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67.昌典の怒り
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「お父さん、お帰りなさい。……あら? 秀明さんは一緒じゃなかったの?」
父と共に出張に出た筈の秀明が、何故か予定とは異なって帰宅しない事に美子は首を傾げたが、玄関から上がり込んだ昌典は、素っ気なく説明した。
「ああ。あいつには、別件で仕事を頼んでな。何日か帰宅が遅れる」
「そんな連絡、貰って無いけど?」
「俺が指示した通り、駈けずり回っているんだろう? 持つべきものは、従順な婿だな」
「……お父さん?」
口調は穏やかながらも、微妙に含み笑いを浮かべつつ物騒な気配を醸し出している父を見て、美子ははっきりと警戒心を覚えた。
「美実はまだ起きているだろう? 呼んできなさい」
「はい。じゃあ居間の方で良い?」
「ああ。そこで待っている。ついでに茶も淹れてくれ」
「分かったわ」
そして玄関先に荷物を置き、居間に向かった父親の背中を見送った美子は、微妙に緊張した表情で美実の部屋に向かった。
「美実、お父さんが帰って来たんだけど、あなたに話があるみたいなの。今から居間に行ってくれない?」
「それは構わないけど、何の話?」
読んでいた本から顔を上げて尋ねてきた妹に、美子は不安を隠せない様子で言葉を継いだ。
「それは分からないけど……、何かお父さんの様子が変なの。それにどうしてだか、同行していた筈の秀明さんが帰って来ないし」
それを聞いた美実は、意外そうな顔つきになった。
「あれ? 二人とも泊まりがけの出張だと聞いていたけど、お父さんとお義兄さんは同行していたの?」
「ええ。確か今回の出張は、新潟県内で計画している大規模な加工工場の起工式に立ち会いながら、現地の契約農家との懇談会や、県主催の産業観光業種の交流会やイベントに顔を出すとか言ってたわ。秀明さんは常務取締役の肩書き付きの、経営戦略本部資材統括部部長だし」
「泊まりがけで出かけても、スケジュールがびっしりっぽいわね。本当にご苦労様だわ。分かった、今行くから」
「お願いね」
そして本を閉じた美実に背を向けて、美子は茶を淹れるべく台所に向かった。しかしどうにもすっきりしないまま、独り言を呟く。
「確かにスケジュールはそれなりにタイトな筈なのに、別件の仕事を頼んだってどういう事かしら? 会社の通常業務だってある筈よね……」
そんな美子の疑問など当然分からなかった美実は、出張から帰宅した父親を労うため、笑顔で居間へと向かった。
「お父さん、お帰りなさい。出張ご苦労様でした。話って何?」
「ああ。ただいま。ちょっとそこに座りなさい」
「はい」
おとなしく父親の向かい側のソファーに座った美実だったが、それと同時に昌典が何気なく尋ねてきた。
「ところで美実、俺に何か話し忘れていない事は無いか?」
「え? 話し忘れている事?」
「ああ」
「無い、……と、思うけど?」
問われた理由が分からず、美実が当惑しながら答えると、昌典はその顔に不気味な笑みを浮かべながら、問いを重ねた。
「ほう? 本当に思い当たる節は無いと?」
「……う、うん」
(何? 何かお父さんの笑顔がもの凄く怖い! こんなの滅多に無いけど、美子姉さんが本気で怒った時の比じゃ無いかも!? 何? 私何か、そんなに拙い事を言い忘れてるの!?)
