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第一章 忌まわしき世界

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◆天崎真琴/――

 いつのまにかわたしは、ジャケットの懐に手を入れ、銃把を握っていた。
 その腕を、美奈恵がつかんだ。
「いいの? ここでわたしたちが助けるのは簡単だけど、その場合、わたしたちの関与が久瀬倉家に知れて、肝心の依頼が果たせなくなるかもしれないよ?」
「……っ」
 美奈恵の言うことはその通りだ。
 わたしたちへの依頼は久瀬倉家の秘祭に関するもので、その中には久瀬倉家に侵入した見ず知らずの少年を保護することは、むろん含まれていない。
 が――
「こんなこと、見過ごせるものか。第一、そんな風にものごとを割り切って考えられる人間だったら、忌能者になどなってはいない」
 忌門という怪異を前にしてなお、恐怖以外の何かに心を奪われていることが、忌門による願望実現の前提である。それは、人間としての――いや、生物としての本能に背くものだ。見慣れない現象に対しては、警戒心を抱く方が生物としては自然な反応だからだ。ましてやそれが世界認識の空隙――具現化した虚無そのものであればなおさらのことで、人間を含め、ほとんどの生物は忌門に対して本能的な恐怖と嫌悪を抱くものなのだ。
 とすれば、忌門によって忌能を獲得した忌能者は、生物としての根幹をなす本能が壊れていたか――あるいは、すくなくとも、本能すら圧倒するほど強烈な別の願望を心に抱いていた、ということになる。
 したがって、忌能者にとって、常識だとか合理性だとかいった要素は、相対的な意味しか持っていない。忌能として具象化されるに至った自らの願望と世の中の常識や合理性とが衝突したとき、刹那の迷いすら見せずに自らの願望を優先させるのが、忌能者と呼ばれる異常者たちの一般的なあり方である。
 わたしの顔に何を読み取ったのか、美奈恵は頬を緩ませた。
「……そう言うと思った」
「すまないな」
「いいってことよぉ~、あ・い・ぼ・う♪」
 もとより美奈恵も本気で言っていたわけではないのだろう。あっさり折れてくれた。
「……でもこれじゃあ、あたしが薄情者みたいじゃない?」
 美奈恵が唇を尖らせる。
 わたしはパステルカラーの口紅が塗られたその唇に吸い付きたい衝動にかられながら、
「いや、忌累衛視としては必要な分析だ。それに、本気じゃなかったんだろう?」
「……どうかな。ま、あの子はけっこうかわいいし、助けたら美味しくいただけちゃうかもしれないからね」
 そう言って顔を背け、吹けない口笛を吹くふりをする美奈恵。
 わたしは苦笑しつつ、
「おまえはまたそれか」
「それ以外に何があるっていうのよ~? 人生の真理――すなわち愛っ」
「愛も何も、美味しくいただいてしまうんだろう?」
「少なくともあたしの側には愛はあるよ?」
「相手の側には?」
「あたしにかわいがられて落ちない男なんていないよ?」
「……まったく、人の気も知らないで」
「え? 何か言った?」
「何でもない!」
 わたしたちが立っているのは別邸の母屋、平屋建ての日本家屋の瓦屋根の上だ。
 美奈恵の結界越しには古式ゆかしい日本庭園が見え、その片隅に問題の少年と銀髪執事がいる。
 少年は忌儡によって地面に押さえつけられ、銀髪執事はその額へ向けて忌能で生み出したとおぼしい血色の槍のようなものを突きつけている。
 盗み聞いた会話の内容からして、銀髪執事はなにものかの命令を受け、少年を殺してしまうつもりのようだ。
 銀髪執事にはその能力があり――なにより、それを躊躇わないだけの冷酷さがある。
 二人の周囲を、どこからともなく現れた犬型忌儡が取り巻いている。
 少年を拘束している二体を含め、全部で九体。が、ここからは見えない場所にも潜んでいると見るべきだろう。
「……美奈恵、潜んでいる忌儡の位置と数は?」
「んー、三体……ううん、四体だね。石庭の奥とこの建物の裏に二体ずつ。他は遠いよ」
 美奈恵は子宮を撫でながらそう答えてくる。
