夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

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第62話 聡の憂鬱

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 聡と二人で最寄り駅から徒歩で自宅へと向かい、無事マンションに帰って来た清香は、エレベーターを降りながら、聡に向かって改めて謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい、聡さん。予定を切り上げる事になってしまって……」
「それは構わないよ。誘ってみたけど、あまり気分転換にはならなかったみたいだしね」
「……すみません」
「いや、本当に気にしなくて良いから。それに真澄さんが訪ねてくる可能性があるなら、清香さんが家に居た方が良いだろうし」
 申し訳無さそうに項垂れた清香を宥めながら、聡は清香には分からない様に溜め息を吐きつつ、一人密かに呆れていた。

(本当に……、最近は行方知れずになるのが流行りなのか?)
 清人が行方をくらまして一週間。週末も鬱々としていた清香を、気分転換の為にと映画に誘い、ゆっくりお茶を飲んでから自宅に送り届けようとしていた聡だったが、映画を見終わって喫茶店に入ろうとした所で、浩一から清香に真澄の所在を尋ねる電話が入り、子細を聞いた清香と聡は、お茶を飲まずに引き上げる事にしたのだった。
 そしてマンションの廊下を歩きながら、清香が溜め息混じりに独り言の様に呟く。

「本当に……、真澄さんまで行方不明って、何がどうなったらそんな事になるわけ? 浩一さんの話も、随分焦って電話してきたせいか、あまり要領を得なかったし……」
「本当だね。だけど真澄さんは子供では無いし、そうそう変な事に巻き込まれたりはしないとは思うけど」
「それはそうなんだけど……、何だか嫌な予感がするのよね」
 そんな事を言い合いながら、廊下を歩きつつ「はぁ……」と重い溜め息を吐いた清香を、聡が気遣わしげに眺めた。そして無事に清人の部屋の玄関に辿り着いた聡は、清香に穏やかな口調で声をかける。

「じゃあ清香さん、俺はここで失礼させて貰うから」
 そう別れの言葉を口にした聡に、清香は静かに顔を上げて引き止めた。
「あの……、せっかくですからお茶を一杯飲んで行って下さい。浩一さんからの電話で、結局お店に入らずに帰って来てしまいましたし」
「あ、いや、それは……」
 その清香の申し出を嬉しく思いながらも、一瞬悩む聡。

(いつもなら間違っても上げて貰えないだろうが、今現在兄さんは留守だからな……。だからと言って、こんな状態の清香さん相手に、変な事をするつもりはないが……)
 そんな事を考えてから、聡は笑って頷いた。

「分かった。遠慮なくご馳走になるよ」
「良かった。じゃあとっておきの茶葉で淹れますね?」
「ありがとう」
 腕時計で時間を確認すると、恭子が泊まりにやって来るまでまだ時間があるらしく、それまで一人で過ごすのが嫌なのもあるのだろうと聡は見当をつけた。どうやらそれは図星だったらしく、傍目にもウキウキとしながら清香がドアの鍵を開け、手前に少し引き開けながら聡に先に中に入る様に促した。

「さあ、どうぞ。入って下さい」
「それじゃあ、お邪魔しま……」
 しかしドアを引き開け、玄関に足を一歩踏み入れた聡は、不自然に声を途切れさせて全身を硬直させた。
 そのまま何秒か経過したのを不審に思った清香が、聡の背後から声をかけながら、聡の体の横をすり抜けて前に回り込もうとする。

「聡さん? どうかしましたか? 急に具合でも悪くなったんじゃ」
「清香さん、ごめん、出て!」
「え? は? きゃあっ!!」
 清香の声で我に返った聡が、いきなり体を捻って清香に向き直ったのとほぼ同時に、両手で力一杯彼女を廊下側に突き飛ばした。清香は何とか踏みとどまって転ぶのは避けられたものの、何歩かよろけながら後退して廊下の真ん中辺りまで下がる。続いて玄関から出た聡は、ノブを後ろ手に掴み、寄りかかった身体全体でドアを閉め、常には見せない鬼気迫る表情で清香に次の指示を出した。

