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第四章 12歳
24 皇女の疑惑
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◆ネルズィエン=ジトヒュル=デシバリ視点
「ネルズィエン殿下。ミルデニアの王都ラングレイに潜入した黒装猟兵がやられたようですな」
ネオデシバル帝国皇都デジヴァロワ。
その奥にある古代宮殿ラ=ミゴレの一角に、皇女ネルズィエンの私室はあった。
三年前の忌まわしい戦役の後、敗戦の責を問われたネルズィエンはすべての役職を解かれた。
そして、迷宮のように入り組んだ古代宮殿の奥底にある、人の立ち寄ることのまれな場所に私室を与えられた。
出入りはとくに禁じられてないものの、事実上蟄居のようなものだった。
美しい赤毛と気の強そうな容貌は健在ではあったものの、さすがにやつれの色は隠せない。
「ジノフか。まずは座ってくれ」
ネルズィエンは来客である老将に席を勧めた。
戦役の折に、ネルズィエンをかばって踏みとどまったジノフだが、あの後奇跡的に追撃を逃れ、帝国に生きて戻ることができていた。
もっとも、ことの経緯は、国境線を越えたところで、完全に記憶からなくなっている。
自分たちがどのようにして敗北したのか、ジノフにはさっぱり思い出せなかった。
欠かさず付けていた日記も、なぜか自分の手で真っ黒に塗りつぶされていた。それも、ミルデニア王国ブランタージュ伯領に入ってからの部分だけが、だ。
この日記を初めて見返した時、ジノフは背筋に泡が立った。
ネルズィエン皇女が「もう二度とあの土地に手を出すべきではない」と言い張るのも、もっとものように思われた。
ネルズィエンは、ジノフが腰掛けるのを待ってから、自分も反対側に座って口を開く。
「黒装猟兵までもが、か。王都については、ブランタージュ伯領ほどの恐怖は感じないのだがな」
「当時、ブランタージュ伯が王都ラングレイに逗留していたという情報もあります。王女の社交界デビューのお披露目となる園遊会に出席するべく上洛中だったと」
「ブランタージュ……! またその名が出てくるのか! やつはいったい私に何をした? その名を聞くだけで震えが止まらぬ……」
「ミルデニアにはうかつに手を出すべきではありませんな。
われらが生きて帰されたのは、生き証人として、ミルデニアへの恐怖を伝えさせるためだったのでしょう。
ですがもし、再びミルデニアに攻め入るようなことがあれば、ブランタージュ伯も、今度こそ容赦はしますまい。
われらの首を桶に詰め込んで、帝国に送り返すやもしれませぬ」
「おのれ……悪魔のような男だ、ブランタージュ伯め……!」
もしここにエリアックがいれば、苦笑していたことだろう。
戦役でネルズィエン皇女率いる帝国軍を撃退したのは、ブランタージュ伯エリオスではなく、その息子であるエリアックなのだから。
「皇帝陛下は、なぜこうもミルデニアにご執心なのでしょうな? いずれにせよ帝国に攻め込んでくる気はないようなのですから、戦力を他の戦線に集中すべきと思われるのですが」
「私にも、父陛下のお心はわからぬ。なにか、大陸を制するための鍵となる存在があるとかないとか」
「そんなものがなくとも、他国をすべて平らげ、国力を増してからミルデニアを攻めればよいではありませんか。いや、そのような状態になれば、向こうのほうから降伏してまいりましょう」
「いや。得体の知れぬブランタージュ伯と、黄昏人の要塞たる学園都市ウルヴルスラ。この二つがある限り、ミルデニアは簡単には根を上げまい」
「ウルヴルスラはたしかに厄介ですな。まさか、千年が経過してもまだ遺跡が生きておったとは」
「父陛下は、黄昏人の遺産を、この宮殿を残して破壊し尽くした。
だが、ウルヴルスラだけは状況が許さず、完全に破壊することはできなかった。
われらはウルヴルスラを放置したまま、コールドスリープに入ることになってしまった。そのツケが回ってきたということか」
「そうは申しましても、現在のウルヴルスラはミルデニア王国が士官学校として利用しておるにすぎません。あの遺産の真価をミルデニアが知らぬのは幸運ではありましたな」
