#帰れない人たち ~ 6人のメモリー

ぶるうす恩田

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第二幕

【2-F】リサ・グリーン(外国人観光客)編 第二幕

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あの子の手のぬくもりを、まだ掌に感じている。けれど顔を上げると、広い体育館の中に彼女の姿は見当たらなかった。
耳に入る日本語のざわめきは、意味がわかるようでわからない。知らない国の夜に、たったひとり置き去りにされたような気がして、胸の奥が小さく震えた。

夜明け前、避難所の体育館は冷たく静まり返っていた。
床に敷かれた段ボールの上で、リサは何度も寝返りを打った。周囲には家族連れや高齢者が肩を寄せ合って眠っている。子どものすすり泣きや、誰かの咳き込みが時折響く。だがリサの耳に一番残るのは、心臓の早鐘のような鼓動だった。

日本に来てまだ二日目。楽しい旅になるはずだった。けれど昨日の大地震でホテルは閉鎖され、スマホはローミングが不安定でほとんど繋がらない。英語で話しかけても、避難所の人々の反応は戸惑いがちだった。優しい視線は向けてくれる。けれど、言葉が通じない壁が、リサを透明な箱に閉じ込めているように感じさせた。

避難所の外に転がしてあるスーツケースは、唯一の拠り所だ。中には着替えや化粧品、ノートPC、そして自国から持ってきた小さなアルバム。両親と弟と写った写真が何枚も挟まっている。ここにあるものが自分の証明であり、帰る場所の手がかりでもある。だから絶対に手放せない。

朝になり、体育館の出入り口で炊き出しが始まった。
列に並ぶ人々の後ろに、リサも恐る恐る加わる。温かい味噌汁の香りが鼻をくすぐり、胃がぐうと鳴った。
「ワン、プリーズ……」
両手を合わせると、年配のボランティアがにこりと笑って器を差し出してくれた。
「どうぞ。あったかいからね」
意味は完全にはわからない。でも、声の調子と表情で十分に伝わる。リサは深く頭を下げ、熱い汁を口に含んだ。
大根と豆腐の柔らかな食感。舌をやけどしそうになりながらも、涙がにじんだ。たった一杯の味噌汁が、孤独に凍っていた心を少しだけ溶かした。

昼になると、避難所には情報を求める人が集まり始めた。
掲示板には手書きの紙が貼られ、給水所・充電・医療といった文字が並ぶ。
けれど漢字ばかりで、リサには解読できない。必死にスマホで翻訳アプリを立ち上げても、通信が途切れて画面は固まったまま動かない。

「エクスキューズミー、ウォーター?」
勇気を出して声をかけた。だが若い男性は困ったように肩をすくめ、「わからない」と日本語で返して去っていった。
また心が萎む。

それでも午後、ようやく出会った中学生が片言の英語で助けてくれた。
「ウォーター、ここ。マップ、シー?」
小さなメモに地図を書いてくれる。
「オーケー? セーフ。ノープロブレム」
その笑顔に救われ、リサは胸の奥から「サンキュー」と絞り出した。

地図を頼りに歩き出したが、道はどこも瓦礫や落下物で塞がれていた。スーツケースを引きずるキャスターはガタガタと大きな音を立て、周囲の視線を集める。肩身の狭さを感じつつも、手放すことはできない。

途中で自転車に乗った男性が怒鳴った。
「危ないだろ! 邪魔なんだよ!」
意味は理解できないが、声の勢いで伝わる。
リサは「ソーリー!」と叫び、スーツケースを抱えるようにして道端に避けた。喉の奥がぎゅっと締めつけられ、目尻に熱い涙がにじむ。

けれど、そのときふと気づいた。
瓦礫の陰で、震えている小さな猫の姿があった。三毛猫が怯えた瞳でリサを見つめている。
「Oh…… Kitty……」
手を伸ばしかけたが、猫はすぐに飛び去ってしまった。
残されたのは、ほんの一瞬の生き物同士の目の合図。
リサは息を整え、また歩き始めた。

夕暮れ。給水所からの帰り道、遠くで人だかりができているのが見えた。
建物の前で誰かが叫んでいる。耳を澄ますと、断片的な日本語の中に「タスケテ」という言葉が混じっていた。

リサの胸に冷たいものが落ちる。
助けを呼ぶ声。
でも、自分は外国人で、日本語もできない。どうすればいいのか。

足が止まる。
スーツケースのハンドルを強く握りしめる。キャスターが小石に引っかかってガリッと音を立てた。
周囲の人々は足を止めるが、誰も動かない。恐怖が空気を支配している。余震がなんども起こっているのだ。装備もない素人が飛び込めるハズもない。

リサの頭の中で英語と日本語の単語がぐるぐる回る。
「Help?」「Tasukete?」「Fire?」「Danger?」
もし中に人がいるなら、行かなくちゃ。
でも、瓦礫の山に飛び込む勇気は……

スマホを取り出す。バッテリーは残り3%。電波は弱い。
SNSのハッシュタグを開くと、≪#助けて≫の文字が光っていた。
指先が震える。



分岐(リサ・グリーン・第二幕ラスト)

いったいどうしたらいい?

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