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第68話 新生活の足音
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「えっと……、こ、こんばんは?」
入籍を済ませた週の金曜日。無事に残業を終わらせ、呼び寄せた車で送って貰った真澄は、渡されていた合鍵で下のエントランスを通り抜け、静かに玄関から上がり込んだ。そして静かにリビングのドアを開けながら、多少自信なさげに挨拶すると、ソファーに座って本を読んでいた清人はクスッと笑って本を閉じ、それをテーブルに起きながら立ち上がる。
「真澄、気持ちは分かるがな。一応、夫が居る場所なんだから、『ただいま』じゃないのか?」
苦笑しつつ清人が真澄に向かって歩み寄ると、目の前に立った夫に対し、真澄はちょっと照れくさそうに笑いながら挨拶をやり直した。
「じゃあ、やり直すわ。……ただいま、清人」
「ああ、お帰り真澄。遅くまでお疲れ様。タクシーなんか使わずに、ちゃんと柴崎さんに送って貰ったよな? 最近は何かと物騒だから」
軽く真澄を引き寄せる様にして抱き締めた清人だったが、その腕の中で、真澄が怪訝な表情を向けた。
「柴崎さんを遅くまで拘束するのは悪いから、これまで残業の時はタクシーを使って帰っていたけど、入籍してからは『清人様に怒られますので、何時になっても絶対にお呼び下さい!』と鬼気迫る表情で詰め寄られて、送って貰ったんだけど。……一体何をしたの?」
絶対に何かしたと確信している真澄の表情と口調に、清人は小さく笑ったのみだった。
「人聞きが悪いな。別に何も? 夕飯はまだだろう? あまり遅くなる前に食べようか。座っててくれ」
そう言って自分から身体を離し、スタスタとキッチンに向かった清人の背中に、真澄が少し驚いた様に声をかけた。
「食べようか、って……。まさか清人、まだ夕飯を食べていなかったの?」
それを耳にした清人は足を止め、軽く体を捻って真澄の方を向きながら笑って告げる。
「せっかく真澄と一緒に食べられる機会を、みすみす逃すなんて馬鹿だろう。今温め直すから、少しだけ待っててくれ」
「分かったわ」
実はせっかく顔を合わせているのに、一人で食べるのはちょっと味気ないと思っていた真澄が、すっかり嬉しくなってダイニングテーブルに着くと、キッチンにマグカップ片手に清香が現れ、カウンター越しに真澄を見付けて笑顔で声をかけてきた。
「あ、真澄さん、いらっしゃい!」
「こら、清香。『いらっしゃい』じゃなくて、『お帰りなさい』だ。日本語は正確に使え」
鋭く清人から注意され、清香が笑って肩を竦める。
「うわ、やっちゃった……。お帰りなさい真澄さん。お仕事お疲れ様です」
「ただいま、清香ちゃん」
勉強の合間に飲み物を補充しに来たらしい清香だったが、キッチンで清人が手早く二人分の食事を準備しているのを邪魔しては悪いと思い、そのままテーブル越しに真澄と向かい合う形で座った。そして幾分照れくさそうに声をかける。
「何か、まだちょっと不思議な感じ。真澄さんがお義姉さんになったなんて」
そんな本音を言われて、真澄も笑って返した。
「暫くは週末婚状態で、普段はこれまで通りだから、余計にそうでしょうね。私だってまだ落ち着かないもの」
「今日と明日は、泊まっていくんですよね? ところで伯父さんの家のリフォームって、いつ位に終わりそうなんですか?」
「二階の私の部屋とその周辺の一角だから……、来年の二月中には終わる予定なんだけど」
そこでトレーを持ってやって来た清人が、さり気なく話に加わる。
