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第40話 仮想兄妹
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日曜日の午前中、目的地に到着する直前で受けたメールの内容を確認した貴子は、ただでさえ上機嫌と言えなかった機嫌が急降下したのを自覚した。そして勢いに任せ、送信者である弟に歩きながら電話をかける。
「孝司、さっきのメール、あれは転送メールよね? 一応聞いてあげるわ。一体、誰からのメールを転送したのかしら?」
電話越しでも、押し殺した口調から貴子の怒りを感じ取ったらしい孝司は、若干怖じ気づきながら答えた。
「は、ははっ……、榊さんからだって、分かってるくせに。相変わらずお茶目だな~、姉貴は」
「朝から怒らせないで。どうしてあいつからのメールを転送してくるわけ?」
「榊さんに頼まれたから」
なんとか怒りを堪えつつ貴子が話を続けたが、孝司が事も無げに言った内容に脱力しそうになった。
「サラッと分かりきった事言わないで。何であんたがそんな事をする必要があるのかと、あのわけが分からない内容の意味を説明して欲しいんだけど?」
「そりゃあ俺、榊さんと友達になったから。友達から頼まれたら、嫌とは言えないさ」
変わらず平然と言ったのけた孝司に、とうとう貴子が怒りを露わにした。
「あんたのその《袖擦り合ったら誰でも友達》的な交友関係は、いい加減に改めなさい!」
「それから姉貴、部屋の本棚に東野薫の本、結構置いてあっただろ」
「それが何?」
いきなりの話題の転換に、何事かと思いつつ貴子が素直に応じると、孝司が予想外の事を言い出す。
「東野薫って、榊さんの大学時代の後輩なんだって」
「へえ? それは初耳だわ」
本気で驚いた貴子だったが、孝司の次の台詞で顔を引き攣らせた。
「それで榊さんが東野薫に『頭は良いが可愛げが無くてひねくれてる女が読むような本はあるか』と尋ねたら、『大衆受けを狙わずに、趣味と遊びでそういう女を対象に好き勝手書いてお蔵入りにした原稿があるので、欲しいのなら百万で売ります』と言われたとかで」
「何よそれ! ふざけんじゃ無いわよ!!」
「それでそのデータを少しずつ送信するから、姉貴に転送してくれって」
「あのね……」
反射的に足を止めて怒鳴りつけてしまった貴子に、周囲の人間が怪訝な顔を向ける。しかしそんな視線に気が付かないまま、貴子は何とか怒りを抑えながら話を続けた。
「それは分かったけど、どうして件名が『今日は晴れ』なわけ?」
「いや、それは俺にも意味不明だったんだけど……、取り敢えずそのまま転送しようかな~って」
「二度と送ってこないで!!」
へらっと笑いを含んだ声で言われてしまった為、貴子は苛立たしげに通話を終わらせた。そしてそこでちょうど改札口に到達した為、一度バッグに携帯をしまって改札を抜ける。
予定時間にはまだ余裕を持って駅の西口にやって来た貴子だったが、休日だけあって人波が途切れる事無く、待ち合わせをしている人数もかなりの物であり、貴子は僅かに顔をしかめて再び携帯を取り出した。
「全く孝司の奴……。そういえば祐司にも、一言言っておかないと気が済まないわ」
ぶつぶつと文句を言いながら祐司の番号を選択し、貴子は周囲に目を向けながら話し出した。
「もしもし、祐司?」
「ああ、姉貴、どうした? 今日葛西さんと会う日だろ?」
不思議そうに問い返され、貴子は思わず溜め息を吐いてから、うんざりした様に言い出す。
「あのね、あんたから聞いた待ち合わせ場所に、待ち合わせ時間十分前に着いたんだけど、ただでさえ休日で人出が多い渋谷駅前で、写真も無いのに『三十代半ば、身長百七十から七十五cmの男』を探すって、ちょっと無茶じゃない? ここ、有名な待ち合わせスポットなのよ? 間違えて別人に声をかける様な、間抜けな事はしたくないんだけど。事前に写メール位送って寄越しなさいよ」
