世界が色付くまで

篠原 皐月

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第70話 求婚

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 その日も浩一の帰宅は遅かったが、深夜と言える時間帯ではなく、恭子が準備しておいた夕食を食べ終えても、寝るまでにまだ余裕がある時間帯だった。そんな中浩一は、食べ終えた食器を抱えてキッチンに入りながら、シンクを片づけつつ翌朝の準備をしていた恭子に声をかけた。

「恭子さん、話があるんだけど。そこを片付け終わったら、ちょっと時間を貰って良いかな?」
「はい、構いません。ついでに紅茶でも飲みますか?」
「ああ、頼むよ」
 そして浩一は一度自室に引っ込み、恭子は手早く準備を済ませて二人分紅茶を淹れた。そして再びリビングにやって来た浩一の前に紅茶を入れたマグカップを置き、自分も反対側のソファーに座る。そしてそれを一口飲んでから、カップに口も付けずに黙り込んでいる浩一に、声をかけてみた。

「それで、お話ってなんでしょうか?」
「俺と結婚して欲しい」
「…………」
 顔を上げたと思ったら、不意打ちにも程がある台詞をぶつけてきた挙句、無言のままどこからともなく取り出した、どう見てもリングケースでしかありえない、掌に乗るサイズのビロード張りの箱をテーブル上で自分の方に押し出され、恭子の思考は一瞬停止した。そして相手の真剣極まる顔付きを見て、カップをテーブルに戻してから、一応渋面になって言葉を返してみる。

「何の冗談ですか?」
「俺は本気だから」
「それなら、余計にたちが悪いですね」
「どうして?」
 小さく肩を竦めてみせた自分に、浩一が淡々と尋ね返してきた為、恭子の中で何かが切れた。

「それを私に聞くんですか? 良く考えて下さい! まともに考えたら、私の様な女との結婚なんて、周囲の人間が認める筈ないでしょうが!?」
 勢い良くテーブルを叩きながら恭子は叱り付けたが、浩一は若干目つきを険しくしながら、怒気を孕んだ声で答えた。

「俺が結婚するんだ。誰にも文句は言わせない」
「そう言われてもですね! 現に浩一さんのお祖父さんだって、散々仰ってましたし」
「祖父が君に何か言ったのか?」
「いえ、大した事では……」
「何と言った?」
 思わず総一郎がマンションに押し掛けてきて、手切れ金を渡す渡さないの騒動になった事を思い出しながら口走った恭子だったが、途端に浩一が自分の台詞を遮って冷気を醸し出してきた為、慌てて口を噤んだ。

(何? この威圧感。先生と張るわ。あれの一部始終を正直に浩一さんに話したら、あのお祖父さんがどうなるか、全然想像できない)
 次第に悪化する雰囲気に冷や汗を流しつつ、恭子は殆ど強引に話の方向性を変えた。

「それはともかく! 大体浩一さんは、真面目過ぎるんです!」
「どういう意味かな?」
 取り敢えず、相手が怒りを抑えて応じてくれた様に見えた為、恭子はできるだけ明るい口調で言ってみた。

「ちょっと女に手を出した程度で、真面目に『責任を取らないと』って思い詰めちゃったんですよね? もう、嫌ですね~、これだから真面目過ぎる人って。でも良かったですね、手を出したのが、結婚願望なんて皆無な、私の様な女で。これが肉食系のハイエナ女だったら、忽ち骨だけになるところですよ? あ、ひょっとしたら骨も残らないかも。でも今回のこれが良い経験になったという事で、今後は変なのには引っかからない様に、十分注意を」
「そんな心配は不要だ」
「え?」
「君以外の女性に、手を出すつもりは無い」
 あくまで冗談で終わらせようとした恭子だったが、にこりともせずに浩一が言い切った為、彼女も考えを改めた。

(本当に……、本気?)
 そして、浩一に負けず劣らずの真剣な表情になって、呻くように告げる。

「はっきり言わせて頂ければ……、迷惑なので、止めて頂けませんか?」
「『迷惑』か。前置き通りはっきり言うね」
 そこで浩一はやや自虐的に笑ったが、恭子は取り敢えず相手の真剣な表情を崩した事で、幾分舌が滑らかになった。

「大体ですね、先生の下で働き出してからの私しか知らない癖に、トチ狂って何を言ってるんですか。自分で言うのもなんですし、意図して騙したつもりは毛頭ありませんが、何をあっさり見た目に騙されて」
「それ以前から知ってる」
「え?」
「今まで黙っていたが、君を初めて見たのは、君があのクラブに出ていた時だ」
 再び自分の台詞を遮り、淡々と告げてきた浩一に、恭子ははっきりと困惑した顔を向けた。

「……どう言う事ですか? そんな事、先生も浩一さんも、一言も口にした事は無かったですよね?」
「俺があいつに口止めした。そして金策も手伝って貰った」
 そこまで聞いた恭子は、信じられないといった表情になった。

「金策、って……、それってまさか……」
「ああ、君を加積邸から出す為の金だ。清人に建て替えて貰った分は、今でも少しずつ返している」
「どうしてそんな事をしたんです!! それ以上に、どうしてそれを今まで黙ってたんですか!?」
 驚愕の事実に、恭子は感謝の言葉を吐くどころか顔色を変えて盛大に叱責したが、浩一も今更そんな言葉など期待していなかった為、冷静に会話を続けた。