「俺としても、身一つで行くって訳にいかないからな。色々荷物も纏めたいし、三月中にはなんとかするさ。真澄は仕事が忙しいし、慣れている環境で過ごした方が良いだろう。だから俺が動くから、真澄は何もしなくて良いからな?」
「ええ、ありがとう、清人」
結婚の報告後、清人と雄一郎、総一郎の間で細々した事が話し合われ、真澄の部屋がある一角を大々的にリフォームし、そこを夫婦の新居とする事になった。その為、工事が終了するまで清人のマンションで過ごす事も考えた真澄だったが、不意打ちで婚姻届を出された事を結構深く静かに怒っていた父と祖父が「嫁には出してないから他では生活させん!」と屁理屈をこねて頑強に抵抗し、清人が「リフォームが済むまでの間、休日だけ俺の所に泊まりに来れば良い」と苦笑いで提案した経緯があった。
勿論、清香はそれを知っており、(お祖父ちゃんも雄一郎伯父さんも、ちょっと大人気ないよね)と思いつつ、(でもいきなりお義姉さんができちゃったんだから、それに慣れる為の準備期間と思えば妥当かな?)とも思いながら、真澄の目の前に甲斐甲斐しく皿を並べている清人の姿を見て微笑ましく思い、密かに小さく笑った。そしてこのままここに居座っていると、貴重な夫婦一緒の時間を邪魔してしまう事に思い至り、マグカップ片手に立ち上がる。
「さてと、レポートもう少し頑張らなくっちゃ! お茶を淹れたら戻って、目処が付いたらそのまま休むね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ、清香」
「おやすみなさい」
さり気なく就寝の挨拶を済ませ、言外に(これ以上邪魔しないから)とアピールすると、清人は笑いを堪える様に、真澄は幾分恥ずかしそうに挨拶を返してきた。それに笑い返した清香は手早くお茶を淹れ、キッチンを去り際にカウンター越しに二人の様子を眺める。
そして向かい合って座った二人が和やかに会話をしながら遅い夕食を食べ始めたのを見て自然に顔を緩め、清香は足音を立てない様に静かにキッチンから抜け出て自室に戻った。
翌朝、清香がリビングに入ると、朝食当番だった清人がソファーで読んでいた新聞を畳みながら、爽やかに声をかけてきた。
「おはよう、清香。朝食にするか」
「おはよう、お兄ちゃん。あれ? 真澄さんは? トイレとか?」
一緒に泊まりに行った時の経験から、寝起きの良い筈の真澄の姿が無い事を訝しむと、清人が笑って弁解してきた。
「まだ寝ている。疲れてるから、起きるまで起こさないでやってくれ」
「うん、分かった」
清香が素直に頷き、取り敢えずその話はそこで一旦終わったが、清人が並べた朝食を食べ始めた所で、清香が口を開いた。
「やっぱり一流企業の課長さんって、お仕事が大変なんだね。疲れが溜まるんだろうなぁ……」
そんな事を清香がしみじみと呟くと、清人が冷静に口を挟む。
「確かに真澄の仕事は大変だろうが、それで起きられない訳じゃ無いぞ? 真澄は、自己管理はキチンとするタイプの人間だからな」
「え? じゃあどうして起きられないの? まさか病気で具合が悪いとか?」
慌てて顔色を変えた清香だったが、清人はそれを笑って宥めた。
「いや、単に寝たのが二時間前だからだ。予想する真澄の排卵日が、月曜だからな」
「は?」
「だから真澄が三十四のうちに出産できるよう、種馬の役割を果たすべく、昨日から明日まで子作りに励むつもりでいたから、ちょっと頑張り過ぎただけだ」
「こっ……」
サラッととんでもない事を言われ、清香は思わずご飯茶碗と箸を取り落とした。ゴトッ、カラカラッ……と不協和音がテーブル上で生じた為、平然と食事を続行していた清人が、不機嫌そうに眉を寄せる。
「清香……、行儀が悪いぞ?」
「すっ、すみませんっ!」
(排卵日って、子作りって……。お願いだから朝から爽やかな顔をして、そんな事を口にしないで!)