貴子が恨みがましく述べると、祐司は一応謝りながらも、困った様に弁解してきた。
「確かに、写真を送るのを忘れていて悪かったよ。う~ん、でも葛西さんはテレビで姉貴の顔を知ってるし、あの人なら十分人目を引く筈なんだよな」
「どういう意味で目立つのよ?」
「華やか、とも少し違うけど、声をかけやすいと言うか何と言うか……。犬に例えると榊さんはジャーマン・シェパードだけど、葛西さんはラフ・コリーってところか?」
なにやら自問自答しながら祐司がそんな論評をした途端、貴子の声のトーンが下がった。
「祐司……。どうしてそこで、あいつの名前が出てくるのよ?」
「比較しやすいかと思って」
「あのね……」
惚けているのか、何も考えていないのかしれっと返され、貴子は再度溜め息を吐いた。それと同時に何気なく視線を動かして、ふとある集団に気が付く。
(華やかとは違うけど、声をかけやすいラフ・コリー……)
その視線の先には、三人の女性に囲まれて笑顔を振りまいている、一見人当たりが良さそうな一人の男が存在していた。
「分かったわ。祐司、切るわよ?」
「え? 姉貴?」
「あんたの言うところの、女好きのコリー野郎が居たわ。じゃあね」
戸惑った声を上げた祐司を無視して、貴子は件の男から視線を外さないまま通話を終わらせた。すると向こうも貴子の視線に気付いたらしく、周りの女性達に何やら話しかけてから、まっすぐ貴子に向かって歩み寄る。そして貴子の目の前にやって来た彼は、垂れ気味の目元を緩ませながら、すこぶる愛想良く声をかけてきた。
「やあ、貴子。葛西芳文だ。芳文と呼び捨てにしてくれて構わないから」
いきなりそんな事を言ってきた相手を、貴子は冷え切った視線で見上げた。
「サラッと初対面の人間を、呼び捨てにしないで頂きたいんですが?」
「それは悪かった。だか初対面な気がしないんだよな。前世で君と、何か因縁が有ったかな?」
「それに、先程まであなたを囲んでいた女性達を放っておいて良いんですか?」
「彼女達は道に迷った観光客。俺の顔は安心感を醸し出していて、声をかけやすいみたいでね。良く女性に頼りにされるんだ。ほら、目的地を教えてあげたから、もう居なくなってるし」
(自分からは声をかけたりしないって事? この優男が。それに本当に観光客でも、滞在先とか連絡先とか、しっかり聞き出していそうだわ)
傍目には人畜無害に見える笑顔に、訳もなくイラッとしてしまった貴子は、これ以上係わり合いになるのは止めようと、端的に断りを入れた。
「残念ですが、あなたとは気が合いそうにありませんので、失礼します」
「ああ、俺も祐司君に『女を紹介してくれ』と言ってはみたものの、どうやら君は俺の女の趣味とは、微妙にずれているみたいだな」
言うだけ言って踵を返した貴子だったが、芳文はすかさずその手を捕らえた。それに加えて淡々と付け加えられた言葉に、貴子の目つきが更に険しい物になる。
「それなら、この手を離して貰えません?」
「ところで君は、祐司君達の様な弟がいる姉だな? 上に姉も兄も居ないよな?」
「……それが何か?」
唐突な話題の転換に、貴子は目を細めながらも一応頷いてみせた。すると芳文がしみじみとした口調で言い出す。
「俺は三人兄弟の末っ子でね。生存競争が激しい、殺伐とした子供時代を送ったんだ」
「それはそれは。さぞかし大変だったでしょうね」
全く心が籠もっていない口振りで、貴子が適当に相槌を打つと、芳文は急に満面の笑みを浮かべつつ彼女に告げた。
「だから密かに、いつかは可愛い妹が欲しいと思っていたんだ。だから恋人じゃなくて、兄妹関係になろう。さあ遠慮無く、お兄ちゃんの腕の中に飛び込んで来い!」
そう宣言しながら両腕を開いた芳文を見て、貴子は一瞬呆気に取られてから頭痛を覚えた。
(祐司の話では、東成大医学部出身の医者だって話だけど……。頭が良過ぎて、頭のネジがぶっ飛んだ手合いかしら?)
