世界が色付くまで

篠原 皐月

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第27話 視線

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 小笠原物産営業部へ配属されてから四ヶ月目である恭子は、未だ一人で営業活動をさせられるわけもなく、事務処理やデータ管理を集中的に担っていたが、会議には一応他の社員同様参加していた。その日の会議は当初から重苦しい雰囲気が漂っていたが、幾つかの報告の後、課長の杉野が本題に入った所で、それが顕著になる。

「……そういうわけで、永沼光配への売り込み状況が芳しくない。宰工業で新規開発した特殊センサーと蓄熱素材は、太陽光パネルの可動性と収益性を高めると思うんだが」
 如何にも悔しそうに杉野が話を締めくくると、営業一課の面々が口々に意見を言い出した。

「最近あそこは、新規商品の開発自体に消極的ですね。技術者の大量退職が響いているものと」
「それに、既存の取引先からは、部品を値引かせてコストを下げてますから」
「上層部は新商品開発に、前向きな姿勢を貫いているんだが……。現場の腰が重過ぎる」
「誰か先方の営業部に伝手がある者はいないか? とにかく話を聞いて貰わない事にはな」
 そんな会議室内の意見の応酬を、無言のまま聞いていた恭子だが、密かに頭の中で計算を巡らせていた。

(一通り、調査対象全員と顔を合わせたし、そろそろ第二段階に移りたいんだけど、どうしようかしら? 都合良く永沼光配の話題が出ているから、上手く話に噛ませて貰いたいけど……。新人の私が自分から言い出したら、如何にもわざとらしいしね。聡さんに上手く誘導して貰える様に、打ち合わせしておくべきだったかしら?)
 手元の資料に目を落としながら恭子がそんな事を考えていた時、ちょうど考えていた人物の名前が室内に響いた為、思わず顔を上げた。

「何だ角谷。川島君に見とれるなら休憩時間にしろ。今は会議中だ」
(え? 聡さん?)
 すると、如何にも不機嫌そうな杉野から叱責され、慌てて聡が弁解する姿が目に入った。

「い、いえ、そういうわけでは無くてですね、川島さんは顔が広いので、ひょっとしたら永沼光配の社内に伝手がないかと思いまして、つい顔を見てしまいまして……」
 かつて清人の指示で恭子が聡が所属する営業一課の仕事を妨害したと知っている聡と、当事者の恭子は周知の事ながら、そんな事とは夢にも思っていない杉野は、胡散臭そうな表情を隠そうともせず、聡を問い質す。

「川島君が? どうして」
「以前の雇い主の執筆の為の取材で、各方面に知己がおありの様なので」
「どうして君がそれを知っている?」
「実はその作家が、交際中の女性の兄でして」
「……ほう?」
 そこまで聞いた杉野は、まだ怪訝そうな表情ながらも恭子に顔を向け、恭子は思わず笑い出したくなったのを必死に堪えた。

(聡さん、グッジョブ! 今度マンションに来た時には、ちゃんと人数に入れて、お茶を淹れてあげるわね!)
 そんな事を考えながらも神妙な表情を取り繕っていた恭子に、杉野が声をかけた。

「川島君。角谷がそう言っているんだが、永沼光配の営業部に伝手はあるかね?」
「営業部にご存知の方はいませんが、永沼社長ならゴルフ仲間ですから、個人的な連絡先を存じあげています」
 落ち着き払って恭子が答えた瞬間、会議室内の空気が驚きで僅かに揺れた。

「本当か!?」
「はい」
 思わず食い付いてきたのは係長の海藤で、そのままの勢いで懇願してくる。

「それなら永沼社長に連絡を取って、うちの話を聞いて貰える様に頼んでみてくれないかな?」
「社長にお電話するのは構いませんが、具体的には、どこの部署のどなたにお話が伝われば良いんでしょうか?」
 自分の申し出にすこぶる冷静に恭子が応じ、それで海藤も真顔になって考え込んだ。

「そうだな……、営業部の高野係長か、開発部の更科課長かな」
「分かりました。それではちょっと失礼して、隅で私用電話をかけさせて頂きます」
「ああ、構わんよ」
 恭子が席を立ち上がりつつ断りを入れたのは杉野で、それに鷹揚に頷いたのを見て、恭子は会議室の隅に移動し、携帯を取り出して電話をかけ始めた。