全く理由が分からないまま美実が狼狽していると、人数分の茶を淹れた美子が居間にやって来た。
「お待たせ。お茶を持って」
「美子も座りなさい」
「……はい」
話を遮られながら美子が美実の隣に腰を下ろし、各自の前に湯飲みを配ると、昌典はそれを取り上げて一口飲んでから、しみじみとした口調で言い出した。
「実は今回の出張先で、面白過ぎる事が起きてな? 県主催のパーティーで、小早川という夫婦が私に挨拶に来たんだ」
「それって……」
「淳のご両親が!?」
姉妹揃って顔色を変えたが、昌典は淡々と説明を続ける。
「いや、彼の姉夫婦だそうだ。いやはや、寝耳に水の話を聞かされて呆然としたぞ」
「一体、何を聞いたの?」
十分予想はできたものの、一応美子が尋ねてみると、昌典は底光りする目を彼女に向けた。
「それがな? 小早川君の母親が我が家に前触れなく押し掛けた時に、無礼を働いた事で私が腹を立て、その家がやっている旅館の営業妨害をしたばかりか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに和典に声をかけて、新潟県選出の代議士に圧力をかけたとか……。いやぁ、驚きだ。生きていると、どんな面妖な話に遭遇するか分からんな」
「あの、お父さん」
「それは……」
美子達は冷や汗を流しながら父親を宥めようと試みたが、昌典は低い声で話を続けた。
「それで彼の姉夫婦は、『自分達の非を認めて謝罪するので、自分達を含めた各所への嫌がらせを止めて欲しい』とか言われたが、私には全く覚えが無いし、さっぱり要領を得ない話でな。仕方がないから同じ会場にいた秀明を呼んで、尋ねてみたんだ。そうしたら、『わざわざお義父さんを不快にする必要は無いと判断して、敢えて報告していませんでした』と言うじゃないか」
少々わざとらしく両腕を広げながら説明した昌典を見て、美子達は盛大に顔を引き攣らせた。
(どうしてそこで、最後までしらを切らないのよ!?)
(お義兄さん!?)
内心で秀明を非難した二人の前で、昌典が冷静に話を続ける。
「それで『万事そつがないお前の事だから、勿論詳細な内容を把握しているな?』と尋ねたら、『チェックインした部屋に置いてある媒体に、その時の録音データを入れてあるので、ご希望ならお持ちします』と言われたから、会場に持って来て貰ったんだ。いや、本当に持つべきものは、万事手抜かりの無い婿だな」
そう秀明を誉めた後、「はっはっは」と薄ら寒い笑い声を上げた父を見て、美子達は揃って蒼白になった。
(あなた! 何て事をしてくれたの!?)
(例の、お母さんが色々言った時の暴言データを!! そんな物をお父さんに聞かせたりしたら!?)
するとここで、急に昌典が押し殺した口調になって、呻く様に声をかけてくる。
「美子……。美実……」
「……はい」
「何でしょうか?」
もう悪い予感しかしない二人が、それでも素直に応じると、昌典が二人を睨み付ける様にして話し出す。
「私は深美と結婚する時に、亡くなったお義父さんに言われた事がある」
「お祖父さんから聞いて知っているわ。『藤宮家と深美はお前に任せた。お前に商才が無くて、会社を潰しても構わん。先代の時に一度傾いて、貧乏暮らしも経験しているからな。しかし藤宮家の歴史と矜持を傷付ける事だけは許さん』ですよね?」
「その通りだ。そしてその時俺はお義父さんに、この家の名誉と身代を守る事を誓った」
美子の台詞に真顔で頷いた昌典は、ここで固く拳を握り締めながら、憤怒の形相で言い出した。
「それを……、公衆の面前で下品な成金風情と罵倒されたばかりか、美実の仕事にも散々ケチを付けられるとはな……」
「ちょっと待って、お父さん。公衆の面前って、まさかその会場で録音内容を聞いたの!?」
「私には何も恥じる所は無いからな。秀明は再生する前に、何やらごちゃごちゃ言っていたが」
(せめて人目のない所で再生できなかったの? 本当に何をやってるのよ!?)
(お義兄さん!? そんな物はビールグラスに突っ込んで沈黙させて!)
