#帰れない人たち ~ 6人のメモリー

ぶるうす恩田

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第三幕

【3-D】新井 彩花(看護師)編 第三幕

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体育館の隅に、簡易ベッドを並べる。
毛布を掛け直すと、咳き込む子どもが小さな手を伸ばしてきた。
その手を握り、そっと笑みを向ける。
「大丈夫。お母さんもすぐ戻るから」

言葉をかけるたびに、自分自身が少し救われる気がした。
ポケットの中のスマホはもう電源が切れている。
彼女の日々は記録には残らない。だが、ここにいた人々の記憶には残っていく。

避難所の空気は重かった。
湿った毛布の匂い、消毒液のツンとした刺激臭、汗や埃が入り混じり、鼻の奥にへばりつく。
耳に飛び込んでくるのは、泣き声、うめき声、遠くで交わされる低い会話。
体育館の蛍光灯は半分しか点いておらず、淡い光が床にジーと唸りをあげていた。

「先生、こっちお願いできますか!」
ボランティアの青年が駆け寄ってきた。
「高齢の方が、息苦しいって」

彩花はうなずき、聴診器を首にかけ直した。
歩くたびにスニーカーが床の埃をキュッと鳴らす。
毛布に包まれた老人のそばに膝をつき、胸に聴診器を当てると、「ゼェ……ゼェ……」と湿った呼吸が胸に響いてきた。

「苦しいですよね。少し体を起こしましょう」
背中に手を添えると、老人の骨ばった体は驚くほど軽かった。
看護師としての日常で出会う患者よりも、もっと生々しい脆さを感じる。
酸素ボンベは限られている。彩花は残量を確認し、小さく息を吐いた。
――これ以上、持たせられるだろうか……

夜が更けるほど、避難所はざわめきと静寂を繰り返した。
泣き疲れた子どもが眠りに落ちると同時に、どこかで誰かの咳がゴホッ、ゴホッと響く。
余震がくるたびに、天井の照明がガタガタと揺れ、体育館の床に寝かされた人々が身を縮める。

彩花の体も限界に近づいていた。
まぶたは重く、足は棒のよう。だが座り込めば、次の声が必ず飛んでくる。
「すみません、子どもが熱を……!」
「お腹の薬、まだありますか?」

そのたびに、彼女は立ち上がり、駆け寄った。
ペットボトルの水を冷やしたタオルに染み込ませ、額に当てる。
薬の残量を数え、仕分け、配る。
その繰り返し。
手は荒れ、のどは乾き、背筋は痛んでも、止まることはできなかった。

午前三時。
体育館の隅にしゃがみこみ、彩花はようやく水を一口含んだ。
ぬるくなった水は決しておいしくはなかったが、喉を通ると体の芯が少し潤った気がした。

ポケットからスマホを取り出す。
真っ暗な画面に、映るのは疲れ切った自分の顔だけ。
指でスライドしてみても、うんともすんとも言わない。

――友達に≪生きてるよ≫って送りたかったな……
――親にも声を届けたかった……

そう思うと胸が締めつけられる。
けれど次の瞬間、毛布の下から小さな声がした。

「せんせい……」

先ほど咳き込んでいた子どもが、半分眠った目で手を伸ばしている。
彩花は慌ててその手を取った。
「どうしたの?」
「……ありがとう」

囁くような声に、胸の奥が熱くなった。
涙が出そうになるのをこらえながら、毛布を直してやる。
子どもの手の温もりが、冷え切った自分の心を確かに温めていた。

明け方、薄い光が体育館の窓から差し込む。
長い夜が終わり、眠れぬまま朝を迎える人々の顔に、ほんの少しだけ安堵の色が浮かぶ。

彩花はふらつく足で立ち上がり、毛布の列をゆっくりと歩いた。
呼吸は落ち着いているか。顔色は悪くないか。
一人ひとりの寝顔を確かめながら、まるで自分自身に「大丈夫」と言い聞かせるようだった。

その途中で、若い母親が頭を下げてきた。
「本当に……ありがとうございました。夜通しずっと……」
彩花は首を振った。
「私なんて大したことしてないですよ。ただの看護師です」

けれど、母親は真っ直ぐに言った。
「でも、あなたがいたから、安心できました」

その言葉が、彩花の胸に深く刺さった。
記録には残らない。SNSも更新できない。
けれど、ここにいる人たちの心には、確かに刻まれる。

朝のざわめきの中、彩花は一人、体育館の外に出た。
空気は冷たく、夜露の匂いが漂っている。
崩れた街並みの向こうに、朝日が昇ろうとしていた。
オレンジ色の光が瓦礫を照らし、ひび割れたアスファルトを淡く染めていく。

深く息を吸い込むと、肺の奥に冷気と埃が混じった空気が広がった。
それでも、胸の内には確かなものがあった。

――私は、ここで人を支えた。
――その記憶は、誰かの中に残り続ける。

彩花は朝日に目を細め、小さく笑った。
次の瞬間、体育館の中から「先生ー!」と呼ぶ声が飛んできた。

「はーい! 今行きます!」

声を張り上げ、再び歩き出す。
その背中は疲れてはいたが、どこか晴れやかだった。



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