「お久しぶりです永沼社長。川島です。突然お電話して申し訳ありませんが、今お時間は大丈夫ですか?」
 静まり返った会議室中の視線を集めているのを自覚しながら、恭子は朗らかに会話を続ける。

「……それは良かったです。え? ……ええ、それなりに。永沼さんの方こそ、最近ハンデはどうですか? ……あら、そうなんですか。困ったわ、負けそう」
 他の者達がジリジリしているのを盗み見ながら、恭子はひとしきり和やかに会話を進めてから、さり気なく本題に入った。

「……それで実はお願いがあるんですが。私、今小笠原物産の営業部に勤務してるんです。……はい。……ええ。それでそちらの会社に有益な商品をご紹介出来ればと。現場サイドへの売り込みはしているんですが、既存の取引商品優先の立場を取っているらしくて……、はい、そうなんです」
 そして海藤の方に一度身体を向けて話してから、恭子は壁の方に再び向き直った。

「……そうですか? ええ、それで結構です。ありがとうございます。はい、是非またご一緒させて下さい。それでは失礼します」
 そうして携帯を手にしたまま、壁に向かって深々とお辞儀をした恭子は、携帯をしまい込んでから海藤の方に向き直って報告した。

「係長、取り敢えず永沼社長の方から、営業部の高野係長と開発部の更科課長に、うちの話を聞くように声をかけてくださるそうです」
「本当かい!?」
 思わず腰を浮かせ、喜色満面で確認を入れてきた海藤に、恭子は一応釘を刺した。

「はい。ただし永沼社長は『話を聞く機会は設けるが、商談として成立するかどうかは、小笠原産業で勧める商品の中身と運用プラン次第だ』と仰っていましたが」
「それでも御の字だよ! ありがとう。早速話し合いの日程確認の電話を」
「あ、ちょっと待って下さい。社長から話を伝える時間が欲しいし、相手が捕まらないかもしれないから、こちらから連絡をするのは三十分は待って欲しいと、言われましたので」
「ああ、それもそうだね。慌て過ぎだ。足元を見られない様にしないとな」
「そうですね」
 上機嫌な海藤が自分に言い聞かせる様に口にすると、恭子も微笑んで頷き返した。それを見た杉野が、真剣な顔付きで口を開く。

「……川島君」
「はい、何でしょうか? 課長」
「角谷の言う通り、君はなかなか交友範囲が広いみたいだね」
「それほどでもないと思いますが」
 落ち着き払って答える恭子の顔色を窺いながら、杉野が探る様に問い掛ける。

「因みに……、紅林化学と能島プラントの上層部に、知り合いは居ないのかね?」
「紅林化学会長の花咲さんとは、囲碁サロンで知り合って以来、時々手合わせをお願いしています。能島プラントの松本常務とは、ツーリング仲間ですね」
 恭子の話を聞いて唖然としたらしい周囲を代表し、杉野が率直な感想を述べた。

「……随分、趣味が広範囲だな」
「興味を持ったら、とことんやってみる性分なもので。それで、お二方に商談を聞いて頂けないか、お願いしてみれば良いんですか?」
 恭子が確認を入れた事で杉野は我に返ったらしく、素早く部下に指示を出した。

「ああ。峰岸、菅生、彼女にこの二つの案件内容を、簡単に説明してくれ。三人で、先に席に戻っていて良いから」
「はい」
「分かりました」
 頷いて立ち上がった二人と連れ立って会議室を出た恭子は、男二人の後ろを歩きながら、小さくほくそ笑んだ。

(今日は、棚ぼただったわ。これで私の利用価値を、思惑のある連中に対してさり気なく披露する事ができたし。だけど……、獅子身中の虫の末端の部署に一人息子を放り込むなんて、小笠原社長はやっぱり厳しい方だわ)
 課長の杉野も調査対象に入っていると聞いた時の感想を思い返しながら、恭子は満足げに足を進めた。


 職場内で、恭子に対する視線が微妙に変化した日から、何日か経過した週末。朝食を食べ終えてソファーでのんびりしていた恭子の前に、シンクの後片付けを済ませてお茶を淹れた浩一が、恭子の前に湯飲み茶碗を一つ置いた。それについて礼を述べてから手を伸ばした恭子は、両手で持って飲みながら一人考え込む。