内心で悲鳴を上げた娘達には構わず、昌典は唸る様に言葉を継いだ。
「その挙げ句、暴力沙汰を引き起こした上、それを謝罪もしないとは何事だ。しかも俺がそれを逆恨みして、嫌がらせをするような品性下劣な人間だと、断言したも同然だぞ」
「いえ、断言まではしていないと思うし!」
「確かに本は投げられたけど、暴力沙汰と言う程の事では!」
「しかも和典まで同調して、与党内で画策しただろうとまで言われたとあっては、藤宮家に留まらず倉田家の矜持まで傷付けてくれたも同然だ。良くもあそこまで、人を馬鹿にしてくれたものだ」
「それは明らかに、何かの勘違いだと思うわ!」
「落ち着いて話し合えば、誤解も解けると思うけど!」
動揺しながらも、精一杯淳の姉夫婦を弁護した美子達だったが、昌典は全く聞く耳持たなかった。
「それで『驚きました。家長の筈の私が、こんな重大な事を把握していないとは。娘や婿に随分なめられたものです』と周囲に向かって苦笑したら、秀明が『誠に申し訳ありません』と最敬礼してな。俺達の周りを囲んで一部始終を見聞きしていた県知事や代議士、観光協会の会長やら工場を誘致した市長やらが、皆真っ青になっていた」
「……なるでしょうね」
「おっ、お父さん!? あのっ! それでお姉さん夫婦は……」
美子は半ば諦めてしまったが、美実は恐る恐る尋ねてみた。すると昌典が、薄笑いを浮かべながら、それに応じる。
「話を聞いても、やはり全く見に覚えの無い事だったし、その旨を告げた上で、『同じ経営者として、従業員に責任を果たさなければならない辛い立場は良く分かります。どこからどの様な恨みを買ったかは分かりませんが、ここでお会いしたのも何かの縁。傾いているとお伺いしたお宅の旅館を、従業員込みの居抜きで買い取って差し上げましょう。ご安心下さい』と提案した」
「お父さん!?」
「公然と買収話を持ちかけたの!?」
その物騒過ぎる話に姉妹揃って声を荒げたが、昌典は満足げに頷いてみせた。
「よほど喜んで安心して頂けた様で、夫婦揃ってふらついてその場に座り込まれたので、周りの方々に引きずられる様にして会場を後にしておられた。いや、良い事をした後は、実に気分が良いな」
そう言って満足げに茶碗に手を伸ばし、再び茶を飲み始めた父親を美実は呆然と見やったが、美子はある可能性に思い至り、慌てて問い質した。
「お父さん! まさか秀明さんに頼んだ別件の仕事って、その旅館の買収話じゃ無いでしょうね!?」
それを聞いた美実がギョッとした顔になって、父と姉の顔を交互に見やると、昌典は静かに茶碗をテーブルに戻しながら、楽しげに告げた。
「そのパーティーは一昨日の事でな。昨日から本来のスケジュールをこなしつつ各方面を調整して、今日司法書士と不動産鑑定士を同伴して乗り込んだそうだ。いやぁ本当に、持つべきものは有能な婿だな」
そう言ってカラカラと笑う父親を見て、美子達は無言で項垂れた。
(もう駄目だわ……)
(お義兄さんができる人なのは知ってるけど、こんな所でその有能ぶりを発揮しなくても!)
もう言葉無い娘達に向かって、昌典が素っ気なく言い放つ。
「そういう事だから美実。私はこれ以上、先方と関わるつもりは無い。そのつもりでいろ」
「そ、そのつもりって……」
「美子。風呂は?」
「沸いているわ」
「じゃあ疲れたから、入って寝るからな。明日の朝はいつも通りだ」「分かったわ。おやすみなさい」
「ああ」
「お父さん、ちょっと待って!」
淡々と美子と会話して腰を上げた昌典を、美実は慌てて追いかけようとしたが、それを美子が引き止めた。
「無駄よ。止めなさい、美実」
「でも!」
「それよりも……、一体何をやってるのよ!?」
そして妹の目の前で携帯電話を取り出して電話をかけはじめた美子は、相手が出るなり盛大に怒鳴りつけた。
「あなた!! 家に帰らずに、何をやってるの!!」
その剣幕で、事の次第を正確に理解した秀明が、冷静に言葉を返してくる。
「ああ、お義父さんから聞いたか……」