「黄昏人の知識を受け継ぐ者はすべて、父陛下が坑になされた。記録媒体もすべて破棄されたはずだ。あのいまいましい選民主義者どもの遺産は絶え果てた……はずだったのだがな」
「ウルヴルスラのことを思えば、皇帝陛下がミルデニアにこだわるのもわかりはしますな」
老将がうなずいた。
先ほどから「老将」と呼んではいるが、彼もまた現在は役職を解かれている。もっとも、完全に無役の皇女とは違い、後進の指導のための教導将校の任を与えられてはいた。
「若い騎士たちを見ておると、改めて思います。彼ら若い命を、あたら吸魔煌殻などに吸わせ、戦さ場に散らせることが、果たして正しいことなのかと」
「正しいはずがなかろう。彼らは帝国の未来を担う存在だ。それを使いつぶすような真似をしていては、よしんば帝国が大陸を制したとしても、その先に明るい未来はない」
ネルズィエンは、断乎たる口調でそう言った。
だが、彼女は気づいていない。
それが、自分自身の言葉ではない、ということに。
三年前のブランタージュ戦役で、エリアックは捕らえたネルズィエンにこう言った。
『人の命を使い捨てにするような発想が気に入らない。
そんな発想をする人間には、大陸を征服することなんか絶対に無理だと俺は思うね。
自分の命を粗末にされた者が、皇帝のために命を張ろうと思うはずがねえ』
その言葉は、ネルズィエンの脳裏に染み込んだ。
そして、無意識の咀嚼過程を経て、彼女自身の言葉として、あるいは彼女自身の信念として、表へと出てくるようになっていた。
「すばらしいご信念でございます」
老将は、感じ入ったようにうなずいた。
その目尻には涙すら浮かんでいる。
「よせ。私自身、以前は疑ってもみなかった。
だが、こうして一線から離れ、おのれと対話して暮らすうちに、己の罪や醜さと向き合わざるを得なくなったのだ。
吸魔煌殻などなくとも、帝国は十分にやっていける。
大陸を制する? それにどれほどの意味があるというのだ?
周囲との拮抗状態が続くなら続くでかまわんではないか。
なんなら、周辺国と和睦し、協商関係を結んで、共存共栄の道を模索してもよい。
すでに黄昏人もいなければ、その威を借りてわれらを虐げた『指導者』たちもいないのだ。黄昏人の遺産のいくらかはわれらの手中にあり、大陸の他の場所からは滅び去った。
われらを脅かせるものは、この大陸にはもういない」
あの悪魔のような伯爵を除けば……だがな。
と、ネルズィエンは心中で付け加えた。
「わしも、もう歳なのでしょうなぁ。旧ザスターシャの民まで含め、教えておる若人が哀れに思えてならんのです。彼らの生命の輝きを、吸魔煌殻などで吸い上げ、消耗品のように使い潰すことになんの大義があろうかと。陛下には憚りながらそう思うのでございます」
「奇妙なのは他の帝国貴族たちよな。おのれらの子どもが吸魔煌殻の餌食にされていると聞かされても、『皇帝陛下の御心に間違いなどあろうはずがない』の一点張りだ。
かろうじて支持を取り付けられているのは、遠方に住む旧ザスターシャの貴族ばかり。中央では、奇妙なほどに話が通らぬ」
「うむ。反対があろうとは思っておりましたが、人の親ならば動揺してしかるべき話のはずなのですがな。事実、砂漠の南を収める旧ザスターシャ貴族の知事などは激怒しておりました。怒りを収めていただくのにどれほど苦労したことか……」
「それが普通の反応であろう。帝国の中央はそれほどまでに人間味のない魔窟と化しているのだろうか?」
「さて、どうでしょうな。
わしも最初は、その知事が激怒したのは、中央の人気に染まらぬ朴訥さゆえかと思ったのでございます。
ですが、詳しく話を聞いてみると、その知事はザスターシャ時代には大臣を務めたこともある、名門出のエリートでしてな。むしろ中央寄りの性格の持ち主なのです。旧ザスターシャの宮廷文化に馴染んだ貴族でして、たたずまいには洗練されたものを感じましたな」
「ふむ……高位貴族特有の傲慢さゆえに人の命を軽んじているのかと思ったが、そうでもないのか」
「ええ。おかしな話と思われるかもしれませんが、わしはこうも思うのです。
帝都デジヴァロワからは、人を非人間的に変える強力な磁力のようなものが発せられておるのではないか……と。
それに当てられた者どもは、兵の命を使い捨てにするような愚策に対しても、疑問を抱かなくなるのではないか……」
