短編

椎名菖蒲

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泥中に咲く花

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 耐え難い寒さから逃れる。この薄汚い居酒屋である理由はそれだけで良かった。

 この蓮太郎と言う男は他人を下位に置く節があって、多くの人間から変わり者と避けられていた。
蓮太郎は友人と、表現者としての問答をしていた。二人は衝突のある表現を避けながら、言葉の隅に美的表現を忍ばせ、優劣さえ競っている。会うたびにお題を変えて討論その物を楽しんでいた。
 なまじ表現者や作家なんてものは、人生の自己肯定感を持てないくせして、己の土俵となると決して引かないものである。
 そう言うマイノリティだけが、彼の周りに集まって来て日々自分の考えと活動が作家としての研鑽であると、酒の勢いに乗せて誰に理解されるのでもない雄弁を吐いていくのだ。
 蓮太郎は持ち合わせの金も無いくせに、安い日本酒しかないことに不満を持ちながら、結局は味の良し悪しも分からないような熱燗を呑みながら、友人の唱える説に、さも年長者らしい回答をよこす。
 そんな彼の世間一般では認められないような考えを、友人は喜んで聞いていた。
 無論蓮太郎もそれが今出す答えとして不十分であることは承知の上で、また、演劇の基本的な演出技法をさも自分が考えたかのように湾曲させて得意気に話すような人間であった。
 最もその友人からすれば、同じ作家として充分に理解しているし、彼が言う事など八割方は聞き流している。ただ、一般受けしない事に関しては共通していて、希に出る答えから強いインスピレーションを得られるものだから、この男の話を辛抱強く聞いている。
 そうでもなければ、この男との関係が続く筈がない。

 閉店後まで二人の談義は続き、このまま帰るには締まりの悪いものになっていた。今にも落ちて来そうな雪雲を見上げ、寒さに身を擦りながら、蓮太郎は友人に導かれるまま、次の店に連れていかれる。
 最初の居酒屋もこれからの行動も自分では決められない蓮太郎は、結局は他人の決めた事にケチをつける他になかった。
 乗り気でない蓮太郎でも、徒歩3分なら良しと友人の後を付き人のように凍った足元を気にしながら渋々歩く。
 先の居酒屋もこの先の店も自分は一文も出さないくせに文句だけは止まらない。
 これだけ制御不能な人間を、唯一制御できる友人はある店まで彼を案内した。
「蓮太郎さんここが前に言っていたお店です」
「でも、ここってさぁ」
蓮太郎には金がない。偉そうな事を言っておきながら、他人の大事なものを踏みにじってまで、自分の世界を守れる程、意志の強い人間ではないのだ。

 友人があまりにその店を高く評価するものだから、見ずに帰るような人間であると思われても面白くない。
気乗りのしない蓮太郎は3段しかない階段に重い足をかけた。
「あら純ちゃんじゃない。最近顔見せてくれなかったじゃない」
「アンナさんお久しぶりです。この人がこの前話した蓮太郎さんです」
大体の人間は蓮太郎を誰かに紹介する前に、彼の人間性を前もって説明している。そうでもしないと、行く先々で揉め事になるからだ。そうして誰もが、話に聞く通りの面白い男であると評価している。
 裏を返せば、それだけの厄介者を受け入れている所にしか彼は行けないのだ。
 蓮太郎自身それに甘えている部分を持ちながら、ここまで上手く彼を宣伝できる友人を不思議にも思っていた。
 ただ実際は、変人か面白い奴としか伝えていないもので、この男がその枠に収まっているだけなのである。

「そう。あなたが蓮太郎さんね。初めましてアンナと申します。」
「どうも。アンナさん。素敵なお店ですね。」
「いいえ。こんな店くそよ。見世物小屋よ。あるいは豚小屋よ。」
それが地上に堂々と構えられているのはどうかと思うが、実際は広くないにしても落ち着いた作りのバーである。
 キープボトルの山崎はラベルを前にして、綺麗に戸棚に飾ってあり、前の客が残したであろう洗う前の食器類もジョッキとグラスで分けられている。