内心そんな悲鳴を上げた清香だったが、ふとある事に気が付き恐る恐る尋ねてみた。
「あ、あの~、お兄ちゃん?」
「何だ?」
「さっき真澄さんが二時間前に寝たって言ってたけど、お兄ちゃんはひょっとして寝てない、とか?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
相変わらず滑らかな動きで食べ続けている清人に、清香が再度尋ねる。
「徹夜して、眠くないの?」
「一日二日寝ない位でどうこうなる程、ヤワな鍛え方はしていないつもりだ」
「……ごもっともです」
子供の頃からの習慣で、清人が未だに筋トレを欠かしていないのを思い出した清香は、何も言えずに黙り込んだ。
(二日間、寝ないつもりなんだ……。真澄さん、大丈夫かな? さすがに疲れたって嫌がれば、無理強いはしないとは思うけど。月曜には普通にお仕事だってあるのに。……ああ、だから日曜は泊まらないで、夕方柏木家に帰る予定になっているんだ)
何となく遠い目をしながら、兄夫婦の夫婦生活の内容を色々察してしまった清香に、ここで唐突に清人が声をかけた。
「ところで清香、話は変わるんだが」
「は、はいぃぃっ! 何!? もう何でも良いからどんどん変えちゃって!」
声を裏返して応じた清香に、清人は一瞬不思議そうな顔をしてから、徐に話し出した。
「その、今後のお前の住む場所について、なんだが……」
「あれ? 何かお祖父ちゃんが『部屋は余ってるから清香の部屋も用意するぞ』って言ってたけど、違うの?」
「俺も当初はそう思っていたんだが……、実は真澄が難色を示してな」
「真澄さんが?」
「ああ、誤解が無いように言っておくが、真澄はお前が邪魔だと言ってるわけじゃ無いぞ?」
「分かってるわよ、そんな事。どういう事なの?」
慌てて取って付けた様に弁解してきた清人を、清香は笑って先を促した。対する清人も苦笑いの口調で続ける。
「それがだな……、真澄が言うには『お祖父様に可愛がられているのは分かるけど、正直ウザいのよ。私は子供の頃から一緒に居るからもう慣れてるし諦めてるし、反抗期を過ぎたら際限なく構って来なくなったから良いの。だけど清香ちゃんが同居したら、四六時中構って干渉して来るのが確実だから、清香ちゃんが爆発しないか心配で』だと」
「……うん、それはちょっと、私も心配、かな?」
これまで柏木邸を訪問した時の総一郎のはしゃぎっぷり、纏わりつきっぷり、過干渉っぷりを思い出した清香が思わず顔を引き攣らせると、その表情で内容を察したらしい清人が、小さく溜め息を吐いた。
「真澄が『もし清香ちゃんがストレスを溜め込んでも、清人が一緒に住んでるんだから、実家に帰ってストレス発散って訳にもいかないし。それに加えて、お祖父様が清香ちゃんを家から出さなくなるかもしれないわ。『嫁に出すなんて言語道断。清香にも婿を取らせて一緒に住まわせるぞ!』って。お祖父様は未だに先代との確執を根に持ってて、小笠原家の事を良く思っていないから、手段を選ばず一人息子の聡君と別れさせるわよ? 幸いと言うか何というか敷地は十分に有るし』と言ってな。それは、俺も激しく同感だ。理性をぶっ飛ばした年寄り程、扱いにくい存在は無い」
真顔で頷いて話を終わらせた清人を見て、清香はがっくりと項垂れた。
「お兄ちゃん……、少しは否定してよ」
「中途半端な慰めを言っても、仕方がないだろう」
「じゃ、じゃあ、私はこのままここで生活するって言うのは? それなら良いよね?」
一縷の望みをかけて清香が提案したが、清人がにべ無く却下する。
「冗談じゃない。そんな事、駄目に決まってるだろうが。清香を一人暮らしなんて、心配でさせられるか」
ある程度予想はしていたものの、予想以上にきっぱりと断言され、清香は頭痛を覚えた。
「……お兄ちゃん。私、もう二十一なんだけど? 家事だって不自由なくできるし」