老将は冗談めかして言おうとしたようだが、その口調からはむしろ、老将が自分自身の言葉を半ば信じかけていることが露呈していた。
ネルズィエンは、形のいい顎に指を当て、しばし瞑目して考える。
「……あながち、的外れともいえぬかもしれん。
なにせ、帝都にはあの男がいる」
「キロフ=サンヌル=ミングレア……。皇帝陛下の御許にいつのまにやら忍び寄り、あっという間に丞相にまで登り詰めた、あの薄気味悪い男ですな」
「あの男の言うことには、なぜか誰も意を唱えぬ。父陛下ご自身も、あの男の進言を却下することはないようだ。得体の知れぬ磁力のような何かを持った男よ」
「サンヌルであれば、魔法は使えぬはずなのですがな。あの無明の闇のごとき瞳で睨まれると、わしですら生きた心地がいたしませぬ」
老将の言葉に、ネルズィエンは何か反論を加えたいような気持ちになった。
ジノフのセリフには、何かネルズィエンにとって致命的に嘘だと思える要素があった。
だが、それがなんなのかがわからない。
それを追求しようとすればするほど、脳内に闇色のもやが立ち込めて、思考があてどなく拡散してしまう。
もちろん、エリアックのかけた暗示のせいだ。
サンヌルを名乗ったエリアックの、帝国でも見たことがないような高度で面妖な魔法は、ネルズィエンに強烈な印象を残している。
だが、その記憶は、国境の峠を踏み越えた瞬間に封じられた。
にもかかわらず、エリアックの魔法があまりにも驚異的だったために、その記憶がエリアックの暗示を部分的に乗り越えようとしているのだ。
ネルズィエンの脳内で複雑な神経反応が起こり、彼女の口から予期せぬ言葉が飛び出した。
「……サンヌルだからといって、魔法が使えないとは限らぬのではないか?」
「む……? いまなんと?」
「サンヌルが魔法を使えぬのは、相克があまりにも激しいからだと聞く。しかし、その相克を乗り越えることができたならば、前人未到の境地に至れるのではないか?」
「ううむ……聞いたことがございませぬが。
では皇女殿下は、キロフめはサンヌルの未知の複合魔法の使い手であり、その力を弄して帝国を牛耳ろうとしておる、と?」
「確証はないが、な」
ジノフは、顎に手を当て、しばらく考えあぐねる様子を見せた。
まだ半信半疑の顔つきで、ジノフが言う。
「……たしかに、もしそうであれば帰国して以来のもろもろの違和感にも説明がつきますが……」
老将は、なまじ人生経験が豊富であるだけに、「魔法を使えるサンヌル」などという存在を、にわかには信じられないようだ。
しかし、一度疑惑を口に出してみると、ネルズィエンには自分の「思いつき」が正鵠を射ているように思えてきた。
封印された記憶そのものは蘇っていない。
だが、無意識に沈んだままの記憶が、今口に出した常識はずれの推測に、理由のわからない納得感を与えている。
「……やはり、このままにはしておけぬ。
私からお父様に訴えてみよう」
「なっ……危険ですぞ! いまのネルズィエン様は、ただでさえ蟄居同然の身! 皇帝陛下がそのお言葉を素直に受け取ってもらえるかどうか……。万一キロフめに漏れることがあれば、帝国の丞相に対して讒言をしたと責められましょう!」
「わかっている。いまの私は敗戦の将だ。何を言っても聞いてはもらえぬだろう。ミルデニア攻めに反対し、吸魔煌殻の使用に反対する。次は位人臣を極めた丞相を妬み、浅ましくも侮辱するか。そのように言われるであろうな」
「それがわかっておられるのなら、ご自重くださいませ! いずれ好機も訪れましょう!」
「好機だと? このままでいれば、事態はますます悪くなろう。ただ待っていれば好機が訪れるなどと、おまえは本気で思うのか、ジノフ?」
「そ、それは……」
口ごもる老将に、ネルズィエンが席を立った。
「なに、私は仮にも皇女だ。いかなキロフとはいえ、私をあっさり殺してのけることはできぬだろう。権勢を極めた丞相とはいえ、父上の臣下であることに変わりはないのだからな」
ネルズィエンは自分に言い聞かせるようにそうつぶやく。
だが、内心ではわかっていた。
(私が皇女だからといって、奴が私のことを本当に邪魔だと判断すれば、奴は主家殺しとてやってのけよう)
父である皇帝を説得できる可能性は低い。
しかし、この先その可能性が高くなることはありえない。