(はぁ……、やっぱりあれ以降、ボチボチ探りを入れてくるのが増えたわね。使える人間なら、なるべく思い通りに動かしたいのは分かるけど)
 ずずっと小さな音を立ててお茶をすする恭子を、浩一は新聞を読むふりをしながら観察していたが、恭子はそれには気付かないまま自問自答を続けた。

(匙加減が、難しいのよね……、あからさまにすり寄ったら怪しまれるし、かと言って強固にはねつけるわけにいかないし。今回は対象者が複数だし……、面倒臭いからいっそのこと陰で競争心を煽って、共倒れさせるのも有りかしら? 今度小笠原社長と湊専務にこっそり連絡を取って、そこら辺の意見を聞いてみないとね)
 社内抗争を唆す様な、物騒な事を恭子が考えていると、新聞を畳んだ浩一が徐に声をかけてきた。

「……恭子さん」
「はい、浩一さん。何ですか?」
「これからどこかに出かけようか?」
「何か切らしている物がありました? 洗剤とかトイレットペーパーの類は、十分買い置きがありますよ?」
 不思議そうに首を傾げた恭子に、浩一が小さく首を振って答える。

「別に、買い出しに行こうと言っているわけじゃ無いんだ。恭子さんが難しい顔をして考え込んでいるから、気分転換できる所に行こうかと思っただけだよ。どこに行きたい?」
「いえ、買い出し等でなければ、別に行きたい所はありませんが」
 戸惑った恭子に、浩一は僅かに目を細めて尋ねる。

「これまで休日に、全然出かけていなかったわけじゃ無いだろう?」
「それはそうですが。対象者の下調べをしたり、近付く為の情報収集をしたり、小細工の準備をしたりと、仕事上必要な事をして色々忙しく過ごしていましたよ?」
 真顔でそう述べた恭子に、浩一は溜め息を吐いてから、僅かに低めの声で話を続けた。

「仕事絡みの事はともかく……、プライベートで知人の男性と出掛けたりとかは?」
「仕事絡みでは良くしてましたが、どうしてわざわざ休みの日に、男の人と出掛けないといけないんですか?」
「俺とはこの間、何度も出掛けてるよね?」
「生活必需品を買っておかないと、困るじゃありませんか。別に荷物持ちをしてくれなくても、私だけで買って来れますから、お付き合いしてくれなくても大丈夫ですよ?」
「そうじゃなくて……」
 恭子が真顔で言い切ると、何故か浩一は片手を額に当てて、再度深い溜め息を吐いた。それを見て恭子が怪訝な顔をする。

(浩一さん、一体何を言いたいのかしら?)
 そのまま恭子が様子を窺っていると、浩一が気を取り直した様に顔を上げ、再度恭子に話しかけた。

「分かった。言い方を変える。君が一人で、気分転換に出掛けたい所は無いかな?」
「一人で、ですか? そうですね、図書館とか?」
「…………」
 何気なく口にした台詞に、浩一は明らかに眉間に皺を寄せ、口元を引き締めて黙り込んだ。それを見た恭子が、困惑の度を深める。

(そんな、如何にも不機嫌ですって顔をされても困るんだけど……。何がどう気に入らないのかしら?)
「他には?」
「他にと言われても……」
 静かに重ねて問い掛けられ、恭子は戸惑いながらも考えを巡らせた。

(そうね、普段結構好奇心に満ち溢れた視線で見られているから、憂さ晴らしにこちらがじっくり観察してみようかしら)
 そんな事を思いながら、恭子は口を開いた。

「そうですね。久しぶりに水族館とかも良いですね。泳いでいる魚をぼんやり眺めるというのも」
「分かった。十分後に出発するから、急いで支度して」
 話の途中でいきなり口を挟み、素早くソファーから立ち上がった浩一を見て、恭子はさすがに慌てた。

「え? あの、ちょっと待って下さい、浩一さん。出発ってどこに行くつもりですか?」
「水族館に行く。車を出すから」
「は? 私は別に、今から行かなくても」
「さっさと準備する」
「……はい」
 幾分強い口調で促された恭子は、下手に逆らうのを止めて大人しく頷いた。そして湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干し、慌ただしく自室へと足を向けた。
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