「その程度ならなんとかなるな。援護は頼む」
「了解ぃ~」
 親指を立てウインクしてくる美奈恵にジュラルミンケースを預け、わたしはショルダーホルスターから銃を抜く。
 シグ・ザウエルP226。
 最初は大きすぎると思ったダブルカラムマガジンの銃把はこの七年ですっかり手になじみ、一五発という装弾数に今では頼もしさすら感じる。
 銃身の下にレーザーポインターを装着する。射撃の腕前には自信があるが、標的のすぐそばに少年の頭があるので万全を期すことにしたのだ。赤外線のレーザーポインターは肉眼では視認できないため、専用の装備がなければ察知されるおそれはない。
 もちろんそのままではわたしにも見えないので、ジャケットの胸ポケットからシューティンググラスを取り出し、装着する。視界に銃から庭へと伸びる一条の光線が浮かび上がった。
 その光線の示す先では、今まさに銀髪執事が血色の槍を放とうとしているところだった。
 わたしは槍にポインターを合わせ、引き金を引く。
 銃声と同時に槍が弾けた。槍は水風船のように破裂し、執事の手と少年の顔に鮮血を飛び散らせる。
 その瞬間、わたしは既に屋根の上にはいなかった。
 飛び降りながら放った一撃で少年を押さえつける忌儡を狙い、着地際には執事へ向けて素早く一射。胸部に銃弾を食らった忌儡は規則正しく割れるある種の岩石のように砕け散る。砕け散った破片は刹那の間に砂と化し、その砂は風に混じってすぐに見えなくなった。
 一方、執事の方は、槍を狙った初弾の直後に大きく飛び退き、難を逃れていた。
 が、それで構わない。ここで久瀬倉家の関係者を殺してしまうのはやりすぎだ。少年から離れてくれれば十分だった。
「――っ! 〈地狗チグ〉ども、そいつを抑えろ!」
 執事が叫ぶのと同時に、わたしに向かって忌儡が殺到する。
 執事が〈地狗〉と呼んだこの忌儡の運動能力は、あまりたいしたものではない。
 わたしは落下の勢いを生かして前転する。襲い来る〈地狗〉どもの爪牙が空を切った。その隙にわたしは少年めがけて地を蹴った。
「チィッ!」
 執事が掌をわたしに向ける。執事の掌には既に執事の腕ほどもある大きさの血色の槍が生まれていた。槍はわずかに反動をつけると、凄まじい速度で打ち出された。槍は、あやまたずわたしを狙っている。
 が――
「おいで、氷の隕石さんっ!」
 美奈恵の声が響き渡った次の瞬間、夜空が虹色にきらめいた。石庭の空にいくつもの虹色の円環が現れる。虹色の円環は地面に向けて歪に膨らむ。膨らみは大きくなるにつれて虹色の光沢を失い、先の尖った巨大な氷塊が現れる。その氷塊は躊躇うように震えた直後、地面に向けて勢いよく射出された。
「何っ!」
 執事が叫ぶ。
 虹色の円環から射出された巨大な氷塊が、執事の放った槍を押し潰したのだ。氷塊はアイスピックで砕いたウイスキー用の氷のような荒削りな形をしているが、そのサイズは桁違い――大人を丸ごと凍りづけにして閉じ込められそうな大きさだ。槍を押し潰した氷塊は落下の衝撃に耐えかねてひび割れ、次の瞬間漆黒の粒子と化して霧散した。
「くっ――忌能者が二人だと!?」
 執事がその場を飛び退く。直後、執事の鼻先を拳大の氷塊がかすめた。
 氷塊は次から次へと降り注ぐ。石庭の空に虹色の円盤が現れては消え、その都度、大小さまざまの氷塊が地面へ向けて射出される。
 氷塊の大きさは、執事の槍を押し潰したような巨大なものから握り拳大のものまでまちまちだが、高速で打ち出された氷塊は最小の物でも十分な殺傷能力を持っている。
 氷塊の群れは雨やあられのように庭に降り注ぎ、周囲に群がる〈地狗〉を片端からノーマライズしていく。〈地狗〉と氷塊が砕けてできた漆黒の粒子が、久瀬倉家の庭に黒い破壊のダイヤモンドダストを現出させる。黒く煌めく粒子の霧のなかで、庭木が折れ、岩が砕け、地が割れ――久瀬倉家別邸の手入れの行き届いた日本庭園が見る陰もなく荒廃していく。
 むろん、美奈恵の仕業である。わたしたちが〈氷槌ひづち〉と名付けた美奈恵の〈魔法〉――忌累統制機関認定、汎用系万能型S級忌能〈限定解除〉のバリエーション。