キロフという不気味な男のことを思うと、そうとしか考えられなかった。
手遅れになる前に。
その一念で、ネルズィエンは震える足を踏み出した。
「ネルズィエン殿下。ミルデニアの王都ラングレイに潜入した黒装猟兵がやられたようですな」
ネオデシバル帝国皇都デジヴァロワ。
その奥にある古代宮殿ラ=ミゴレの一角に、皇女ネルズィエンの私室はあった。
三年前の忌まわしい戦役の後、敗戦の責を問われたネルズィエンはすべての役職を解かれた。
そして、迷宮のように入り組んだ古代宮殿の奥底にある、人の立ち寄ることのまれな場所に私室を与えられた。
出入りはとくに禁じられてないものの、事実上蟄居のようなものだった。
美しい赤毛と気の強そうな容貌は健在ではあったものの、さすがにやつれの色は隠せない。
「ジノフか。まずは座ってくれ」
ネルズィエンは来客である老将に席を勧めた。
戦役の折に、ネルズィエンをかばって踏みとどまったジノフだが、あの後奇跡的に追撃を逃れ、帝国に生きて戻ることができていた。
もっとも、ことの経緯は、国境線を越えたところで、完全に記憶からなくなっている。
自分たちがどのようにして敗北したのか、ジノフにはさっぱり思い出せなかった。
欠かさず付けていた日記も、なぜか自分の手で真っ黒に塗りつぶされていた。それも、ミルデニア王国ブランタージュ伯領に入ってからの部分だけが、だ。
この日記を初めて見返した時、ジノフは背筋に泡が立った。
ネルズィエン皇女が「もう二度とあの土地に手を出すべきではない」と言い張るのも、もっとものように思われた。
ネルズィエンは、ジノフが腰掛けるのを待ってから、自分も反対側に座って口を開く。
「黒装猟兵までもが、か。王都については、ブランタージュ伯領ほどの恐怖は感じないのだがな」
「当時、ブランタージュ伯が王都ラングレイに逗留していたという情報もあります。王女の社交界デビューのお披露目となる園遊会に出席するべく上洛中だったと」
「ブランタージュ……! またその名が出てくるのか! やつはいったい私に何をした? その名を聞くだけで震えが止まらぬ……」
「ミルデニアにはうかつに手を出すべきではありませんな。
われらが生きて帰されたのは、生き証人として、ミルデニアへの恐怖を伝えさせるためだったのでしょう。
ですがもし、再びミルデニアに攻め入るようなことがあれば、ブランタージュ伯も、今度こそ容赦はしますまい。
われらの首を桶に詰め込んで、帝国に送り返すやもしれませぬ」
「おのれ……悪魔のような男だ、ブランタージュ伯め……!」
もしここにエリアックがいれば、苦笑していたことだろう。
戦役でネルズィエン皇女率いる帝国軍を撃退したのは、ブランタージュ伯エリオスではなく、その息子であるエリアックなのだから。
「皇帝陛下は、なぜこうもミルデニアにご執心なのでしょうな? いずれにせよ帝国に攻め込んでくる気はないようなのですから、戦力を他の戦線に集中すべきと思われるのですが」
「私にも、父陛下のお心はわからぬ。なにか、大陸を制するための鍵となる存在があるとかないとか」
「そんなものがなくとも、他国をすべて平らげ、国力を増してからミルデニアを攻めればよいではありませんか。いや、そのような状態になれば、向こうのほうから降伏してまいりましょう」
「いや。得体の知れぬブランタージュ伯と、黄昏人の要塞たる学園都市ウルヴルスラ。この二つがある限り、ミルデニアは簡単には根を上げまい」
「ウルヴルスラはたしかに厄介ですな。まさか、千年が経過してもまだ遺跡が生きておったとは」
「父陛下は、黄昏人の遺産を、この宮殿を残して破壊し尽くした。
だが、ウルヴルスラだけは状況が許さず、完全に破壊することはできなかった。
われらはウルヴルスラを放置したまま、コールドスリープに入ることになってしまった。そのツケが回ってきたということか」
「そうは申しましても、現在のウルヴルスラはミルデニア王国が士官学校として利用しておるにすぎません。あの遺産の真価をミルデニアが知らぬのは幸運ではありましたな」
「黄昏人の知識を受け継ぐ者はすべて、父陛下が坑になされた。記録媒体もすべて破棄されたはずだ。あのいまいましい選民主義者どもの遺産は絶え果てた……はずだったのだがな」
「ウルヴルスラのことを思えば、皇帝陛下がミルデニアにこだわるのもわかりはしますな」