「『聞いたか』じゃ無いわよっ! どうしてお父さんの無茶振りに、唯々諾々と従っているの!?」
それは美子にしてみれば当然の怒りだったのだが、妻が怒る事は予想していた秀明は、落ち着き払って言葉を返した。
「美子……。今まで口にした事は無かったが、俺にはこれまでの人生の中で、この人には敵わないと思った人間が三人存在している」
「はい?」
「深美さんを今でも敬愛しているし、加積のじじいは畏怖するしか無く、お義父さんの事は尊敬している」
「だから何?」
「下手に隠し立てして、お義父さんに切り捨てられるのは御免だ。あの人はいざとなったら、苛烈極まりない人だからな。切り捨てるなら、迷わず淳との友情の方にする」
きっぱりとそんな事を断言してきた夫に、美子は本気で頭痛を覚えた。
「父をそこまで尊敬してくれているのは嬉しいし、性格を完全に把握してくれているのは助かるけど、いつもの傍若無人なあなたはどこに行ったのよ!?」
「どこかに旅に出た」
「つまらない冗談を言ってる場合じゃ無いでしょう!?」
更に声を荒げた美子だったが、秀明は冷静に報告を続けた。
「そういう事だから、ちょっと淳の実家周辺に噂を幾つか流して、主だった従業員に引き抜き話を持ち掛けて、他にも色々揺さぶってから明後日帰る。それじゃあな」
「あ、ちょっと、あなた!?」
慌てて尚も問い詰めようとした美子だったが、そこで通話が途切れ、顔色を悪くしながら振り返った。
「美実……。小早川さんの実家、相当危なそうだわ……」
「美子姉さん!?」
「取り敢えず、小早川さんに電話して聞いてみたら? 実家から連絡が入っているかもしれないし」
「う、うん! 今かける!」
動揺しまくりの美実が慌てて淳に電話をかけてみたが、どうしてだか全く繋がらなかった。
「繋がらない……。どうしよう、美子姉さん……」
おろおろしながら判断を求めてきた妹に対し、美子は溜め息を吐いて宥める。
「取り敢えず、もう遅い時間だし、今日はもう寝て明日にしましょう。暫くは朝晩、お父さんの好きなものを作って出すから。少しでも機嫌が良い時に、改めて話をしないとね」
「う、うん。そうだよね。明日落ち着いて頭の中を整理してから、淳と連絡を取ってみるから」
「そうしなさい」
女二人はそう意見を纏め、取り敢えず翌日以降の事として寝る支度をする為に居間を後にしたが、正にその時、淳が実家から驚愕の連絡を受けていた。
父と共に出張に出た筈の秀明が、何故か予定とは異なって帰宅しない事に美子は首を傾げたが、玄関から上がり込んだ昌典は、素っ気なく説明した。
「ああ。あいつには、別件で仕事を頼んでな。何日か帰宅が遅れる」
「そんな連絡、貰って無いけど?」
「俺が指示した通り、駈けずり回っているんだろう? 持つべきものは、従順な婿だな」
「……お父さん?」
口調は穏やかながらも、微妙に含み笑いを浮かべつつ物騒な気配を醸し出している父を見て、美子ははっきりと警戒心を覚えた。
「美実はまだ起きているだろう? 呼んできなさい」
「はい。じゃあ居間の方で良い?」
「ああ。そこで待っている。ついでに茶も淹れてくれ」
「分かったわ」
そして玄関先に荷物を置き、居間に向かった父親の背中を見送った美子は、微妙に緊張した表情で美実の部屋に向かった。
「美実、お父さんが帰って来たんだけど、あなたに話があるみたいなの。今から居間に行ってくれない?」
「それは構わないけど、何の話?」
読んでいた本から顔を上げて尋ねてきた妹に、美子は不安を隠せない様子で言葉を継いだ。
「それは分からないけど……、何かお父さんの様子が変なの。それにどうしてだか、同行していた筈の秀明さんが帰って来ないし」
それを聞いた美実は、意外そうな顔つきになった。
「あれ? 二人とも泊まりがけの出張だと聞いていたけど、お父さんとお義兄さんは同行していたの?」
「ええ。確か今回の出張は、新潟県内で計画している大規模な加工工場の起工式に立ち会いながら、現地の契約農家との懇談会や、県主催の産業観光業種の交流会やイベントに顔を出すとか言ってたわ。秀明さんは常務取締役の肩書き付きの、経営戦略本部資材統括部部長だし」