「三十だろうが四十だろうが駄目だ。押し込み強盗とかに襲われたらどうする」
「じゃあ、一体どうしろって言うわけ?」
半ば腹立ち紛れに清香が問いかけると、清人が予想外の事を言い出した。
「だからこの際、お前には下宿して貰おうかと考えている」
「下宿?」
「ああ。先方へはこれからお願いしてみる事になるから、はっきりいつからとは言えないが」
「ふぅん……、下宿、ねぇ……」
呟きつつ首を傾げて何やら真剣に考え込み始めた清香に、清人が穏やかに声をかける。
「どうだ? 清香。どうしても嫌なら構わないが」
「ううん、下宿でも良いと思う」
「そうか?」
そこで清香は清人としっかり視線を合わせ、自分の考えを述べた
。
「今までお兄ちゃんとずっと一緒だったけど、そろそろ兄離れしても良い頃よね? 人によっては地方の大学に入って一人暮らしして、そのまま地元に帰らないで、就職しちゃう人だって居るんだし。でもいきなり一人暮らしじゃやっぱり寂しいかもしれないから、下宿の方が良いかも。ごめんね? 甘えん坊な妹で」
そう言って悪戯っぽく笑った清香に、清人は楽しそうに笑い返した。
「寂しくなったら、いつでも顔を見に来い。俺が居る所が、お前にとっての実家だからな。勿論、真澄も歓迎するぞ?」
「うん、分かったわ。でもお祖父ちゃんが怒ったりしないかな?」
笑顔で頷いた清香が続けて心配そうな顔を向けると、清人が冷静に言い聞かせる。
「そこは俺と真澄でどうとでも宥めるから心配するな。控え目に月に一度は顔を出すと言っておいて、実際は月に二・三回顔を出してくれれば満足するだろうしな」
淡々とそう言ってのけた清人に、清香は半ば呆れながら感想を述べた。
「……本当に、お兄ちゃんって策士だよねぇ」
「嬉しい誉め言葉だな」
「半分は誉めてないから!」
思わず清香は声を荒げて否定してしまったが、二人は互いに顔を見合わせて笑い出してしまった。
入籍を済ませた週の金曜日。無事に残業を終わらせ、呼び寄せた車で送って貰った真澄は、渡されていた合鍵で下のエントランスを通り抜け、静かに玄関から上がり込んだ。そして静かにリビングのドアを開けながら、多少自信なさげに挨拶すると、ソファーに座って本を読んでいた清人はクスッと笑って本を閉じ、それをテーブルに起きながら立ち上がる。
「真澄、気持ちは分かるがな。一応、夫が居る場所なんだから、『ただいま』じゃないのか?」
苦笑しつつ清人が真澄に向かって歩み寄ると、目の前に立った夫に対し、真澄はちょっと照れくさそうに笑いながら挨拶をやり直した。
「じゃあ、やり直すわ。……ただいま、清人」
「ああ、お帰り真澄。遅くまでお疲れ様。タクシーなんか使わずに、ちゃんと柴崎さんに送って貰ったよな? 最近は何かと物騒だから」
軽く真澄を引き寄せる様にして抱き締めた清人だったが、その腕の中で、真澄が怪訝な表情を向けた。
「柴崎さんを遅くまで拘束するのは悪いから、これまで残業の時はタクシーを使って帰っていたけど、入籍してからは『清人様に怒られますので、何時になっても絶対にお呼び下さい!』と鬼気迫る表情で詰め寄られて、送って貰ったんだけど。……一体何をしたの?」
絶対に何かしたと確信している真澄の表情と口調に、清人は小さく笑ったのみだった。
「人聞きが悪いな。別に何も? 夕飯はまだだろう? あまり遅くなる前に食べようか。座っててくれ」
そう言って自分から身体を離し、スタスタとキッチンに向かった清人の背中に、真澄が少し驚いた様に声をかけた。
「食べようか、って……。まさか清人、まだ夕飯を食べていなかったの?」
それを耳にした清人は足を止め、軽く体を捻って真澄の方を向きながら笑って告げる。
「せっかく真澄と一緒に食べられる機会を、みすみす逃すなんて馬鹿だろう。今温め直すから、少しだけ待っててくれ」
「分かったわ」