「清香さん! 鍵! 玄関に鍵をかけて! 大至急! 急いでっ!!」
「はっ、はいっ!!」
 聡の剣幕に清香は慌てて鍵を取り出し、鍵穴に飛び付く様にして再び施錠した。そして自分の横で、ドアに寄りかかったまま立ち尽くしている聡を、恐る恐る見上げる。

「あの……、鍵をかけましたけど……。一体どうしたんですか?」
 その声で緊張の糸が切れたらしく、聡はドアに背中を預けたままズルズルと身体を沈めて廊下に膝を立てて座り込み、両手で頭を抱えて呻いた。

「本当に勘弁してくれ。あんな容赦が無くて傍迷惑な人が、血が繋がった実の兄だなんて。もう嫌だ……、何も知らなかった、あの頃に戻りたい……」
 明らかに愚痴であるそんな呟きを耳にした清香は、益々不思議に思いながら自分も廊下に膝を付いて座り込み、聡の顔を覗き込みつつ尋ねた。

「聡さん? 大丈夫ですか?」
 その問い掛けに、聡は力無く笑ってみせる。
「……ああ、うん、大丈夫だよ。ごめん清香さん。ちょっと電話を一本、かけさせて貰って良いかな?」
「え、ええ……。それは構いませんけど」
「ありがとう。ちょっと待ってて」
 そして何とか気を取り直したらしい聡が携帯を取り出し、どこかへ電話するのを清香は注意深く見やった。

(聡さん、急にどうしたのかしら? 最近、本当に周りの人が変だわ……)
 そんな清香の視線の先で、聡が電話の相手に冷静に話しかける。

「……もしもし、浩一さんですか? 聡ですが、今大丈夫でしょうか?」
「ああ、構わないが……、どうかしたのかな?」
「その……、あれから真澄さんの行方は分かりましたか?」
「それが、まだ連絡が付かないんだ。清香ちゃんにも心配をかけさせてしまって悪かったね。デートの途中だったみたいだし」
 如何にも申し訳無さそうに浩一が詫びを入れてくると、聡は軽く息を整えてから一気に言い切った。

「いえ、それは構わないのですが……。ひょっとしたら真澄さんの今日の出で立ちは、チャコールグレーのコートにキャメル色のハンドバッグとパンプス、淡いグリーン系の小さな柄が入っているストールに、袖口と裾に細かい刺繍がしてある、ウール素材のアイボリーのワンピースとかではないですか?」
 それを聞いた浩一は瞬時に声の調子を変え、聡に鋭く問いかけてきた。

「聡君! まさか君、どこかで姉さんを見たのか!? 恐らくその服装で出掛けた筈なんだ! 目の前に居るなら、力ずくでも捕まえてくれ!! 頼む!!」
 しかし浩一の懇願にも関わらず、聡は申し訳無さそうにその要請を断った。

「すみませんが、それはちょっと無理です」
「何だと!? 分かった、もう君には頼まない! 今から俺がそこに行くから、とっとと居場所を教えろ!!」
 激昂した浩一が聡を怒鳴りつけたが、聡は冷静に事情説明を始めた。

「実は俺は今、兄さんのマンションの、玄関前に居るんです」
「ああ、清人のマンション……、は?」
 頷きかけて当惑した声を出した浩一には構わず、聡が話を続ける。
「清香さんを送ってきて、お茶を勧められたので中に入ろうとしたら、玄関の上がり口に今言った衣類や小物一式、加えて女性用の下着が散乱していまして……」
「…………」
「……え? は? それっ、て……」
 電話の向こうの浩一は思わず黙り込み、聡の言わんとする所を漸く察した清香は、聡の顔とドアを交互に見ながら、虚しく口を開閉させつつ顔を赤くしたり青くしたりした。聡はその清香の反応をチラリと眺めてから、溜め息を一つ吐いて付け加える。

「加えて、この前のバカンス会の時に見た覚えのある兄さんのスーツケースが玄関内にある上に、男物の衣類一式も同様に上がり口に散乱していますので……。すみません、後は察して下さい。きちんと状況を確認してくれと言うのも、できれば無しでお願いします。俺にはこの状態で、奥に踏み込む勇気はありません」
 最後は思わず懇願口調になってしまった聡の心情を察した浩一は、先程までとは口調を変えて、宥める様に言ってきた。

