裏腹なリアリスト

篠原皐月

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77.桜査警公社の動揺

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「今日は宜しくお願いします、飯島さん」
「はい、精一杯務めさせて頂きます」
 日下部の進言により、次の美実の外出時には彼よりも若い飯島が担当になる事になったが、当の本人は内心で密かに困惑していた。

(しかし、どうしてこの人の担当が、日下部さんから俺に変わったんだ? 別に問題がある様には見えないし、日下部さんからは宜しく頼むと頭を下げられたが、理由が分からん)
 日下部よりかなり若い、三十代前半の彼は、経験と実績は遥かに及ばない相手からの引継ぎを不思議に思って、チラリと横を歩く美実を見下ろす。

(それは妊婦だし、確かに普通よりは気を遣うが、別に我が儘な振る舞いをする事も無いし、礼儀正しい女性だよな? 不安要素があるとすれば……、彼女があの会長の妹さんって事位だが。この前の信用調査部門での一悶着は、伝え聞いただけでも肝を冷やしたぞ。あの小野塚部長補佐を、馬扱い……)
 思わずその光景を脳裏に思い描いた瞬間、飯島は顔を青ざめさせて身震いしたが、何やら異常を察知したらしい美実が、彼を見上げて心配そうに声をかけてきた。

「あの、飯島さん、大丈夫ですか?」
「え? な、何がでしょうか?」
「何だか顔色が悪くありませんか? どこか本調子で無いなら、無理なさらなくて結構ですよ? 私は別に異常はありませんから、一人でも大丈夫ですし」
 そんな事を殊勝に申し出られて、飯島は瞬時に気を引き締めた。

(いかんいかん、護衛対象者に気を遣わせてどうする! 気合い入れろ、俺はプロだぞ!)
 そしてすぐさま笑顔になって、美実の懸念を打ち消す。

「大した事ではありませんので、お気遣いなく。……ああ、宝玉社はここですね。それでは入りましょうか」
「そうですか? それでは暫く退屈だとは思いますが、お付き合い下さい」
「勿論です。不測の事態に備えて、付き従うのが我々の仕事ですので」
(全く、些末な事に気を取られている場合じゃないぞ)
 そのまま笑顔を絶やさず飯島は美実と一緒に、並んで歩いて行った。

「木原さん、お邪魔します」
「紫堂先生、日を置かずにお呼び立てして、本当にすみません」
「それはこちらの都合ですから。さすがに来月になったら、そうそう出歩く事もできませんし、色々予定を前倒ししていますし」
「はい。あと一・二回で当面の作業の目処は付けますので。……ところで、今日の付き添いの方は、前の方と違うんですね」
 挨拶に続いて、飯島について触れてきた木原に、美実は笑顔で説明を加えた。

「はい、今回は飯島さんに付いて来て貰いました」
「仕事のお邪魔は致しませんので、宜しくお願いします」
「飯島さんのような方なら、いつでも大歓迎ですからお気になさらず。どうぞお座り下さい」
「はあ、どうも」
 内心で(俺の様な人間なら、どうしていつでも大歓迎なんだろう?)と疑問に思ったものの、飯島は特に突っ込まずにソファーに座ろうとした。

「それでは紫堂先生。九作目のプロット確認に入る前に、こちらの八作目の原稿で、手直しをして貰いたい所がありまして」
「え? どこですか?」
「きゃあ! いい身体! 絶対脱がせたら凄いよね!」
「確かに、着痩せするタイプ。細マッチョとみた」
「……え?」
 先にソファーに座った美実達が、早速真剣な面持ちで打ち合わせに入る中、自身の至近距離で複数の黄色い声が発生した為、飯島は固まった。そのまま腕を取られて、半ば茫然としているうちに、ソファーのあるスペースから引っ張り出される。