実はせっかく顔を合わせているのに、一人で食べるのはちょっと味気ないと思っていた真澄が、すっかり嬉しくなってダイニングテーブルに着くと、キッチンにマグカップ片手に清香が現れ、カウンター越しに真澄を見付けて笑顔で声をかけてきた。
「あ、真澄さん、いらっしゃい!」
「こら、清香。『いらっしゃい』じゃなくて、『お帰りなさい』だ。日本語は正確に使え」
鋭く清人から注意され、清香が笑って肩を竦める。
「うわ、やっちゃった……。お帰りなさい真澄さん。お仕事お疲れ様です」
「ただいま、清香ちゃん」
勉強の合間に飲み物を補充しに来たらしい清香だったが、キッチンで清人が手早く二人分の食事を準備しているのを邪魔しては悪いと思い、そのままテーブル越しに真澄と向かい合う形で座った。そして幾分照れくさそうに声をかける。
「何か、まだちょっと不思議な感じ。真澄さんがお義姉さんになったなんて」
そんな本音を言われて、真澄も笑って返した。
「暫くは週末婚状態で、普段はこれまで通りだから、余計にそうでしょうね。私だってまだ落ち着かないもの」
「今日と明日は、泊まっていくんですよね? ところで伯父さんの家のリフォームって、いつ位に終わりそうなんですか?」
「二階の私の部屋とその周辺の一角だから……、来年の二月中には終わる予定なんだけど」
そこでトレーを持ってやって来た清人が、さり気なく話に加わる。
「俺としても、身一つで行くって訳にいかないからな。色々荷物も纏めたいし、三月中にはなんとかするさ。真澄は仕事が忙しいし、慣れている環境で過ごした方が良いだろう。だから俺が動くから、真澄は何もしなくて良いからな?」
「ええ、ありがとう、清人」
結婚の報告後、清人と雄一郎、総一郎の間で細々した事が話し合われ、真澄の部屋がある一角を大々的にリフォームし、そこを夫婦の新居とする事になった。その為、工事が終了するまで清人のマンションで過ごす事も考えた真澄だったが、不意打ちで婚姻届を出された事を結構深く静かに怒っていた父と祖父が「嫁には出してないから他では生活させん!」と屁理屈をこねて頑強に抵抗し、清人が「リフォームが済むまでの間、休日だけ俺の所に泊まりに来れば良い」と苦笑いで提案した経緯があった。
勿論、清香はそれを知っており、(お祖父ちゃんも雄一郎伯父さんも、ちょっと大人気ないよね)と思いつつ、(でもいきなりお義姉さんができちゃったんだから、それに慣れる為の準備期間と思えば妥当かな?)とも思いながら、真澄の目の前に甲斐甲斐しく皿を並べている清人の姿を見て微笑ましく思い、密かに小さく笑った。そしてこのままここに居座っていると、貴重な夫婦一緒の時間を邪魔してしまう事に思い至り、マグカップ片手に立ち上がる。
「さてと、レポートもう少し頑張らなくっちゃ! お茶を淹れたら戻って、目処が付いたらそのまま休むね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ、清香」
「おやすみなさい」
さり気なく就寝の挨拶を済ませ、言外に(これ以上邪魔しないから)とアピールすると、清人は笑いを堪える様に、真澄は幾分恥ずかしそうに挨拶を返してきた。それに笑い返した清香は手早くお茶を淹れ、キッチンを去り際にカウンター越しに二人の様子を眺める。
そして向かい合って座った二人が和やかに会話をしながら遅い夕食を食べ始めたのを見て自然に顔を緩め、清香は足音を立てない様に静かにキッチンから抜け出て自室に戻った。
翌朝、清香がリビングに入ると、朝食当番だった清人がソファーで読んでいた新聞を畳みながら、爽やかに声をかけてきた。
「おはよう、清香。朝食にするか」
「おはよう、お兄ちゃん。あれ? 真澄さんは? トイレとか?」
一緒に泊まりに行った時の経験から、寝起きの良い筈の真澄の姿が無い事を訝しむと、清人が笑って弁解してきた。
