どうしたら良いものかと、冷や汗が出ましたよ。思ったより大事じゃなくて、良かったです」
「ところで支払いを済ませていないんですよね? こちらをお受け取り下さい」
 そこで秀明が、手にしていた財布から三万円を取り出して運転手に差し出すと、相手は慌てて片手を振った。

「いえ、一万円でお釣りが出ますので、少々お待ち下さい」
「お釣りは要りません。余った分は今回の迷惑料代わりに、全額お納め下さい」
 三万を差し出したまま、にこやかに秀明が微笑んだ為、運転手は満面の笑みになってそれを受け取った。

「却って申し訳ありませんね。分かりました。ありがたく頂戴していきます」
 そして走り去るタクシーを見送ってから、秀明は独り言を口にしながらゆっくりと邸内に戻った。

「あれで、変な噂は立たないとは思うが……。さて、あいつが来る前に、茶でも飲んでおくか。今日はお義父さんが、泊まりがけの出張に出ていて助かった。こんな騒ぎを耳に入れたら、雷が落ちるだけでは済まないぞ」
 既に家の中に入っていたらしい妻と義妹の話の邪魔をせずに、秀明は一人でお茶を淹れ、のんびりとリビングで飲み始めた。すると二十分位して、秀明が飲み終えたカップを台所に持って来た所で、美子が顔を出す。

「美実ちゃんは? 一人にしておいて大丈夫か?」
 その問いかけに、美子は屈んで食器棚の下の引き戸を開けながら、淡々と答えた。

「美恵に頼んで、話の続きを聞いて貰っているわ」
「それなら、事情を聞いたのか?」
「大体は。だけど小早川さんの言い分もあるでしょうから、双方の意見を聞いてから、判断する事にするわ」
「そうか」
 そして取り出した物を両手で抱えて流しに移動した美子を見ながら、秀明は少し意外に思った。

(割と冷静だな……。本当に些細な痴話喧嘩だったのか? これなら淳が来ても、それほど酷い事にはならないか)
 そんな秀明の安堵感は、美子の手元を見た瞬間、呆気なく潰えた。

「……おい、美子」
「何?」
「どうして砥石を全部、水に浸けているんだ?」
 何年もの間、藤宮家で使われている種類の違う砥石が三個、水を張った洗い桶に沈んでいるのを見た秀明は顔を引き攣らせながら尋ねたが、それに予想通りの答えが返ってきた。

「どうしてって……。もう少ししたら、包丁を研ごうと思って。それがどうかしたの?」
「……いや、何でもない」
(駄目だ。冷静どころか、下手をすると血を見るぞ。あいつ一体、何をやらかしやがった!?)
 傍目には淡々と収納してある包丁を全て取り出し、研ぐ準備を始めた美子を見ながら、秀明は本気で頭を抱えた。そして更に十分程してから、門柱に取り付けてあるインターフォンの呼び出し音がひっきりなしに鳴り始める。

「来たか?」
 思わず呟いた秀明に、美子はビニールシートと濡れ布巾を乗せたお盆を持ち上げながら、秀明に頼んだ。
「あなた。小早川さんを出迎えて、奥の座敷に連れて来てくれない?」
「分かった」
 そして秀明が台所を出て行くのと入れ違いに、下の妹二人が怪訝な表情で顔を出した。

「あの、美子姉さん。何かあったの? 美実姉さんが大泣きしているみたいだけど」
「少し前に門の所に、車が停まってたよね? それに何だか門の呼び出し音が凄いし」
「美野、美幸。ちょうど良い所に。ちょっと手伝って貰えないかしら?」
 そこですかさず迫力の有り過ぎる笑顔を見せてきた美子に、下の妹二人は、盛大に顔を引き攣らせながら頷く。

「ええと……、はい」
「……何?」
 何をさせられるのかと二人は戦慄しながら、長姉の次の言葉を待った。
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