そんな事を考えて、この日何度目になるのか考えるのも飽きた溜め息を再度吐いてから、貴子は胸の辺りで両手を組み、芳文同様嬉しそうな笑顔になって言葉を返した。
「嬉しいわ! 実は私も、格好良くて優しくて、頼りになるお兄さんが欲しかったの!」
「そうか。それなら良かっ、ぐはっ……」
「なんて言うとでも思った? この変態野郎」
笑顔で芳文に抱き付くと思いきや、貴子は思い切り体重をかけて芳文の鳩尾に拳を叩き込んだ。すっかり油断していたところを急襲され、まともに衝撃を受けてしまった芳文が、上半身を屈めながら鳩尾を押さえて呻く。
「ふ、ふふっ……。これまで俺にまともに拳を当てた人間は、両手の指の数に満たないってのに、やってくれるじゃないか……」
「めでたく記録更新ね。ごきげんよう」
「ちょっと待った!」
そこで冷たく言い捨てて再び去ろうとした貴子の手を、先程と同様に芳文が捕らえた。その為(昏倒させなきゃ駄目かしら?)と物騒な事を考えつつ、貴子が苛立った声を上げる。
「何なのよ? いい加減にしないと、本気で怒るわよ?」
「俺はこうと決めたら必ずやり遂げるタチなんだ。嫌でも君に妹になって貰う」
「そんな筋合い無いわよっ!」
「そうか残念だ。それなら祐司君に、俺の『弟』になって貰う。断っておくが『妹』とはだいぶ扱いが違うが良いのか? 精神的身体的にかなりのダメージを受けて、立ち直れないかもしれないが」
人好きのする笑顔から一転、いかにも酷薄そうな皮肉っぽい笑みを浮かべた目の前の男に、貴子は舌打ちしたいのを懸命に堪えた。
(この男……。色々な意味で、相当ヤバい男と見たわ。祐司の奴、なんて面倒な奴に因縁付けられてんのよ!)
心の中で、そもそもの原因である祐司に一言文句を言ってから、貴子は諦め、渋々了承した。
「分かったわよ。今日1日、あんたの妹になれば良いんでしょう?」
「よし、話が纏まったところで行くぞ!」
「ちょっと!? 馴れ馴れしく手を繋がないでよ! 第一、行くってどこに?」
「取り敢えず、このプランに沿って行動するつもりだ」
片手は貴子の手を掴んだまま、芳文は空いている手でジャケットのポケットから折り畳まれた紙を取り出した。そして器用に片手だけでそれを広げ、貴子に見せる様に差し出す。その内容を確認した貴子は、胡乱気な視線と声音で問いかけた。
「……一体何よ、これは?」
その問いを予想していた芳文は、上機嫌に貴子の手を引いて歩きながら事も無げに答える。
「俺の大学時代の後輩に、年の離れた妹を溺愛してる、恥ずかしい位のシスコン野郎が居てな。時折話を聞く度に、その阿呆っぷりを笑ってたんだが、一度はやってみたいと密かに思っていたんだ」
「笑い飛ばした癖に、何でやりたがるのよ?」
全く理解できずに貴子が顔を顰めたが、芳文は平然と言ってのけた。
「それで貴子が女としてはどうかと思った場合、妹にして連れ回す事にして、そのシスコン後輩にお薦めデートコースを教えて貰ったのがそれだ」
「……祐司、今度会ったら絶対殴る」
「何をブツブツ言ってるんだ? お兄ちゃんとの楽しいデートなんだから、笑顔を見せないと駄目だろう?」
掴まれていない方の手を固く握り締めて弟に対する恨み言を漏らした貴子だったが、芳文から笑顔で容赦なくダメ出しされ、根性で笑みらしき物を顔に貼り付けつつ、その日一日を過ごす事になった。
その日の夜、芳文は親友から一本の電話を受けた。
「やあ、隆也。どうした?」
「どうだった?」
端的に問われた内容に、芳文は本気で首を捻る。
「……は? お前今日一日、俺達の後を付けてたわけじゃ無いのか?」
「そんなストーカー行為をするか!」