 美奈恵の忌能〈限定解除〉は、通常空間を一時的に忌門と性質を同じくする忌空間へと変じることで望むがままの現象を引き起こすという能力なのだが、わたしや美奈恵はもっと端的に〈魔法〉と呼んでいる。実際、その呼び名にふさわしい、ほとんど万能と言いたくなるような強力な忌能である。
 もちろん、欠点がないわけではない。限定の解除――空間を忌空間化する際に多少の時間を要することや、効果の範囲が美奈恵の認識している範囲に限られること、また美奈恵が十分に現実感を持ってイメージできる現象でなければ具象化できないことなど、一定の現実的な制約は存在している。
 また、これは忌能自体の欠点ではなく、単に美奈恵自身の性格的な問題なのだが――もともと努力が嫌いな美奈恵は自らの忌能の研究や訓練を怠りがちで、せっかくの忌能も十分に使いこなせているとはいいがたい。S級忌能は、わたしと美奈恵のそれを含めても、現在十に届かないほどしか認定されていない希少な能力なのに、まるきり宝の持ち腐れである。美奈恵によれば、忌能のネーミングがバイクの免許みたいで気に入らない……らしい。
 その上美奈恵は、忌能者としての戦闘訓練にも「体型が崩れるからイヤ」などと言ってろくにとりくもうとしない。
 忌能自体の特徴として集中のためのわずかな時間を要する上、それを縮めるような訓練を行っておらず、そのうえ近接戦闘能力も皆無――つまり、接近戦に持ち込まれると美奈恵はとたんに弱くなる。
(だからこそ、わたしがいる)
 氷塊の爆撃はいまだやまない。
 辺りには轟音が響き渡り、地面は激しく揺れ動く。
 巻き上げられた砂利や砕かれた庭石や折れた木々が視界を覆う。その合間に閃くのは、美奈恵の氷塊が砕けてできた光沢のある漆黒の粒子。空では虹色の円環がめまぐるしく瞬き、石庭の空に無数の氷塊を吐き出し続けている。
 さながらこの世の終わりのような光景である。
(……やりすぎだ)
 久瀬倉家とはできればことを構えたくない。今回のことで一時的に敵対関係になったとしても、相手方に致命的な損害を与えさえしなければ、関係の修復は不可能ではないのだ。そのような処世術は、敵を作りやすいこの業界で生きていくには必須の技術ではあった。内心の腹立ちは抑えつつ、表面上はにこやかに手を取り合うという胃の痛くなりそうな関係もまた、仕事をスムーズに進める上では必要なのだ。
 しかし、いくら久瀬倉家の人間がその手の政治的な腹芸に長けていたとしても、自家に損害を与えた相手を快く許してやるのはそれなりに困難なことではある。それで互いに無視し合うようになる程度ならいいが、敵対的な態度を取られてしまった場合、久瀬倉家の支配するこの城ヶ崎市で忌累衛視を営んでいくのはきわめて難しくなるだろう。
 いつまでたっても加減というものを覚えない美奈恵に舌打ちしつつ、わたしは〈氷槌〉の効果圏内を疾駆する。
 降り注ぐ氷塊を恐れる必要はなかった。
 美奈恵を信頼しているから――であればよかったのだが、残念ながらそうではない。
 一瞥すると、執事は降り注ぐ氷塊から身を躱すのに精一杯で、わたしにも美奈恵にも攻撃できる態勢にはない。が、それは執事の能力の低さを示すものではない。視界を埋め尽くさんばかりに降り注ぐ極大の雹雨を躱し続ける身体能力は、むしろ驚異的だと言ってもいい。
 しかし、その執事は今、その場に釘付けにされ身動きがとれないでいる。〈氷槌〉は美奈恵の扱う〈魔法〉のうちではむしろ殺傷能力の低い部類のものであり、今美奈恵が〈氷槌〉を放った目的は、この場を面で制圧し、まだ底の読み切れない忌能者――血の槍を使う執事の動きを封じることにあった。つまるところ、これはただの牽制・・にすぎないのである。
 わたしは事態を把握できず呆然としている少年のもとへと走り寄る。
 が、少年のもとにたどり着けると思ったその瞬間――少年の頭上に直径一メートル近い巨大な氷塊が出現した。美奈恵が〈氷槌〉の制御をしくじったのだ。
「くそっ! 美奈恵のやつ!」
 わたしは少年にとびつき、降ってくる氷塊に背を向ける。
 次の瞬間、高速落下した氷塊がわたしに激突した。
 ふつうであれば大怪我を免れない強烈な一撃だったが――
 パキ――!