「ここのソファーじゃ狭いですから、こちらにどうぞ!」
「そうですね。先生のお邪魔になったらいけませんし」
「木原先輩! こちらの方は、私達が責任を持って接待しますから!」
「宜しくね。……それで先生、ここの表現なんですが」
「所謂、自主規制という事ですか? でも、この書き方でこれまでは特に問題は無かったかと思いますが」
「確かにそうなんですが、最近社内での検閲体制が強化されまして」
「でもそうなると、他にも指摘された所がありませんか?」
「実はそうなんです。それで、きちんとご説明したくて」
 後輩の呼びかけに、心ここにあらずと言った風情で木原が応じ、美実も該当する原稿箇所を凝視したまま意見を口にする。そのやり取りを中断させるのは、心苦しかった飯島は、自力で性陣の包囲網をなんとかしようと試みた。

「それではどうぞこちらに!」
「いえ、あの……、私は、常に護衛対象の側近くに待機しているのが」
「聞いた!?」
「聞いた聞いた! 『おれ』とか『わたし』じゃなくて、『わたくし』だよ!?」
「リア従者よ、従者!」
「本当に『君は光、僕は影』の世界よねっ!?」
「いえ、ですから、従者では無くて、護衛」
「や~ん、やっぱり胸板厚そう! これはじっくり愛でないと!」
「ですよね! 最近の男どもって、なよなよしたのばっかりで!」
「本当に、鑑賞に耐える身体を持ってない奴らばかりよね」
「そういう訳ですから、どうぞこちらに」
「全然意味が分かりませんから! あの、藤宮様!」
 全く話が通じない為、飯島は切羽詰まった叫びを上げたが、完全に仕事モードに突入している美実の耳には届かなかった。

「……ここも駄目ですか。あからさまな描写じゃ無いんですけどね」
「私も、これのどこが倫理規定に引っかかるのか、くそジジイ共の襟首を締め上げたい気分なんですが」
「でもとにかく、訂正は入れないといけませんよね……」
「一応こちらで、変更案を作ってみましたので」
(駄目だ。二人とも、こっちの騒ぎがまるで聞こえていない……。護衛対象者に危害を加えられる可能性は皆無なのに、丸腰の女性相手に暴力を振るう事はできないし、どうしたら良いんだ!?)
 完全に想定外の事態に、飯島が進退窮まる中、彼は女性四人がかりで隅の資料室に連れ込まれる羽目になった。

「やっぱり、この弾力最高!」
「いや~ん、私にも触らせて!」
「腹筋も良いけど、私はどっちかって言うと、お尻から太ももにかけてのラインかな」
「それなら、ちょっと下も脱いで貰う?」
「あの、ちょっと、本当に止めて下さい! ベルトから手を離して」
「君達、何をやってるんだ?」
 狭い資料室で飯島が女性達と必死の攻防戦を展開していると、唐突にそのドアが開き、顔を見せた男性が呆れ気味の声をかけてきた。それを聞いた女性達が揃って背後を振り返り、悪びれない挨拶をする。

「あ、編集長」
「お帰りなさい。会議はもう終わったんですか?」
「騒いでないで、さっさと席に戻りたまえ」
「編集長、でも」
「お客様に失礼な事をするな」
 何か言いかけた部下を上条は一睨みすると、彼女達は揃って残念そうに立ち上がった。

「……分かりました」
「失礼します」
 そして飯島が(助かった)と内心で安堵しながら、慌てて半裸になっている服装を整えていると、上条が深々と頭を下げてきた。

「申し訳ありません。部下が大変失礼を致しました」
「……いえ、実害はありませんでしたので」
「恐縮です」
 ここで上条が苦笑いをしながら、しみじみと言い出した。

「しかし、本当に良い身体をしていらっしゃいますね」
「え?」
「お見受けしたところ、紫堂先生の護衛の方だと思われますが」
「あ、はい。その通りです。今日は私が担当でして」
「さすがに身体が資本のお仕事をされていらっしゃる。少々羨ましいですね」
(何だ? 悪寒、と言うか……。さっきまでとは違う、本能的な恐怖を感じる。何なんだ、この男。優男風なのに……)
 薄笑いをしながら自分を見下ろしてきた上条に、飯島は何故か得体の知れない不気味さを感じた。しかしそれは一瞬で、上条が最初の人当たりの良い笑顔を浮かべながら、資料室から出て行く。

