#帰れない人たち ~ 6人のメモリー

ぶるうす恩田

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第三幕

【3-B】村上 忠志(元消防士)編 第三幕

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濡れた手袋を乾かしながら、村上は周囲を見渡す。
瓦礫の下から救い出した少年が毛布に包まれて眠っている。
「……よかったな」
かすれた声が、自分に向けたものなのか誰に向けたものなのか分からない。
彼のスマホはもう沈黙している。
記録も発信も残らない。ただ、人の体温だけが確かだった。

手袋を外すと、指先が赤黒く腫れ、爪の間には砂埃が詰まっている。爪の奥がヒリヒリと痛む。外気はまだ冷たく、指先に触れる風がピュウと音を立ててすり抜けた。
体育館に設けられた避難所は、夜明け前の薄闇に沈んでいる。人々の寝息が交じり合い、時折、咳き込む音が響いた。古びた木の床板は歩くたびにギシ……ギシ……と鳴り、まるで誰かが目を覚ますのをためらっているかのようだ。

村上は火の匂いを嗅いだ。
遠くの町で、まだ小さな火が燻っている。焦げた木材のにおいは、現役の頃、幾度も嗅いだはずなのに、この夜は特に濃く胸に残った。

朝になり、救援物資が届いたという声が体育館に広がる。
「水があるぞ!」
「毛布、追加で配ってくれるって!」
人々がざわめき、列を作る。
その光景を眺めながら、村上はひとつ大きな息をついた。肺の奥からゴホッと痰が上がり、胸が重く響く。

彼の背中を、誰かが軽く叩いた。
「昨日の子……助けてくれて、ありがとうございました」
振り向けば、看護師が深々と頭を下げていた。目は赤く腫れ、声はかすれている。
「俺は……ただ、掘り出しただけです」
村上は言葉を濁した。だが彼女は首を振る。
「それでも、あなたがいなかったら……」
彼女の手が震えていた。その震えが、彼の胸に刺さった。

昼過ぎ。外に出ると、空はまだ曇り空だったが、雲の切れ間からわずかに光が落ちていた。
瓦礫の山の前で、村上は再び膝をついた。
「ここに、まだ……」
近所の人が指さした場所には、崩れたブロック塀と木材が折り重なっていた。

鉄パイプをてこにし、板を持ち上げる。ギギギ……と金属がきしむ。汗が額を伝い、土埃が鼻腔に入り込む。むせながらも、手を止めることはなかった。
――まだ、生きているかもしれない。
消防士を辞めて何年も経つが、その思いだけが身体を動かしていた。

しかし、見つかったのは、冷たくなった手だった。
村上は唇を噛み、ゆっくりとその手を布で覆った。
「……遅かった」
かすれ声が風にさらわれて消えていく。周囲の人々が小さくすすり泣く声が広がる。

夕方、避難所に戻ると、少年が目を覚ましていた。
「おじさん……」
弱々しい声が呼び止める。
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
少年は小さな声で言った。毛布からのぞく顔はまだ青白いが、瞳だけはまっすぐにこちらを見ていた。

村上は不意に胸が熱くなった。
喉の奥が詰まり、何も言葉が出ない。
代わりに、乾いた手で少年の頭を軽く撫でた。髪の毛はまだ土埃にまみれ、ざらついていた。
「……がんばったな」
その一言に、少年はかすかに笑った。

夜。
村上は体育館の隅に腰を下ろし、懐中電灯を足元に置いた。
「カチッ」
スイッチを入れると、小さな光が足元を照らす。
スマホを取り出してみたが、もう完全に沈黙している。黒い画面に映るのは、やつれた自分の顔だけだ。
――もう、記録は残せない
――もう、発信はできない

それでも、彼の胸には確かな温もりが残っていた。救い出した少年の体温、女性の震える手のぬくもり、避難所で交わした人々の感謝の言葉。

村上はふと、昔の仲間を思い出した。
火災現場で共に駆けた仲間たち。サイレンの轟音、ウーウーという音に駆け出していった日々。
――あの頃も、記録なんて残らなかった
けれど、確かに誰かの命をつないできた。

外でゴオォォ……と風が鳴いた。避難所の壁がミシ……と揺れる。
村上は毛布に体を沈め、深く息を吐いた。
胸の奥にはまだ痛みがある。もっと救えた命があったはずだという悔いが、何度も顔を出す。

けれど、隣で眠る少年の寝息が聞こえるたびに、その悔いが少しずつ和らいでいく。
――残らない記録でも、消えないものがある
――声や、ぬくもりや、誰かの記憶の中に

村上は目を閉じた。
「……おやすみ」
小さな声は、誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
だが、その夜、彼は久しぶりに深い眠りに落ちていった。



👉 後日譚(エンディング) 【4-A】へ
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