老将がうなずいた。
先ほどから「老将」と呼んではいるが、彼もまた現在は役職を解かれている。もっとも、完全に無役の皇女とは違い、後進の指導のための教導将校の任を与えられてはいた。
「若い騎士たちを見ておると、改めて思います。彼ら若い命を、あたら吸魔煌殻などに吸わせ、戦さ場に散らせることが、果たして正しいことなのかと」
「正しいはずがなかろう。彼らは帝国の未来を担う存在だ。それを使いつぶすような真似をしていては、よしんば帝国が大陸を制したとしても、その先に明るい未来はない」
ネルズィエンは、断乎たる口調でそう言った。
だが、彼女は気づいていない。
それが、自分自身の言葉ではない、ということに。
三年前のブランタージュ戦役で、エリアックは捕らえたネルズィエンにこう言った。
『人の命を使い捨てにするような発想が気に入らない。
そんな発想をする人間には、大陸を征服することなんか絶対に無理だと俺は思うね。
自分の命を粗末にされた者が、皇帝のために命を張ろうと思うはずがねえ』
その言葉は、ネルズィエンの脳裏に染み込んだ。
そして、無意識の咀嚼過程を経て、彼女自身の言葉として、あるいは彼女自身の信念として、表へと出てくるようになっていた。
「すばらしいご信念でございます」
老将は、感じ入ったようにうなずいた。
その目尻には涙すら浮かんでいる。
「よせ。私自身、以前は疑ってもみなかった。
だが、こうして一線から離れ、おのれと対話して暮らすうちに、己の罪や醜さと向き合わざるを得なくなったのだ。
吸魔煌殻などなくとも、帝国は十分にやっていける。
大陸を制する? それにどれほどの意味があるというのだ?
周囲との拮抗状態が続くなら続くでかまわんではないか。
なんなら、周辺国と和睦し、協商関係を結んで、共存共栄の道を模索してもよい。
すでに黄昏人もいなければ、その威を借りてわれらを虐げた『指導者』たちもいないのだ。黄昏人の遺産のいくらかはわれらの手中にあり、大陸の他の場所からは滅び去った。
われらを脅かせるものは、この大陸にはもういない」
あの悪魔のような伯爵を除けば……だがな。
と、ネルズィエンは心中で付け加えた。
「わしも、もう歳なのでしょうなぁ。旧ザスターシャの民まで含め、教えておる若人が哀れに思えてならんのです。彼らの生命の輝きを、吸魔煌殻などで吸い上げ、消耗品のように使い潰すことになんの大義があろうかと。陛下には憚りながらそう思うのでございます」
「奇妙なのは他の帝国貴族たちよな。おのれらの子どもが吸魔煌殻の餌食にされていると聞かされても、『皇帝陛下の御心に間違いなどあろうはずがない』の一点張りだ。
かろうじて支持を取り付けられているのは、遠方に住む旧ザスターシャの貴族ばかり。中央では、奇妙なほどに話が通らぬ」
「うむ。反対があろうとは思っておりましたが、人の親ならば動揺してしかるべき話のはずなのですがな。事実、砂漠の南を収める旧ザスターシャ貴族の知事などは激怒しておりました。怒りを収めていただくのにどれほど苦労したことか……」
「それが普通の反応であろう。帝国の中央はそれほどまでに人間味のない魔窟と化しているのだろうか?」
「さて、どうでしょうな。
わしも最初は、その知事が激怒したのは、中央の人気に染まらぬ朴訥さゆえかと思ったのでございます。
ですが、詳しく話を聞いてみると、その知事はザスターシャ時代には大臣を務めたこともある、名門出のエリートでしてな。むしろ中央寄りの性格の持ち主なのです。旧ザスターシャの宮廷文化に馴染んだ貴族でして、たたずまいには洗練されたものを感じましたな」
「ふむ……高位貴族特有の傲慢さゆえに人の命を軽んじているのかと思ったが、そうでもないのか」
「ええ。おかしな話と思われるかもしれませんが、わしはこうも思うのです。
帝都デジヴァロワからは、人を非人間的に変える強力な磁力のようなものが発せられておるのではないか……と。
それに当てられた者どもは、兵の命を使い捨てにするような愚策に対しても、疑問を抱かなくなるのではないか……」
老将は冗談めかして言おうとしたようだが、その口調からはむしろ、老将が自分自身の言葉を半ば信じかけていることが露呈していた。
ネルズィエンは、形のいい顎に指を当て、しばし瞑目して考える。
