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第一幕
【1-B】村上 忠志(元消防士)編 第一幕
しおりを挟む寒風がアパートの隙間を抜け、古いサッシがカタカタと震える。
村上忠志は、座卓の上に置いたノートパソコンを閉じた。
ニュースサイトには『首都圏各地で鉄道運休』と赤字の速報が流れ続けている。
外では子どもの泣き声と、どこかで犬がワンワンと吠える声。
それらが風に運ばれてくるのを聞くと、胸の奥がざわつく。
――災害現場の音を思い出すからだ。
彼は四十代半ばすぎ。がっしりとした体格だが、どこか力が抜けて見える。
火事での後遺症、体の痛み、仲間を失った記憶。
消防士を辞めてから三年、今は昼間に交通誘導員をしながら暮らしている。
机の上には真っ赤なマグカップ。まだコーヒーの香りが残っている。
唇に触れると、冷めきった苦みが舌に広がり、思わず眉をひそめた。
「……ダメだな」
コーヒーすら、熱いうちに飲み干せなくなった。
気をまぎらわせるようにスマホを開く。
SNSのタイムラインには ≪#帰れない人たち≫ が溢れていた。
無秩序な瓦礫。人混み。駅前の寒空。
誰もが困っていて、誰もが繋がろうとしている。
村上は指を止めた。
駅前で自撮りしたらしい若い女性の投稿が目に留まった。
黒いボブカットの髪に街灯の赤が映り、瞳は不安と少しの強さを宿している。
≪電車止まった…寒い。#帰れない人たち≫
短い言葉だが、どこか切実だった。
気づくと、彼は返信を打っていた。
≪駅前で動けない人、消防経験者です。何か困ってますか?≫
送信を押す瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。
――なぜまだ、人を助けようとしているんだ。
もう引退した身なのに。
だが画面に≪既読≫がついた瞬間、呼吸が少し軽くなった。
自分の存在が、たとえ小さくても誰かの支えになるかもしれない。
それだけで十分だと思えた。
部屋の蛍光灯がジジッと音を立てる。
電気まで不安定になっているのかもしれない。
窓の外を覗くと、街灯が不規則に明滅し、夜の住宅街を不気味に照らしていた。
スマホに再び通知。
≪もし避難所がわからなかったら教えます≫
彼はそう送って、画面を見つめる。
返事はまだない。
でも、あの子は必ず読むだろう。
立ち上がり、部屋の隅に置いてある古びたリュックを引き寄せた。
そこには辞めるとき返却しきれなかった防寒シートや小さな懐中電灯、消毒用アルコールが入っている。
指先でシートの銀色の感触を確かめると、当時の現場の冷気と叫び声が蘇った。
耳鳴りのようにサイレンの音が頭の中で響き、背筋が固まる。
――落ち着け……もう、現場じゃない
深く息を吐き、苦い空気を肺から押し出す。
スマホが震えた。
通知の文字は短い。
≪暗い……どうしよう≫
駅前の彼女からだ。
彼は即座に返信する。
≪落ち着いて。すぐに指示します≫
窓の外では、本当に街灯が一斉にバチッと消えた。
辺りが暗闇に沈む。
数秒遅れて、遠くから人々のざわめきが波のように押し寄せてきた。
村上の手は自然に動いていた。
SNSに投稿する。
≪懐中電灯を持っている人は周りを照らしてください。駅周辺の人は互いに声を掛けて≫
指先が少し震える。
だが、送信を押すと、不思議な安心感が広がった。
まだ自分には、できることがある。
ふと部屋の隅の姿見に、自分の顔が映る。
無精ひげ、くたびれたジャージ、肩の痛みで少し曲がった背筋。
あの頃の『消防士・村上忠志』とは似ても似つかない。
それでも、スマホの画面に映る投稿者たちは、彼を『元消防士』として求めてくる。
再び通知が鳴った。
「Stay with me!」
英語の叫びとともに、駅前の映像が断片的に投稿されてきた。
外国人女性と、彼女が一緒に写っている。
光を頼りに、必死で誰かを守ろうとしている姿。
胸の奥が熱くなる。
「……強いじゃないか」
つぶやき、拳を握りしめる。
彼女に何かをしてやるんじゃない。
今度は、自分が彼女の強さに救われるのかもしれない。
コートを羽織り、リュックを背負った。
階段を降りる足音がドン、ドンと響く。
冷たい夜気が一気に頬を打ち、鼻腔を刺す。
街の奥からは人々のざわめきと、どこかで破裂したような音。
ただの停電ではない。
もっと大きな何かが始まろうとしている――そう直感する。
村上はスマホを握り直し、もう一度メッセージを送った。
≪君は大丈夫。必ず、誰かがいる≫
その誰かに、自分自身がなれるのか。
胸にまだ残る痛みを押さえながら、駅へ向けて歩き出した。
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