「まだ寝ている。疲れてるから、起きるまで起こさないでやってくれ」
「うん、分かった」
清香が素直に頷き、取り敢えずその話はそこで一旦終わったが、清人が並べた朝食を食べ始めた所で、清香が口を開いた。
「やっぱり一流企業の課長さんって、お仕事が大変なんだね。疲れが溜まるんだろうなぁ……」
そんな事を清香がしみじみと呟くと、清人が冷静に口を挟む。
「確かに真澄の仕事は大変だろうが、それで起きられない訳じゃ無いぞ? 真澄は、自己管理はキチンとするタイプの人間だからな」
「え? じゃあどうして起きられないの? まさか病気で具合が悪いとか?」
慌てて顔色を変えた清香だったが、清人はそれを笑って宥めた。
「いや、単に寝たのが二時間前だからだ。予想する真澄の排卵日が、月曜だからな」
「は?」
「だから真澄が三十四のうちに出産できるよう、種馬の役割を果たすべく、昨日から明日まで子作りに励むつもりでいたから、ちょっと頑張り過ぎただけだ」
「こっ……」
サラッととんでもない事を言われ、清香は思わずご飯茶碗と箸を取り落とした。ゴトッ、カラカラッ……と不協和音がテーブル上で生じた為、平然と食事を続行していた清人が、不機嫌そうに眉を寄せる。
「清香……、行儀が悪いぞ?」
「すっ、すみませんっ!」
(排卵日って、子作りって……。お願いだから朝から爽やかな顔をして、そんな事を口にしないで!)
内心そんな悲鳴を上げた清香だったが、ふとある事に気が付き恐る恐る尋ねてみた。
「あ、あの~、お兄ちゃん?」
「何だ?」
「さっき真澄さんが二時間前に寝たって言ってたけど、お兄ちゃんはひょっとして寝てない、とか?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
相変わらず滑らかな動きで食べ続けている清人に、清香が再度尋ねる。
「徹夜して、眠くないの?」
「一日二日寝ない位でどうこうなる程、ヤワな鍛え方はしていないつもりだ」
「……ごもっともです」
子供の頃からの習慣で、清人が未だに筋トレを欠かしていないのを思い出した清香は、何も言えずに黙り込んだ。
(二日間、寝ないつもりなんだ……。真澄さん、大丈夫かな? さすがに疲れたって嫌がれば、無理強いはしないとは思うけど。月曜には普通にお仕事だってあるのに。……ああ、だから日曜は泊まらないで、夕方柏木家に帰る予定になっているんだ)
何となく遠い目をしながら、兄夫婦の夫婦生活の内容を色々察してしまった清香に、ここで唐突に清人が声をかけた。
「ところで清香、話は変わるんだが」
「は、はいぃぃっ! 何!? もう何でも良いからどんどん変えちゃって!」
声を裏返して応じた清香に、清人は一瞬不思議そうな顔をしてから、徐に話し出した。
「その、今後のお前の住む場所について、なんだが……」
「あれ? 何かお祖父ちゃんが『部屋は余ってるから清香の部屋も用意するぞ』って言ってたけど、違うの?」
「俺も当初はそう思っていたんだが……、実は真澄が難色を示してな」
「真澄さんが?」
「ああ、誤解が無いように言っておくが、真澄はお前が邪魔だと言ってるわけじゃ無いぞ?」
「分かってるわよ、そんな事。どういう事なの?」
慌てて取って付けた様に弁解してきた清人を、清香は笑って先を促した。対する清人も苦笑いの口調で続ける。
「それがだな……、真澄が言うには『お祖父様に可愛がられているのは分かるけど、正直ウザいのよ。私は子供の頃から一緒に居るからもう慣れてるし諦めてるし、反抗期を過ぎたら際限なく構って来なくなったから良いの。だけど清香ちゃんが同居したら、四六時中構って干渉して来るのが確実だから、清香ちゃんが爆発しないか心配で』だと」
「……うん、それはちょっと、私も心配、かな?」