「……あながち、的外れともいえぬかもしれん。
なにせ、帝都にはあの男がいる」
「キロフ=サンヌル=ミングレア……。皇帝陛下の御許にいつのまにやら忍び寄り、あっという間に丞相にまで登り詰めた、あの薄気味悪い男ですな」
「あの男の言うことには、なぜか誰も意を唱えぬ。父陛下ご自身も、あの男の進言を却下することはないようだ。得体の知れぬ磁力のような何かを持った男よ」
「サンヌルであれば、魔法は使えぬはずなのですがな。あの無明の闇のごとき瞳で睨まれると、わしですら生きた心地がいたしませぬ」
老将の言葉に、ネルズィエンは何か反論を加えたいような気持ちになった。
ジノフのセリフには、何かネルズィエンにとって致命的に嘘だと思える要素があった。
だが、それがなんなのかがわからない。
それを追求しようとすればするほど、脳内に闇色のもやが立ち込めて、思考があてどなく拡散してしまう。
もちろん、エリアックのかけた暗示のせいだ。
サンヌルを名乗ったエリアックの、帝国でも見たことがないような高度で面妖な魔法は、ネルズィエンに強烈な印象を残している。
だが、その記憶は、国境の峠を踏み越えた瞬間に封じられた。
にもかかわらず、エリアックの魔法があまりにも驚異的だったために、その記憶がエリアックの暗示を部分的に乗り越えようとしているのだ。
ネルズィエンの脳内で複雑な神経反応が起こり、彼女の口から予期せぬ言葉が飛び出した。
「……サンヌルだからといって、魔法が使えないとは限らぬのではないか?」
「む……? いまなんと?」
「サンヌルが魔法を使えぬのは、相克があまりにも激しいからだと聞く。しかし、その相克を乗り越えることができたならば、前人未到の境地に至れるのではないか?」
「ううむ……聞いたことがございませぬが。
では皇女殿下は、キロフめはサンヌルの未知の複合魔法の使い手であり、その力を弄して帝国を牛耳ろうとしておる、と?」
「確証はないが、な」
ジノフは、顎に手を当て、しばらく考えあぐねる様子を見せた。
まだ半信半疑の顔つきで、ジノフが言う。
「……たしかに、もしそうであれば帰国して以来のもろもろの違和感にも説明がつきますが……」
老将は、なまじ人生経験が豊富であるだけに、「魔法を使えるサンヌル」などという存在を、にわかには信じられないようだ。
しかし、一度疑惑を口に出してみると、ネルズィエンには自分の「思いつき」が正鵠を射ているように思えてきた。
封印された記憶そのものは蘇っていない。
だが、無意識に沈んだままの記憶が、今口に出した常識はずれの推測に、理由のわからない納得感を与えている。
「……やはり、このままにはしておけぬ。
私からお父様に訴えてみよう」
「なっ……危険ですぞ! いまのネルズィエン様は、ただでさえ蟄居同然の身! 皇帝陛下がそのお言葉を素直に受け取ってもらえるかどうか……。万一キロフめに漏れることがあれば、帝国の丞相に対して讒言をしたと責められましょう!」
「わかっている。いまの私は敗戦の将だ。何を言っても聞いてはもらえぬだろう。ミルデニア攻めに反対し、吸魔煌殻の使用に反対する。次は位人臣を極めた丞相を妬み、浅ましくも侮辱するか。そのように言われるであろうな」
「それがわかっておられるのなら、ご自重くださいませ! いずれ好機も訪れましょう!」
「好機だと? このままでいれば、事態はますます悪くなろう。ただ待っていれば好機が訪れるなどと、おまえは本気で思うのか、ジノフ?」
「そ、それは……」
口ごもる老将に、ネルズィエンが席を立った。
「なに、私は仮にも皇女だ。いかなキロフとはいえ、私をあっさり殺してのけることはできぬだろう。権勢を極めた丞相とはいえ、父上の臣下であることに変わりはないのだからな」
ネルズィエンは自分に言い聞かせるようにそうつぶやく。
だが、内心ではわかっていた。
(私が皇女だからといって、奴が私のことを本当に邪魔だと判断すれば、奴は主家殺しとてやってのけよう)
父である皇帝を説得できる可能性は低い。
しかし、この先その可能性が高くなることはありえない。
キロフという不気味な男のことを思うと、そうとしか考えられなかった。
手遅れになる前に。
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