「泊まりがけで出かけても、スケジュールがびっしりっぽいわね。本当にご苦労様だわ。分かった、今行くから」
「お願いね」
そして本を閉じた美実に背を向けて、美子は茶を淹れるべく台所に向かった。しかしどうにもすっきりしないまま、独り言を呟く。
「確かにスケジュールはそれなりにタイトな筈なのに、別件の仕事を頼んだってどういう事かしら? 会社の通常業務だってある筈よね……」
そんな美子の疑問など当然分からなかった美実は、出張から帰宅した父親を労うため、笑顔で居間へと向かった。
「お父さん、お帰りなさい。出張ご苦労様でした。話って何?」
「ああ。ただいま。ちょっとそこに座りなさい」
「はい」
おとなしく父親の向かい側のソファーに座った美実だったが、それと同時に昌典が何気なく尋ねてきた。
「ところで美実、俺に何か話し忘れていない事は無いか?」
「え? 話し忘れている事?」
「ああ」
「無い、……と、思うけど?」
問われた理由が分からず、美実が当惑しながら答えると、昌典はその顔に不気味な笑みを浮かべながら、問いを重ねた。
「ほう? 本当に思い当たる節は無いと?」
「……う、うん」
(何? 何かお父さんの笑顔がもの凄く怖い! こんなの滅多に無いけど、美子姉さんが本気で怒った時の比じゃ無いかも!? 何? 私何か、そんなに拙い事を言い忘れてるの!?)
全く理由が分からないまま美実が狼狽していると、人数分の茶を淹れた美子が居間にやって来た。
「お待たせ。お茶を持って」
「美子も座りなさい」
「……はい」
話を遮られながら美子が美実の隣に腰を下ろし、各自の前に湯飲みを配ると、昌典はそれを取り上げて一口飲んでから、しみじみとした口調で言い出した。
「実は今回の出張先で、面白過ぎる事が起きてな? 県主催のパーティーで、小早川という夫婦が私に挨拶に来たんだ」
「それって……」
「淳のご両親が!?」
姉妹揃って顔色を変えたが、昌典は淡々と説明を続ける。
「いや、彼の姉夫婦だそうだ。いやはや、寝耳に水の話を聞かされて呆然としたぞ」
「一体、何を聞いたの?」
十分予想はできたものの、一応美子が尋ねてみると、昌典は底光りする目を彼女に向けた。
「それがな? 小早川君の母親が我が家に前触れなく押し掛けた時に、無礼を働いた事で私が腹を立て、その家がやっている旅館の営業妨害をしたばかりか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに和典に声をかけて、新潟県選出の代議士に圧力をかけたとか……。いやぁ、驚きだ。生きていると、どんな面妖な話に遭遇するか分からんな」
「あの、お父さん」
「それは……」
美子達は冷や汗を流しながら父親を宥めようと試みたが、昌典は低い声で話を続けた。
「それで彼の姉夫婦は、『自分達の非を認めて謝罪するので、自分達を含めた各所への嫌がらせを止めて欲しい』とか言われたが、私には全く覚えが無いし、さっぱり要領を得ない話でな。仕方がないから同じ会場にいた秀明を呼んで、尋ねてみたんだ。そうしたら、『わざわざお義父さんを不快にする必要は無いと判断して、敢えて報告していませんでした』と言うじゃないか」
少々わざとらしく両腕を広げながら説明した昌典を見て、美子達は盛大に顔を引き攣らせた。
(どうしてそこで、最後までしらを切らないのよ!?)
(お義兄さん!?)
内心で秀明を非難した二人の前で、昌典が冷静に話を続ける。
「それで『万事そつがないお前の事だから、勿論詳細な内容を把握しているな?』と尋ねたら、『チェックインした部屋に置いてある媒体に、その時の録音データを入れてあるので、ご希望ならお持ちします』と言われたから、会場に持って来て貰ったんだ。いや、本当に持つべきものは、万事手抜かりの無い婿だな」
そう秀明を誉めた後、「はっはっは」と薄ら寒い笑い声を上げた父を見て、美子達は揃って蒼白になった。
(あなた! 何て事をしてくれたの!?)
