#帰れない人たち ~ 6人のメモリー

ぶるうす恩田

文字の大きさ
12 / 32
第二幕

【2-D】新井 彩花(看護師)編 第二幕

しおりを挟む


体育館の床に敷かれたブルーシートは、夜の冷えを遮ってはくれなかった。
眠れぬまま、彩花は何度も寝返りを打った。耳に残るのは人々の咳き込み、子どもの泣き声、そして不規則な余震の揺れ。目を閉じても、震災当日の慌ただしい病棟の光景が蘇ってくる。

「――看護師さんですよね?」
うとうとしていたところを呼び止められ、彩花は上体を起こした。年配の女性が孫の手を引き、不安げに立っている。
「この子、熱があるみたいで……」

自分の名前や職業を言った覚えはなかった。だが噂の伝達は早いらしい。彩花はカバンから体温計を取り出し、子どもの額にそっと触れた。熱い。
「大丈夫ですよ。水分を少しずつ摂らせて、温かくしてあげましょう」
そう言いながらも、ここには十分な毛布も薬もない。手元にあるのは簡易救急セットと、病院から持ち出した数枚のマスクだけ。

午前中、避難所の職員から「医療従事者の方はいませんか」と呼びかけがあり、結局、彩花が中心となって簡易的な医療コーナーが設けられることになった。
咳をする人、擦り傷を見せる人、持病の薬を切らした人。
対応するたび、彩花は
――これは応急処置にすぎない、本来なら病院で診るべき患者だ
と自分に言い聞かせた。だが交通は止まり、電話も通じない。

「せめて血圧だけでも……」
手元にある器具で測定しながら記録をとる。紙切れに走り書きされた数字が増えるたび、責任の重さが胸に積もった。

昼過ぎ、彩花は外に出て、配給の列に並んだ。
手渡されたのはおにぎり一つと水のペットボトル。
「あの……もう少し、子どもに回してあげられませんか?」
彼女が口を開くと、列に並んでいた男性が苦笑した。
「誰もが同じですよ。看護師さんだからって優先できるもんじゃない」

冷たい言葉に返す言葉が見つからず、彩花はおにぎりを両手で受け取った。
確かにその通りだ。自分だって一人の避難者に過ぎないのだ。
だがそのとき、小さな手が彼女の袖を引いた。先ほどの熱のある子どもだった。
「ありがとう、ねえちゃん」
弱々しい笑顔に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。彩花は半分に割ったおにぎりを、その子に差し出した。

午後になると、通信障害で繋がらなかったスマートフォンに一瞬だけ電波が戻った。
彩花は震える指でメッセージアプリを開いた。
≪彩花、無事?≫
友人からの短い文字。だがすぐに≪圏外≫に変わり、返信は送れなかった。

画面の通知欄には、見慣れない英語の投稿が並んでいる。
≪#QuakeHelp≫≪#WhereIsSafe≫
――どうやら外国人観光客が助けを求めているらしい。
彩花は一瞬、翻訳アプリを立ち上げようとしたが、バッテリー残量が20%を切っているのに気づき、慌てて電源を落とした。

「ごめんね……」
画面の向こうで誰かが助けを待っているかもしれない。それでも今は、自分にできる範囲を守るしかなかった。

夜。
避難所の片隅で、彩花は再び人々の体調を見回っていた。
高齢の男性が胸を押さえて座り込み、周囲がざわついた。
「救急車を!」
誰かが叫ぶ。だが車は来ない。電話も通じない。

彩花は必死に脈をとり、周囲の若者に声をかけた。
「ここを押さえて、息苦しさを和らげて!」
彼らはぎこちなく従った。
やがて男性の呼吸が落ち着き、安堵のため息がもれる。
「ありがとう、看護師さん」
その一言に、彩花は返す笑顔を作る余裕すらなかった。ただ、震える手を膝に押し当てた。

深夜。
体育館の隙間風が冷たく吹き抜ける。
彩花は自分の体を抱きしめ、目を閉じた。
看護師である前に、ひとりの人間としての孤独と不安が押し寄せてくる。
「私だって、誰かに守られたいのに……」

そのとき、外から小さな鳴き声がした。
「ミャァ……」
振り返ると、避難所の入口近くに、痩せた三毛猫がうずくまっていた。
「ミケ?」
思わず立ち上がる。だが群衆の影に隠れ、すぐに姿が見えなくなる。
あれは幻だったのかもしれない。

胸の奥にかすかな温もりを残しながら、彩花は再び床に座り込んだ。
明日もきっと、同じように誰かの命と向き合うのだろう。
けれどその先に、自分の居場所が残っているのか――誰にもわからない。



👉 彩花編 第三幕 【3-D】へ
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...