これまで柏木邸を訪問した時の総一郎のはしゃぎっぷり、纏わりつきっぷり、過干渉っぷりを思い出した清香が思わず顔を引き攣らせると、その表情で内容を察したらしい清人が、小さく溜め息を吐いた。
「真澄が『もし清香ちゃんがストレスを溜め込んでも、清人が一緒に住んでるんだから、実家に帰ってストレス発散って訳にもいかないし。それに加えて、お祖父様が清香ちゃんを家から出さなくなるかもしれないわ。『嫁に出すなんて言語道断。清香にも婿を取らせて一緒に住まわせるぞ!』って。お祖父様は未だに先代との確執を根に持ってて、小笠原家の事を良く思っていないから、手段を選ばず一人息子の聡君と別れさせるわよ? 幸いと言うか何というか敷地は十分に有るし』と言ってな。それは、俺も激しく同感だ。理性をぶっ飛ばした年寄り程、扱いにくい存在は無い」
真顔で頷いて話を終わらせた清人を見て、清香はがっくりと項垂れた。
「お兄ちゃん……、少しは否定してよ」
「中途半端な慰めを言っても、仕方がないだろう」
「じゃ、じゃあ、私はこのままここで生活するって言うのは? それなら良いよね?」
一縷の望みをかけて清香が提案したが、清人がにべ無く却下する。
「冗談じゃない。そんな事、駄目に決まってるだろうが。清香を一人暮らしなんて、心配でさせられるか」
ある程度予想はしていたものの、予想以上にきっぱりと断言され、清香は頭痛を覚えた。
「……お兄ちゃん。私、もう二十一なんだけど? 家事だって不自由なくできるし」
「三十だろうが四十だろうが駄目だ。押し込み強盗とかに襲われたらどうする」
「じゃあ、一体どうしろって言うわけ?」
半ば腹立ち紛れに清香が問いかけると、清人が予想外の事を言い出した。
「だからこの際、お前には下宿して貰おうかと考えている」
「下宿?」
「ああ。先方へはこれからお願いしてみる事になるから、はっきりいつからとは言えないが」
「ふぅん……、下宿、ねぇ……」
呟きつつ首を傾げて何やら真剣に考え込み始めた清香に、清人が穏やかに声をかける。
「どうだ? 清香。どうしても嫌なら構わないが」
「ううん、下宿でも良いと思う」
「そうか?」
そこで清香は清人としっかり視線を合わせ、自分の考えを述べた
。
「今までお兄ちゃんとずっと一緒だったけど、そろそろ兄離れしても良い頃よね? 人によっては地方の大学に入って一人暮らしして、そのまま地元に帰らないで、就職しちゃう人だって居るんだし。でもいきなり一人暮らしじゃやっぱり寂しいかもしれないから、下宿の方が良いかも。ごめんね? 甘えん坊な妹で」
そう言って悪戯っぽく笑った清香に、清人は楽しそうに笑い返した。
「寂しくなったら、いつでも顔を見に来い。俺が居る所が、お前にとっての実家だからな。勿論、真澄も歓迎するぞ?」
「うん、分かったわ。でもお祖父ちゃんが怒ったりしないかな?」
笑顔で頷いた清香が続けて心配そうな顔を向けると、清人が冷静に言い聞かせる。
「そこは俺と真澄でどうとでも宥めるから心配するな。控え目に月に一度は顔を出すと言っておいて、実際は月に二・三回顔を出してくれれば満足するだろうしな」
淡々とそう言ってのけた清人に、清香は半ば呆れながら感想を述べた。
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思わず清香は声を荒げて否定してしまったが、二人は互いに顔を見合わせて笑い出してしまった。
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【完】ベッドの隣は、昨日と違う人
月村 未来(つきむら みらい)
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📖2026.2.25完結
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