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第三幕
【3-C】佐伯 蓮(配達員)編 第三幕
しおりを挟む夕暮れ。ビルの影が長く伸びる街角に、その建物はあった。
一階部分が斜めに沈み、壁にひびが走っている。今にも崩れそうだ。周
囲には誰もいない。風が吹き抜ける音と、かすかな呻き声だけが漂っていた。
「……誰かいるのか?」
蓮は声をかけた。
「た、助けて……!」
返ってきたのは確かに人の声だった。
全身が凍りついた。
助けるべきだ。わかっている。
でも、一歩足を踏み出すと、地面がミシッと鳴った。背筋に悪寒が走る。
脳裏に昨日の余震がよみがえる。建物の前で立ちすくむ人々、崩れ落ちる瓦礫。
そして、自分がその下敷きになる姿。
スマホを見やる。残量は2%。ライトをつければ、すぐ電池は尽きるだろう。
――俺ひとりが飛び込んで、意味あるのか?
――もしここで死んだら、誰も得しないじゃないか
でも、声はまだ続いている。弱々しく、途切れがちに。
蓮の喉が、ごくりと鳴った。
――助けに行く
靴底が瓦礫を踏み、ガリッと音を立てた。
手のひらは汗でじっとりと湿り、心臓の鼓動が耳の奥でドクン、ドクンと響く。
壊れかけの自動ドアを無理やり押し開けると、中は薄暗く、埃と土の匂いが鼻を突いた。
「おーい! どこだ!」
声を張ると、かすかに返ってくる。
「こっち……こっちです……!」
足元に散乱するガラス片を踏みながら進む。ライトは点けられない。スマホが死ねば、帰り道も分からなくなる。
代わりに、わずかに差し込む夕光と、耳で声を頼りに進んだ。
二階へ続く階段は半分崩れていた。鉄骨が剥き出しになり、ギィ……ギシ……と不気味に軋む。
その音を聞くだけで、背筋が冷たくなる。
「大丈夫だ! 今行く!」
自分に言い聞かせるように叫ぶと、足をかけた。鉄骨がガタンと揺れ、思わず息を呑む。
体を低くし、四つん這いで登る。膝に当たる粉塵まみれの床はざらつき、擦れて痛む。
途中でポケットに手を入れ、配達用の軍手をはめた。
それだけで、わずかに安心した。現役の消防士でもレスキュー隊員でもない。ただの配達員だ。けれど、この手で荷物を何度も運んできた。重い荷物も、雨の日も、風の日も。
「運べる。掴める。まだ大丈夫だ」
そう言い聞かせ、前へ進んだ。
二階の奥、倒れた棚の隙間に、人影があった。
若い女性だった。片足が瓦礫に挟まれ、顔は汗と涙で濡れている。
「お兄さん……助けて……!」
その声は震えていた。
蓮は近づき、瓦礫に手をかけた。
「大丈夫。絶対出すから」
瓦礫は重く、指に食い込む。ギリギリと音を立て、びくともしない。
歯を食いしばり、全身の力を込めると、ゴトッと少しだけ動いた。
舞い上がる埃が喉に絡み、咳が止まらない。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
肺が焼けるようだ。それでも両腕に力を込め、最後のひと押しで瓦礫をずらす。
女性の足が解放された。
「動けるか?」
「……痛いけど、なんとか……」
肩を貸して立ち上がらせると、その体は思った以上に軽かった。しかし、その軽さが逆に不安を誘った。血の気が失われた体の重みは、心に沈んでくる。
帰り道はさらに危険だった。
ギシィ……バキッ!
鉄骨が崩れ、すぐ後ろに瓦礫が落ちた。
「キャッ!」
女性が悲鳴を上げ、蓮の腕にすがる。
「走れるか!?」
「……うん!」
互いの体を支え合いながら、崩れかけの階段を下りる。
一歩ごとにガタン、ギシッと音が響き、そのたびに心臓が跳ねる。
ついに最後の段を飛び降りた瞬間、背後で大きな崩落音が響いた。
ドオォォン!
埃の嵐が押し寄せ、二人は思わず目を閉じて身を伏せた。
外に出た時、夕日はすでに沈みかけていた。
夜の風が冷たく頬を打ち、ようやく肺の奥に新しい空気が入ってくる。
女性は肩で息をしながら、涙をぽろぽろと零した。
「ほんとに……ありがとう……!」
その声を聞いた瞬間、蓮の胸に溜まっていた重さが少しだけ溶けた。
彼女を救った事実は、誰にも記録されない。スマホの電池はついに尽き、画面が真っ暗に沈んだ。
しかし、自分の中には確かな感触が残っていた。
――抱えた体の温もり
――支えた肩の震え
――助かったと泣き笑う声
避難所に着いた頃には、星がにじむ夜空になっていた。
人々が彼女を迎え、毛布をかけ、水を差し出す。
その輪の外で、蓮はひとり腰を下ろした。
膝の擦り傷がズキズキと痛み、喉はまだ埃で焼けるように乾いている。
それでも、彼は思った。
――俺は荷物を運ぶように、この人を運んだんだ
――荷物は時間が経てば忘れられる。でも、この一件は……きっと残る
自分のスマホには残らない。
SNSにも、記録にも、何も刻まれない。
だが、助けた人の記憶に残るなら、それでいい。
蓮は夜空を見上げた。
星の光はかすかだったが、確かにそこにあった。
彼の胸の奥でも、同じように小さな光が瞬いていた。
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