本気で叱りつけてきた相手に、芳文は思わず小さく笑ってしまった。
「なんだ。『上手く気配と姿消してるな、さすがプロ』と、心の中で賞賛してたのに」
「見当違いの賞賛なんか要らん。それで?」
話の先を促していた隆也に、芳文はこれ以上からかう様な事は口にせず、淡々とその日の首尾を報告した。
「なかなか楽しかったぞ? 高さ八十cmのスペシャルジャンボパフェをつつきつつ、仏頂面のあいつに『ほら、あ~ん』って食べさせるのは面白かったし、フリフリのミニスカワンピを試着させたら、あまりの似合わなさに『やっぱり三十女には痛かったな』と正直に感想を言ったら睨み殺されそうになったし、ゲーセンで『俺にニ連勝した時点で帰っていい』と言ったら、本気で挑んできて良い勝負だったからな。最後は『次は負けないわよ!』って捨て台詞を吐いて行ったが」
それを聞いた隆也から、電話越しに呆れて頭を抱えた気配を伝わってきた。
「お前……、最初から怒らせてどうする。もう弟絡みで呼び出しても応じないぞ?」
しかし芳文は、失笑しながら平然と応じる。
「お前こそ、ちゃんと人の話を聞いてたか? 『次は』って言っただろ。きちんとまた会う約束をしたぞ?」
「……そうか」
そこで何やら急に黙り込んだ隆也に、芳文がからかい混じりの声をかける。
「何だ? 何か言いたい事が有るなら、はっきり言ったらどうだ?」
すると隆也は、いつもの口調になって返してきた。
「別に。じゃあこれから宜しく頼む」
「ああ。別にお前の頼みじゃ無くとも、宜しくするつもりだったがな」
そう言った途端、音もなく通話が終了し、無機質な電子音だけが芳文の耳に伝わってきた。その為、芳文は苦笑しながら通話を終わらせ、携帯を充電器に戻しながら呟く。
「らしくない。拗ねやがったか?」
そう言って再度小さく笑ってから、芳文は寝支度をする為に寝室へと向かった。
「孝司、さっきのメール、あれは転送メールよね? 一応聞いてあげるわ。一体、誰からのメールを転送したのかしら?」
電話越しでも、押し殺した口調から貴子の怒りを感じ取ったらしい孝司は、若干怖じ気づきながら答えた。
「は、ははっ……、榊さんからだって、分かってるくせに。相変わらずお茶目だな~、姉貴は」
「朝から怒らせないで。どうしてあいつからのメールを転送してくるわけ?」
「榊さんに頼まれたから」
なんとか怒りを堪えつつ貴子が話を続けたが、孝司が事も無げに言った内容に脱力しそうになった。
「サラッと分かりきった事言わないで。何であんたがそんな事をする必要があるのかと、あのわけが分からない内容の意味を説明して欲しいんだけど?」
「そりゃあ俺、榊さんと友達になったから。友達から頼まれたら、嫌とは言えないさ」
変わらず平然と言ったのけた孝司に、とうとう貴子が怒りを露わにした。
「あんたのその《袖擦り合ったら誰でも友達》的な交友関係は、いい加減に改めなさい!」
「それから姉貴、部屋の本棚に東野薫の本、結構置いてあっただろ」
「それが何?」
いきなりの話題の転換に、何事かと思いつつ貴子が素直に応じると、孝司が予想外の事を言い出す。
「東野薫って、榊さんの大学時代の後輩なんだって」
「へえ? それは初耳だわ」
本気で驚いた貴子だったが、孝司の次の台詞で顔を引き攣らせた。
「それで榊さんが東野薫に『頭は良いが可愛げが無くてひねくれてる女が読むような本はあるか』と尋ねたら、『大衆受けを狙わずに、趣味と遊びでそういう女を対象に好き勝手書いてお蔵入りにした原稿があるので、欲しいのなら百万で売ります』と言われたとかで」
「何よそれ! ふざけんじゃ無いわよ!!」
「それでそのデータを少しずつ送信するから、姉貴に転送してくれって」