 二人に出される、お茶割りのグラスもとても綺麗に磨かれて水垢一つ付いていない。
 駅前のバーなのだから、それくらいの品質であるのはさも当然と思えてもいいが、蓮太郎の気に留まっていたのはその事より店の外から感じていた死の臭いであった。
 こう言った業界で生きる人種はそこで息を吸う度、その地獄に苦痛という名の税金を払っているのだ。また、彼も友人も同類の納税者である。
 きっと友人は蓮太郎と彼女と合わせて、一つの物語を作ろうとしているのだ。
 この店に入った瞬間、蓮太郎は作家から演者になってしまった。
まんまと今宵の作家としての立場ってものを友人に取られて気に食わないのである。
「一杯喰わされたな。」
「じゃあ私は純ちゃんを食べちゃうわ。」
蓮太郎は不可解であった。
 彼女の用な人種は、美の妄執に取りつかれて、歯止めの聞かない化け物のような生き物になって行くものだが、違った。
 また、プロとしての経歴が長いことについては、目と頬を見れば不思議と解るものであった。
 自然な役者顔で、体に施されたものは見る限りでは見つからなかった。彼女を彼女足らしめるのはその所作である。
 息を吸うように煙草に火をつけるし、がははと豪快に笑う。10分に一回は下ネタも言う。しかし、気配りや手先の動きがとても丁寧であった。
 特に蓮太郎の興味を引いたのは、彼女が培った知識と教養と領域と言うものに、同じ領域を感じ取ったからだ。
 美術絵画への解釈や、話題に対しての引き出し多さ、はたまた蓮太郎の趣味の茶器の作り手であった経歴や、今現在作家として絵を描いていること。
 他人と言うものを下位に見る節のある蓮太郎は、彼女と1時間話している内に、教わる側としての心得と言うものを完全に受け入れていた。
 彼女は蓮太郎に取って理解者であると思えたのだ。
そして、彼女もまた蓮太郎と言う亡霊を理解した。
 感動する蓮太郎を見て気を良くした友人は、改めて彼女に対する評価を彼に求めて来た。
 普段ひねくれたこの男も、今夜はあきらめて正直になっていた。ただ、友人はこんなサプライズをしたかった訳ではない。
 彼は悩みの一つとして、蓮太郎の知らない彼女との思い出話をした。
 5年か6年前の事らしい。彼女と二人で行ったガールズバーで、他の客から侮辱的な事を言われたそうだ。
 中年のおっさんに化け物と言われ、それを切っ掛けに大いに揉めたそうだ。
 アンナはその時の事など忘れていて、事細かに当時のいきさつの説明を受けやっと思い出すと、生と死の浮き沈みの中で作った笑顔で言った。
「いいのよ。そいつはうちの常連でもあるし、そういうお客からは、みっちり絞り取ってやるんだから。」
それが本心であるかは、蓮太郎からしても解らなかったが、したたかで美しい魂を持つ人間であることは解った。
 ただ、友人はその時の事が脳の隅にこびり付いていて、今でもそいつを殴らなかった自分に憤りを感じている。
 大切なものを汚され、そこに堪えるアンナがいたのだろう。その沙汰を蓮太郎に見極めてもらいたかったのだ。
 蓮太郎は言った。暴れた所で得るものよりも失うもの方が大きい。当然、迷惑を一番に受けるのはアンナであると。
 友人は納得していない。そんな詭弁が聞きたかったからじゃないからだ。
 そんな事は蓮太郎にも解っていたし、事実彼女達が生きる世界はまだまだこの世界には認められていない。
 それを承知の上で一歩踏み込んだのが彼女達であって、代わりに彼が怒るのはお門違いである。
 虚無主義の蓮太郎からすると、理性より感情で動くこいつら表現者達の方がよっぽど化け物のようにも見える。
アンナは言った。
「でもそう言う後悔って、生きている証拠であって、私はそう言うものをたまらなく愛しいと思えるわ。」
「そうさな。過去の行いを今振り替えるなら、いくらでも修正したいものだ。ここにいる私達は死こそ救いであると思っているが、この人生が悲しみの上で成り立つ美しいものであると、その後悔の度に生と共に感じさせられてしまうのだね。」
「あら蓮太郎さん詩的。」
「アンナさんこそ、このドブみたいな世界でよくそんな美しい台詞を吐けるな。」
「そう。泥中に咲く花なのよ。」
仏教で一番美しいものはその花である。
アンナは言った。花を咲かせるという行為は痛みである。そして自身はドブであり、自分と言う泥中から美しい花が咲くのだと。
その花は清らかな水の上では咲けない。その性質と物の例えが美しく纏まっている。
「一本取られたな。」
「じゃあ私は純ちゃんの一本を頂くわ。」
 もう一度来よう。そう思う彼の心は数時間前にあった考えと真逆になっていて、ここでならアンナからインスピレーションを得られると感じていた。


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