(例の、お母さんが色々言った時の暴言データを!! そんな物をお父さんに聞かせたりしたら!?)
するとここで、急に昌典が押し殺した口調になって、呻く様に声をかけてくる。
「美子……。美実……」
「……はい」
「何でしょうか?」
もう悪い予感しかしない二人が、それでも素直に応じると、昌典が二人を睨み付ける様にして話し出す。
「私は深美と結婚する時に、亡くなったお義父さんに言われた事がある」
「お祖父さんから聞いて知っているわ。『藤宮家と深美はお前に任せた。お前に商才が無くて、会社を潰しても構わん。先代の時に一度傾いて、貧乏暮らしも経験しているからな。しかし藤宮家の歴史と矜持を傷付ける事だけは許さん』ですよね?」
「その通りだ。そしてその時俺はお義父さんに、この家の名誉と身代を守る事を誓った」
美子の台詞に真顔で頷いた昌典は、ここで固く拳を握り締めながら、憤怒の形相で言い出した。
「それを……、公衆の面前で下品な成金風情と罵倒されたばかりか、美実の仕事にも散々ケチを付けられるとはな……」
「ちょっと待って、お父さん。公衆の面前って、まさかその会場で録音内容を聞いたの!?」
「私には何も恥じる所は無いからな。秀明は再生する前に、何やらごちゃごちゃ言っていたが」
(せめて人目のない所で再生できなかったの? 本当に何をやってるのよ!?)
(お義兄さん!? そんな物はビールグラスに突っ込んで沈黙させて!)
内心で悲鳴を上げた娘達には構わず、昌典は唸る様に言葉を継いだ。
「その挙げ句、暴力沙汰を引き起こした上、それを謝罪もしないとは何事だ。しかも俺がそれを逆恨みして、嫌がらせをするような品性下劣な人間だと、断言したも同然だぞ」
「いえ、断言まではしていないと思うし!」
「確かに本は投げられたけど、暴力沙汰と言う程の事では!」
「しかも和典まで同調して、与党内で画策しただろうとまで言われたとあっては、藤宮家に留まらず倉田家の矜持まで傷付けてくれたも同然だ。良くもあそこまで、人を馬鹿にしてくれたものだ」
「それは明らかに、何かの勘違いだと思うわ!」
「落ち着いて話し合えば、誤解も解けると思うけど!」
動揺しながらも、精一杯淳の姉夫婦を弁護した美子達だったが、昌典は全く聞く耳持たなかった。
「それで『驚きました。家長の筈の私が、こんな重大な事を把握していないとは。娘や婿に随分なめられたものです』と周囲に向かって苦笑したら、秀明が『誠に申し訳ありません』と最敬礼してな。俺達の周りを囲んで一部始終を見聞きしていた県知事や代議士、観光協会の会長やら工場を誘致した市長やらが、皆真っ青になっていた」
「……なるでしょうね」
「おっ、お父さん!? あのっ! それでお姉さん夫婦は……」
美子は半ば諦めてしまったが、美実は恐る恐る尋ねてみた。すると昌典が、薄笑いを浮かべながら、それに応じる。
「話を聞いても、やはり全く見に覚えの無い事だったし、その旨を告げた上で、『同じ経営者として、従業員に責任を果たさなければならない辛い立場は良く分かります。どこからどの様な恨みを買ったかは分かりませんが、ここでお会いしたのも何かの縁。傾いているとお伺いしたお宅の旅館を、従業員込みの居抜きで買い取って差し上げましょう。ご安心下さい』と提案した」
「お父さん!?」
「公然と買収話を持ちかけたの!?」
その物騒過ぎる話に姉妹揃って声を荒げたが、昌典は満足げに頷いてみせた。
「よほど喜んで安心して頂けた様で、夫婦揃ってふらついてその場に座り込まれたので、周りの方々に引きずられる様にして会場を後にしておられた。いや、良い事をした後は、実に気分が良いな」
そう言って満足げに茶碗に手を伸ばし、再び茶を飲み始めた父親を美実は呆然と見やったが、美子はある可能性に思い至り、慌てて問い質した。
「お父さん! まさか秀明さんに頼んだ別件の仕事って、その旅館の買収話じゃ無いでしょうね!?」
それを聞いた美実がギョッとした顔になって、父と姉の顔を交互に見やると、昌典は静かに茶碗をテーブルに戻しながら、楽しげに告げた。
「そのパーティーは一昨日の事でな。昨日から本来のスケジュールをこなしつつ各方面を調整して、今日司法書士と不動産鑑定士を同伴して乗り込んだそうだ。いやぁ本当に、持つべきものは有能な婿だな」
そう言ってカラカラと笑う父親を見て、美子達は無言で項垂れた。
(もう駄目だわ……)
(お義兄さんができる人なのは知ってるけど、こんな所でその有能ぶりを発揮しなくても!)