「あのね……」
反射的に足を止めて怒鳴りつけてしまった貴子に、周囲の人間が怪訝な顔を向ける。しかしそんな視線に気が付かないまま、貴子は何とか怒りを抑えながら話を続けた。
「それは分かったけど、どうして件名が『今日は晴れ』なわけ?」
「いや、それは俺にも意味不明だったんだけど……、取り敢えずそのまま転送しようかな~って」
「二度と送ってこないで!!」
へらっと笑いを含んだ声で言われてしまった為、貴子は苛立たしげに通話を終わらせた。そしてそこでちょうど改札口に到達した為、一度バッグに携帯をしまって改札を抜ける。
予定時間にはまだ余裕を持って駅の西口にやって来た貴子だったが、休日だけあって人波が途切れる事無く、待ち合わせをしている人数もかなりの物であり、貴子は僅かに顔をしかめて再び携帯を取り出した。
「全く孝司の奴……。そういえば祐司にも、一言言っておかないと気が済まないわ」
ぶつぶつと文句を言いながら祐司の番号を選択し、貴子は周囲に目を向けながら話し出した。
「もしもし、祐司?」
「ああ、姉貴、どうした? 今日葛西さんと会う日だろ?」
不思議そうに問い返され、貴子は思わず溜め息を吐いてから、うんざりした様に言い出す。
「あのね、あんたから聞いた待ち合わせ場所に、待ち合わせ時間十分前に着いたんだけど、ただでさえ休日で人出が多い渋谷駅前で、写真も無いのに『三十代半ば、身長百七十から七十五cmの男』を探すって、ちょっと無茶じゃない? ここ、有名な待ち合わせスポットなのよ? 間違えて別人に声をかける様な、間抜けな事はしたくないんだけど。事前に写メール位送って寄越しなさいよ」
貴子が恨みがましく述べると、祐司は一応謝りながらも、困った様に弁解してきた。
「確かに、写真を送るのを忘れていて悪かったよ。う~ん、でも葛西さんはテレビで姉貴の顔を知ってるし、あの人なら十分人目を引く筈なんだよな」
「どういう意味で目立つのよ?」
「華やか、とも少し違うけど、声をかけやすいと言うか何と言うか……。犬に例えると榊さんはジャーマン・シェパードだけど、葛西さんはラフ・コリーってところか?」
なにやら自問自答しながら祐司がそんな論評をした途端、貴子の声のトーンが下がった。
「祐司……。どうしてそこで、あいつの名前が出てくるのよ?」
「比較しやすいかと思って」
「あのね……」
惚けているのか、何も考えていないのかしれっと返され、貴子は再度溜め息を吐いた。それと同時に何気なく視線を動かして、ふとある集団に気が付く。
(華やかとは違うけど、声をかけやすいラフ・コリー……)
その視線の先には、三人の女性に囲まれて笑顔を振りまいている、一見人当たりが良さそうな一人の男が存在していた。
「分かったわ。祐司、切るわよ?」
「え? 姉貴?」
「あんたの言うところの、女好きのコリー野郎が居たわ。じゃあね」
戸惑った声を上げた祐司を無視して、貴子は件の男から視線を外さないまま通話を終わらせた。すると向こうも貴子の視線に気付いたらしく、周りの女性達に何やら話しかけてから、まっすぐ貴子に向かって歩み寄る。そして貴子の目の前にやって来た彼は、垂れ気味の目元を緩ませながら、すこぶる愛想良く声をかけてきた。
「やあ、貴子。葛西芳文だ。芳文と呼び捨てにしてくれて構わないから」
いきなりそんな事を言ってきた相手を、貴子は冷え切った視線で見上げた。
「サラッと初対面の人間を、呼び捨てにしないで頂きたいんですが?」
「それは悪かった。だか初対面な気がしないんだよな。前世で君と、何か因縁が有ったかな?」
「それに、先程まであなたを囲んでいた女性達を放っておいて良いんですか?」