「それでは衣服を整えましたら、出て来て下さい。珈琲を淹れておきますので、宜しかったらそれを飲みながら休憩でも」
「はぁ……、ありがとうございます」
 そして取り敢えずの危機を脱した飯島は、激しく脱力しながら元通り服装を整えたのだった。

「先生、お疲れ様でした」
「この次までに、例の所だけでも手直ししておきますね」
 そして何事も無かったかのように木原と別れた美実は、編集室を出て並んで歩き出した所で、飯島に声をかけた。

「飯島さん、何だかお疲れの様ですが、大丈夫ですか?」
「ああ、いえ、大した事は……。それよりも藤宮様。あそこの編集長は、ボディビルとかに興味がおありなんですか?」
「ボディビル? 特にそんな話は、聞いた事はありませんが」
「そうですか。少し筋肉とかに興味をお持ちのようだったので」
 色々ぼかして尋ねてみた飯島に、美実は首を捻りながら、以前耳にした内容を思い返した。

「興味と言うか……、確か奥様がムキムキマッチョ系がお好きで、幾ら頑張っても筋肉が付かないタイプの自分が口説き落とすのが大変だったと零していたって、木原さんから聞いた事がありますね」
「へえ……、そうなんですか」
「それで、バランス良く筋肉が付いている男性を見ると、ついつい嫉妬と殺気の眼差しを送ってしまうとか。それだけきっと、奥様の事が大好きなんでしょうね。とっても微笑ましいエピソードです」
 にこにこと断言した美実だったが、それを聞いた飯島は、心の中で悲鳴を上げた。

(いや、そのエピソード、全然微笑ましく無いし! それに何か、常人とは思えない目線と眼力だったんですが!? しかも、あのピラニアもどきの女達は何なんだ!! 編集長が淡々としていたし、あれが通常運転なのか!? 今回は助かったが、今度編集長が居なかったり、変な嫉妬をされて制止されなかったりしたら、俺はどうなるんだ!?)
 しかし彼の心情など全く分からなかった美実が、不思議そうに尋ねてきた。

「でも、それがどうかしましたか?」
「いえ……、何でもありません」
「そうですか。それではお屋敷までお願いします」
「……了解しました」
 それから飯島は何とか笑顔を保ちつつ、美実を無事に加積邸まで送り届けた。

「只今戻りました」
「ああ、飯塚、ご苦労。急に引継ぎをさせて悪かったな。護衛中、何か異常か支障は無かったか?」
「特に問題はありません。無事に屋敷に送り届けました」
 帰社してからすぐに報告に来た飯島に、警備部門部長の杉本は満足そうに頷いた。

「それなら良かった。これからも引き続き頼むぞ」
「あの、その事なのですが……」
「どうした?」
 疑似感を覚えながら杉本が尋ね返すと、飯島が大きな体を微妙に縮こまらせながら、控え目に意見を述べた。

「僭越ですが、次回から警護担当者を変更した方が良いのではと思いまして」
「日下部は特に何も言わなかったが、やはり何か問題があったのか?」
「いえ、決してそのような事は。ただ帰り道で藤宮様からお伺いしたお話では、近々妊婦健診にも出向く予定だそうで、そうしますと産婦人科の待合室で待機しますと、余計な人目を浴びる可能性が……」
 偶々、話の中に出てきた項目を挙げて、飯島がこれ幸いと訴えると、杉本は真顔で考え込んだ。

「なるほど……。それはそうだな。離れて護衛と言うのも、付いている意味合いが薄れるし。こちらで護衛対象者の事情に合わせるのも当然だ。特S対象者だから、取り敢えずそれにふさわしい人材を充てていたが、今後は女性の中で条件に合致する者を配置しよう」
「差し出がましい事を申しました。宜しくお願いします」
 そこで飯島は心底安堵しながら頭を下げ、軽い足取りで自分の席へと戻って行った。
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