もう言葉無い娘達に向かって、昌典が素っ気なく言い放つ。
「そういう事だから美実。私はこれ以上、先方と関わるつもりは無い。そのつもりでいろ」
「そ、そのつもりって……」
「美子。風呂は?」
「沸いているわ」
「じゃあ疲れたから、入って寝るからな。明日の朝はいつも通りだ」「分かったわ。おやすみなさい」
「ああ」
「お父さん、ちょっと待って!」
淡々と美子と会話して腰を上げた昌典を、美実は慌てて追いかけようとしたが、それを美子が引き止めた。
「無駄よ。止めなさい、美実」
「でも!」
「それよりも……、一体何をやってるのよ!?」
そして妹の目の前で携帯電話を取り出して電話をかけはじめた美子は、相手が出るなり盛大に怒鳴りつけた。
「あなた!! 家に帰らずに、何をやってるの!!」
その剣幕で、事の次第を正確に理解した秀明が、冷静に言葉を返してくる。
「ああ、お義父さんから聞いたか……」
「『聞いたか』じゃ無いわよっ! どうしてお父さんの無茶振りに、唯々諾々と従っているの!?」
それは美子にしてみれば当然の怒りだったのだが、妻が怒る事は予想していた秀明は、落ち着き払って言葉を返した。
「美子……。今まで口にした事は無かったが、俺にはこれまでの人生の中で、この人には敵わないと思った人間が三人存在している」
「はい?」
「深美さんを今でも敬愛しているし、加積のじじいは畏怖するしか無く、お義父さんの事は尊敬している」
「だから何?」
「下手に隠し立てして、お義父さんに切り捨てられるのは御免だ。あの人はいざとなったら、苛烈極まりない人だからな。切り捨てるなら、迷わず淳との友情の方にする」
きっぱりとそんな事を断言してきた夫に、美子は本気で頭痛を覚えた。
「父をそこまで尊敬してくれているのは嬉しいし、性格を完全に把握してくれているのは助かるけど、いつもの傍若無人なあなたはどこに行ったのよ!?」
「どこかに旅に出た」
「つまらない冗談を言ってる場合じゃ無いでしょう!?」
更に声を荒げた美子だったが、秀明は冷静に報告を続けた。
「そういう事だから、ちょっと淳の実家周辺に噂を幾つか流して、主だった従業員に引き抜き話を持ち掛けて、他にも色々揺さぶってから明後日帰る。それじゃあな」
「あ、ちょっと、あなた!?」
慌てて尚も問い詰めようとした美子だったが、そこで通話が途切れ、顔色を悪くしながら振り返った。
「美実……。小早川さんの実家、相当危なそうだわ……」
「美子姉さん!?」
「取り敢えず、小早川さんに電話して聞いてみたら? 実家から連絡が入っているかもしれないし」
「う、うん! 今かける!」
動揺しまくりの美実が慌てて淳に電話をかけてみたが、どうしてだか全く繋がらなかった。
「繋がらない……。どうしよう、美子姉さん……」
おろおろしながら判断を求めてきた妹に対し、美子は溜め息を吐いて宥める。
「取り敢えず、もう遅い時間だし、今日はもう寝て明日にしましょう。暫くは朝晩、お父さんの好きなものを作って出すから。少しでも機嫌が良い時に、改めて話をしないとね」
「う、うん。そうだよね。明日落ち着いて頭の中を整理してから、淳と連絡を取ってみるから」
「そうしなさい」
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