「彼女達は道に迷った観光客。俺の顔は安心感を醸し出していて、声をかけやすいみたいでね。良く女性に頼りにされるんだ。ほら、目的地を教えてあげたから、もう居なくなってるし」
(自分からは声をかけたりしないって事? この優男が。それに本当に観光客でも、滞在先とか連絡先とか、しっかり聞き出していそうだわ)
傍目には人畜無害に見える笑顔に、訳もなくイラッとしてしまった貴子は、これ以上係わり合いになるのは止めようと、端的に断りを入れた。
「残念ですが、あなたとは気が合いそうにありませんので、失礼します」
「ああ、俺も祐司君に『女を紹介してくれ』と言ってはみたものの、どうやら君は俺の女の趣味とは、微妙にずれているみたいだな」
言うだけ言って踵を返した貴子だったが、芳文はすかさずその手を捕らえた。それに加えて淡々と付け加えられた言葉に、貴子の目つきが更に険しい物になる。
「それなら、この手を離して貰えません?」
「ところで君は、祐司君達の様な弟がいる姉だな? 上に姉も兄も居ないよな?」
「……それが何か?」
唐突な話題の転換に、貴子は目を細めながらも一応頷いてみせた。すると芳文がしみじみとした口調で言い出す。
「俺は三人兄弟の末っ子でね。生存競争が激しい、殺伐とした子供時代を送ったんだ」
「それはそれは。さぞかし大変だったでしょうね」
全く心が籠もっていない口振りで、貴子が適当に相槌を打つと、芳文は急に満面の笑みを浮かべつつ彼女に告げた。
「だから密かに、いつかは可愛い妹が欲しいと思っていたんだ。だから恋人じゃなくて、兄妹関係になろう。さあ遠慮無く、お兄ちゃんの腕の中に飛び込んで来い!」
そう宣言しながら両腕を開いた芳文を見て、貴子は一瞬呆気に取られてから頭痛を覚えた。
(祐司の話では、東成大医学部出身の医者だって話だけど……。頭が良過ぎて、頭のネジがぶっ飛んだ手合いかしら?)
そんな事を考えて、この日何度目になるのか考えるのも飽きた溜め息を再度吐いてから、貴子は胸の辺りで両手を組み、芳文同様嬉しそうな笑顔になって言葉を返した。
「嬉しいわ! 実は私も、格好良くて優しくて、頼りになるお兄さんが欲しかったの!」
「そうか。それなら良かっ、ぐはっ……」
「なんて言うとでも思った? この変態野郎」
笑顔で芳文に抱き付くと思いきや、貴子は思い切り体重をかけて芳文の鳩尾に拳を叩き込んだ。すっかり油断していたところを急襲され、まともに衝撃を受けてしまった芳文が、上半身を屈めながら鳩尾を押さえて呻く。
「ふ、ふふっ……。これまで俺にまともに拳を当てた人間は、両手の指の数に満たないってのに、やってくれるじゃないか……」
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「ちょっと待った!」
そこで冷たく言い捨てて再び去ろうとした貴子の手を、先程と同様に芳文が捕らえた。その為(昏倒させなきゃ駄目かしら?)と物騒な事を考えつつ、貴子が苛立った声を上げる。
「何なのよ? いい加減にしないと、本気で怒るわよ?」
「俺はこうと決めたら必ずやり遂げるタチなんだ。嫌でも君に妹になって貰う」
「そんな筋合い無いわよっ!」
「そうか残念だ。それなら祐司君に、俺の『弟』になって貰う。断っておくが『妹』とはだいぶ扱いが違うが良いのか? 精神的身体的にかなりのダメージを受けて、立ち直れないかもしれないが」
人好きのする笑顔から一転、いかにも酷薄そうな皮肉っぽい笑みを浮かべた目の前の男に、貴子は舌打ちしたいのを懸命に堪えた。
(この男……。色々な意味で、相当ヤバい男と見たわ。祐司の奴、なんて面倒な奴に因縁付けられてんのよ!)