「……ああ、分かった。もう何も言わなくて良いから。流石に俺も、そこまでは要求しないよ、聡君」
「ありがとうございます」
「いや、こちらこそ連絡ありがとう、助かったよ。他の皆にも心配いらない事を、俺から伝えておくから」
「宜しくお願いします」
 そして浩一に短く礼を述べてから、聡は思わず愚痴を漏らした。

「正直あれを見た時、一瞬心臓が止まりましたよ。もし万が一、兄さんが別な女性を連れ込んでいたら、どうしようかと思いました」
「そうだろうね……」
 浩一が心から同情する言葉を口にすると、聡が弱々しい口調から一転、はっきりとした声で話題を変えてきた。

「それで……、浩一さんに二つお願いがあるんですが」
「何だい?」
「その……、明日は月曜ですから、真澄さんは普通に仕事ですよね?」
「勿論そうだが」
 訝しげに返してきた浩一に向かって、聡が冷静に指摘する。

「取り敢えず明日は、真澄さんが職場を休む旨の連絡をした方が良いと思いますが」
 その言葉に、浩一は一瞬黙り込んでから、すこぶる真剣な口調で同意した。

「……それは俺も同意見だな。分かった、俺から連絡しておこう」
「宜しくお願いします」
「いや、家族だから当然の事だよ。……しかし苦労性だね、聡君」
 後半は明らかに笑いを含んだ浩一の声に、聡が僅かにふてくされながら答える。

「誰かさんと関わり合う様になってから、本当にそうですね」
「頑張れ。さて、それじゃあ姉さんは、明日は風邪って事にでもしておくか……」
 独り言の様に言われたその台詞に、聡が思わず口を挟んだ。

「それが無難ですね。正直に『恋の病が悪化してこじらせた挙げ句、傍迷惑にも程がある集中治療中』だなんて、とても職場に連絡できないと思いますし」
 半ば八つ当たり気味に聡がそう吐き捨てた瞬間、電話の向こうで「ぶはっ!」と盛大に噴き出す音が聞こえ、次いで電話越しに哄笑が響き渡った。そして少しして何とか笑いを抑えたたらしい浩一が、声を絞り出す。

「き、君もなかなか言うね……、聡くんっ……」
「それから、もう一つお願いがあるんですが」
「ああ、何だい? 遠慮なく言ってくれ」
 如何にも楽しげに申し出た浩一に、聡は遠慮なく頼み事を告げた。

「この状態では清香さんも中に入れませんので、彼女を今晩泊めて貰えませんか? 俺の家に泊まって貰っても良いんですが、兄さんが正気に戻ってその事を知ったら、瞬殺されかねませんので」
 聡がそう告げた途端、浩一は瞬時にいつも通りの生真面目な口調になって応じる。

「それはそうだろうな。分かった。勿論うちでは大歓迎だ。迷惑ついでに、彼女を家まで送って来てくれたら助かるんだが」
「そのつもりでした。ついでに着替えや小物、明日大学に行くのに必要な物一式を買い揃えてから向かいますので、少しお時間を頂きます」
「分かった。家族には俺からそう伝えておく。清香ちゃんに宜しく伝えてくれ。姉さんの居場所が分かった事をあちこちに知らせなければいけないから、悪いけどこれで切らせて貰うよ?」
「はい、失礼します」
 そんなこんなで男二人で話が纏まり、聡は携帯をしまい込んでから、未だに混乱しているらしい清香に優しく笑いかけた。

「そういうわけだから、清香さん。今日は柏木さんの家に泊まって欲しいんだ。買い物をしながら送って行くから。あと、教科書とかは仕方がないから、友達に見せて貰って」
「……は、はぁ」
 そこで顔を引き攣らせながらも、何とか頷いてみせた清香の腕を取り、聡はエレベーターに向かって歩き出した。

「ああ、夜は川島さんが泊まりに来てくれてたんだよね? じゃあ川島さんにも連絡しておかないと。取り敢えず移動しようか? タクシーの中でも電話はできるから」
「え? あ、あの……、えっと……」
 背後を振り返って自分の家の玄関を振り返りつつ歩く清香に、聡は短く言い切った。

「もう良いからほっとけ。気にするな。……と言うか、気にするだけ無駄だから」
「…………はい」
 投げやりに言われて漸く諦めがついた清香は、聡に促されてその場を後にした。
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