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第一幕
【1-E】長谷川 陽翔(海外留学生/シドニー)編 第一幕
しおりを挟むパチ、パチ、と。
古い天井ファンの羽が、夜の空気をバサリと切り裂く音を立てていた。
長谷川陽翔、20歳。
南半球の夏を迎えたオーストラリアのシェアハウスで、ノートパソコンを開きっぱなしにしていた。
窓の外は真昼のような青空。だが、画面に映る日本のニュースは、まるで別の惑星の出来事だった。
≪大規模停電で首都圏は混乱≫
≪駅構内に帰宅困難者が多数≫
モニターの中で揺れる映像は、見慣れた街並みのはずなのに、陽翔にとってはすでに遠い故郷の幻のようだった。
「はると、大丈夫? 日本の家族」
背後から英語で声をかけてきたのは、同じ家のハウスメイト、マットだ。
陽翔は軽くうなずく。
「They’re fine…… I think. でも、まだ連絡は取れてない」
喉がカラカラに乾いていることに気づき、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。
冷えた水を流し込むと、胃の奥にゴクリと重く落ちていった。
その感覚が、今ここが“安全圏”であることをいやに突きつけてきた。
スマホを握る指が震える。
時差のせいで、日本はすでに夜。
SNSのタイムラインは刻々と更新され、見知らぬ人々の叫びや助け合いがハッシュタグ≪#帰れない人たち≫に集まっていた。
≪高校生が、駅のトイレに避難してる≫
≪元消防士の人が、誰かを助けに走ってる≫
≪配達員がライトを貸したって≫
スクロールするたびに胸がざわついた。
ザァァ……と耳の奥でノイズが鳴る。
実際にはハウスメイトが回している洗濯機の音なのに、日本から響いてくる叫びのように思えてならなかった。
――なぜ自分はここにいるんだろう
その問いが胸を突く。
去年、大学の交換留学プログラムで海を渡った。
もともと内向的な性格で、日本では人前に立つことを避けていた陽翔にとって、異国での暮らしは挑戦でもあり、逃避でもあった。
だが今、スクリーン越しに故郷の危機を見せつけられると、その選択がわずかに後ろめたくなる。
SNSに目を戻す。
同年代の誰かが、暗闇の街を懐中電灯で照らしている写真。
看護師らしい人が、倒れた人に手を伸ばす短い動画。
――自分も、そこにいたら。
胸の奥で何かがきしむ。
助けたいのに、何もできない。
安全な場所にいる罪悪感が、皮膚の下でチリチリと熱を放った。
陽翔は意を決してスマホを操作した。
≪#帰れない人たち≫に自分も投稿してみようと。
≪海外から見ています。自分の家族も東京にいます。どうか皆さん無事でいてください。情報を共有しましょう≫
送信ボタンを押す指先が、わずかに汗ばんでいた。
数秒後、≪いいね≫とリプライが返ってきた。
≪オーストラリアからですか? ありがとう≫
≪家族も頑張ってます、一緒に祈りましょう≫
画面越しなのに、遠く離れた人たちが自分とつながった気がした。
孤独な部屋に、ほんの少し温もりが満ちる。
そのとき、不意に実家からメッセージが届いた。
≪心配いらない。停電だけど、お家うちは無事≫
胸の奥がドンッと跳ねた。
安堵で呼吸が浅くなる。
「……よかった」
マットが肩を叩いた。
「See? They’re strong.」
陽翔はうなずき、窓の外を見た。
南半球の太陽は照りつけ、芝生の上をカンガルーが跳ねている。
その光景は、画面の向こうの暗闇とあまりにも対照的だった。
――自分はここで何をすべきなんだろう
静かな問いが胸の中で広がる。
直接助けることはできない。
けれど、声を届けることならできる。
記録し、拡散し、繋ぐことなら――
ノートPCでSNSの投稿画面を開く。
キーボードを叩く指が軽やかに動き出した。
≪海外にいるからこそ見える視点をシェアします。現地の報道や英語での情報も翻訳して届けます≫
カタカタカタ……ッ
打鍵音が小さな部屋に響く。
それは彼にとって、遠い国の混乱へ差し伸べる唯一の手だった。
送信を終えると、陽翔は深く息を吐いた。
冷たい風が、網戸越しに肌を撫でる。
そのとき、不思議なことに胸の奥のざわめきが少し静まった。
彼はまだ、何者でもない。
だが、遠く離れた日本で必死に生きる誰かと、細い線で結ばれている。
その確信だけが、南半球の孤独をほんの少し和らげていた。
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