心の中で、そもそもの原因である祐司に一言文句を言ってから、貴子は諦め、渋々了承した。
「分かったわよ。今日1日、あんたの妹になれば良いんでしょう?」
「よし、話が纏まったところで行くぞ!」
「ちょっと!? 馴れ馴れしく手を繋がないでよ! 第一、行くってどこに?」
「取り敢えず、このプランに沿って行動するつもりだ」
片手は貴子の手を掴んだまま、芳文は空いている手でジャケットのポケットから折り畳まれた紙を取り出した。そして器用に片手だけでそれを広げ、貴子に見せる様に差し出す。その内容を確認した貴子は、胡乱気な視線と声音で問いかけた。
「……一体何よ、これは?」
その問いを予想していた芳文は、上機嫌に貴子の手を引いて歩きながら事も無げに答える。
「俺の大学時代の後輩に、年の離れた妹を溺愛してる、恥ずかしい位のシスコン野郎が居てな。時折話を聞く度に、その阿呆っぷりを笑ってたんだが、一度はやってみたいと密かに思っていたんだ」
「笑い飛ばした癖に、何でやりたがるのよ?」
全く理解できずに貴子が顔を顰めたが、芳文は平然と言ってのけた。
「それで貴子が女としてはどうかと思った場合、妹にして連れ回す事にして、そのシスコン後輩にお薦めデートコースを教えて貰ったのがそれだ」
「……祐司、今度会ったら絶対殴る」
「何をブツブツ言ってるんだ? お兄ちゃんとの楽しいデートなんだから、笑顔を見せないと駄目だろう?」
掴まれていない方の手を固く握り締めて弟に対する恨み言を漏らした貴子だったが、芳文から笑顔で容赦なくダメ出しされ、根性で笑みらしき物を顔に貼り付けつつ、その日一日を過ごす事になった。
その日の夜、芳文は親友から一本の電話を受けた。
「やあ、隆也。どうした?」
「どうだった?」
端的に問われた内容に、芳文は本気で首を捻る。
「……は? お前今日一日、俺達の後を付けてたわけじゃ無いのか?」
「そんなストーカー行為をするか!」
本気で叱りつけてきた相手に、芳文は思わず小さく笑ってしまった。
「なんだ。『上手く気配と姿消してるな、さすがプロ』と、心の中で賞賛してたのに」
「見当違いの賞賛なんか要らん。それで?」
話の先を促していた隆也に、芳文はこれ以上からかう様な事は口にせず、淡々とその日の首尾を報告した。
「なかなか楽しかったぞ? 高さ八十cmのスペシャルジャンボパフェをつつきつつ、仏頂面のあいつに『ほら、あ~ん』って食べさせるのは面白かったし、フリフリのミニスカワンピを試着させたら、あまりの似合わなさに『やっぱり三十女には痛かったな』と正直に感想を言ったら睨み殺されそうになったし、ゲーセンで『俺にニ連勝した時点で帰っていい』と言ったら、本気で挑んできて良い勝負だったからな。最後は『次は負けないわよ!』って捨て台詞を吐いて行ったが」
それを聞いた隆也から、電話越しに呆れて頭を抱えた気配を伝わってきた。
「お前……、最初から怒らせてどうする。もう弟絡みで呼び出しても応じないぞ?」
しかし芳文は、失笑しながら平然と応じる。
「お前こそ、ちゃんと人の話を聞いてたか? 『次は』って言っただろ。きちんとまた会う約束をしたぞ?」
「……そうか」
そこで何やら急に黙り込んだ隆也に、芳文がからかい混じりの声をかける。
「何だ? 何か言いたい事が有るなら、はっきり言ったらどうだ?」
すると隆也は、いつもの口調になって返してきた。
「別に。じゃあこれから宜しく頼む」
「ああ。別にお前の頼みじゃ無くとも、宜しくするつもりだったがな」
そう言った途端、音もなく通話が終了し、無機質な電子音だけが芳文の耳に伝わってきた。その為、芳文は苦笑しながら通話を終わらせ、携帯を充電器に戻しながら呟く。
「らしくない。拗ねやがったか?」
そう言って再度小さく笑ってから、芳文は寝支度をする為に寝室へと向かった。
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