「君に正直に俺が借金の肩代わりをしたと言ったら、俺の事を色眼鏡で見そうだから。せいぜい《新しいご主人様》だろう? それ抜きで、俺の事を好きになって貰いたかったから」
 そんな事を言われて唖然としたものの、恭子は冷静にこれまでの事を思い返した。

「その割には、今までにアプローチらしきものを、全くされた記憶が無いんですが?」
「それはひとえに、俺が意気地なしだったからだ」
(それは、色々事情があったのかもしれないけど……)
 今となってはその事情を把握している恭子は、思わず眩暈すら覚えてきたが、何とか気合を振り絞って話を進めてみた。

「それなのに、どうして今更プロポーズしてきたんですか?」
「君に、幸せになって貰いたいから」
 浩一がそう口にした途端、恭子の顔からスッと表情が消える。

「……幸せ? 私が、ですか?」
「ああ。それから俺が」
「ふざけるのもいい加減にして! お坊ちゃんの自己満足は、他人の迷惑にならない場所と方法で満たしていれば良いでしょう!! 人を巻き込まないで頂戴!!」
 浩一が頷いて話を続けようとしたが、恭子の怒声がそれを遮った。その為、浩一は軽く眉を寄せて心外そうに呟く。

「……自己満足?」
「だって、私、幸せになりたいだなんて、家族と死に別れてから一度だって思った事ありません! 人は生きていくのに『どうしても幸せでいなくちゃいけない』ですか? 違いますよね? それだったら、生きている人間って、お幸せな人間ばっかりで、幸福とか不幸なんて概念、自体存在しなくなりますよね!?」
「恭子さん」
「そもそも私、自分はあまり幸せではないかもと思っても、昔と比べたら格段に幸せだと思っています。……ああ、でもお屋敷に居た方が、今より遥かにマシだったかもしれませんが!」
(違う、本当に言いたい事は、そうじゃなくて……)
 思わず勢いに任せて吐き捨てる様に言ってしまってから、恭子は内心で狼狽した。しかしどう取り繕ったら良いのか咄嗟に判断が付かずに口を閉ざすと、浩一が押し殺した様な声で問いかけてくる。

「それは……、今よりあの屋敷の中の方が、居心地が良かったという事か?」
 物騒過ぎる声音と共に突き刺さってくる視線に、恭子は密かにたじろいだが、これ以上続けたくない話題を断ち切る為、勇気を振り絞って全力で肯定した。

「そうですよ! 先生からの無茶振り指令なんか受けなくて済みますから、心身が疲弊する事なんかありませんでしたし、こんな訳の分からない事を言われて、煩わしい思いをしなくて済みましたし!!」
「……そうか」
「それに例え他人から見て不幸だからって、別に生活に不自由はしていませんし! 第一、自分にとっての幸せがどういう事なのか考えた事もないし、全然分からないのに、どうして赤の他人のあなたが、訳知り顔でそんな事を口にできるんですか!? 上から目線での物言いは止めて下さい!! 自分が幸せだろうが不幸だろうがどうでも良い程度に、私にとっては、あなたの事なんかどうでも良いんですから!!」
 決定的なその台詞を恭子が口にすると、室内に沈黙が満ちた。

(だって……、私と結婚したいだなんて、真顔で馬鹿な事を言い出すんだもの。私は悪くないわよ!)
 流石に言い過ぎたとの自覚はあったものの、恭子は浩一から視線を逸らさずに、真正面から睨み付けつつ、心の中で逆ギレした。そんな彼女からついと視線を逸らした浩一は、手を伸ばしてリングケースを掴んで引き寄せ、握り締めながら静かに立ち上がる。

「分かった。付き合って貰って悪かったね。俺はもう寝るから。おやすみ」
 一見、いつも通りの態度で就寝の挨拶をしてきた為、ドアに向かって歩き出した浩一の背中に、恭子は慌てて立ち上がりつつ一応確認を入れた。

「あの……、それは良いんですけど、今後一切、今の様なふざけた話は」
「しないで下さい」と続ける筈だった台詞は、クルリと振り返った浩一の台詞で遮られる。

「仕切り直しにする。また改めて話をするから。それじゃあ」
「え? あの……」
 再び言うだけ言って踵を返した浩一を、恭子は呆然と立ち尽くしたまま見送り、その姿がドアの向こうに消えてから、糸が切れた様にソファーに座り込む。

「……何? 仕切り直しって? あれだけ罵倒されて、まだ諦めてないわけ?」
 考えるともなくそんな事を呟いてから、漸く頭が冷えてきた恭子は、率直な感想を口にする。

「本当に、幸せになりたいだなんて、考えた事もないし……。あんな事、言われた事なんか無いんだもの……」
 そこで熟考する様に、両目を閉じて背もたれに体を預けた恭子は、しみじみとした口調で感想を述べた。

「いい加減にしてよ。結婚なんかできるわけないじゃない。本当に、あそこまで馬鹿な人だとは、今の今まで思わなかったわ」
(それ以上に、自分がここまで馬鹿だとは思わなかったけどね。何をムキになってるんだか……)
 しかしそのコメントが、自分自身を自虐的に捉えている故の事だと、言った本人である恭子にも分かっていた。
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