 無数のガラスが同時にひび割れたような音とともに氷塊が砕けた。衝撃で割れたわけではない。そもそもわたしは氷塊に蓄えられていたはずの運動エネルギーを全く感じていない。
 氷塊は、わたしの身体に触れたことによって自壊した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のである。
 少年に覆いかぶさったわたしの視界の隅で細かく砕け散った氷塊が霧散していく。細かく砕けた氷塊は漆黒の粒子へと変じる。その粒子は忌門と同じ光沢のある漆黒で、地面に触れる直前、風に紛れるようにしてかき消えた。
 わたしは少年を抱きかかえ、立ち上がる。
「う、うわっ!」
「悪いが説明している時間はない! 助けてやるからじっとしてろ!」
 悲鳴を上げ、暴れかけた少年を制止する。
 わたしは氷塊が降り注ぐ中を、地面に降り立った美奈恵のもとへと駆け戻る。
 途中、わたしめがけて降ってくる大小の氷塊があったが、少年の身体に衝突しそうなものだけを躱し、他はすべて無視――ぶつかるに任せる。
 わたしに衝突した氷塊は、すべて同じ運命を辿った。わたしの身体に触れると同時に砕け散り、漆黒の粒子と化して消滅したのである。
 そう――美奈恵の〈魔法〉はわたしには効かない。
 いや、効かないのは美奈恵の〈魔法〉ばかりではなく――
「貴様あぁぁッ!」
 態勢を立て直した執事が血の槍を放ってくる。
 執事が〈血鍼衝〉と呼んでいたその忌能は、自身の血液を自在に成形して射出する、というような能力らしい。美奈恵の〈限定解除〉に比べると自由度の点で見劣りするが、攻撃系の忌能としてはそれなりに強力な部類に入るだろう。忌累機関の基準であれば、攻撃系単純攻撃型A級ないしはB級――といったところか。
 執事の放った血の槍は、どうあがいても直撃する軌道で、先ほどのように美奈恵の氷塊がそれを撃墜することも期待できそうになかった。
 が、わたしは避けない。
 避ける必要がない。
 執事の忌能は、はっきり言って、わたしの忌能との相性が最悪だ。
 なぜなら――
「何だとっ!」
 執事が驚きの声を上げる。
 執事の放った槍は、たしかにわたしに命中した。それは、十分な速度、十分な威力を持った一撃だった。にもかかわらず、槍はわたしにいささかの害をなすこともなく、光沢のある漆黒の粒子と化して消滅したのである。
 執事が次の手を打てないでいる間に、わたしは美奈恵との合流を果たす。と同時に、辺りを席巻していた〈氷槌〉が止んだ。美奈恵が別の〈魔法〉を使おうとしているのだ。
「悪いが、この少年はもらっていくぞ」
 わたしは言い捨て、美奈恵の手を取った。
 そうしなければ、わたしは美奈恵の〈魔法〉の効果圏内に入ることができないのだ。
 忌累統制機関認定、支援系個体特性型S級忌能、〈絶対遮断〉。
 わたしの身体は、すべての忌能、忌獣、そして忌門の働きから絶縁された存在であり、忌的作用に対する完全な耐性を持つと同時に、わたしに接触した忌的存在を一瞬のうちにノーマライズすることができる。その力は銃弾のような無機物に付与することも可能で、屋根から執事の血の槍を砕き、忌儡を屠ったのは〈絶対遮断〉を付与した銃弾だった。見た目にはふつうの銃弾と区別がつかないことも有利に働く。
 闇から飛来する致死の銃弾。忌的存在に対する絶対の盾にして矛。およそ忌能者にとって考え得る最悪の忌能。それがわたしの忌能であり、わたしという存在そのものでもある。
「ごめんねぇ、執事さん。バイバ~イ♪」
 美奈恵が笑顔で手を振るのと同時に、わたしたちの身体が浮いた。
「貴様ら……、は……っ!」
 美奈恵の〈魔法〉――〈魔天廊まてんろう〉が発動、わたしたちは連続出現する忌空間のトンネルに沿って空を飛び、久瀬倉家の別邸から脱出する。
「クソッ! 忌能の効かない女に虹色の魔女――わかったぞ、貴様らの正体が! 鬼すら殺す最強最悪の忌累衛視――イヴィル・バスターズ! 久瀬倉家を敵に回してただで済むと思うなァァッ!」

 ――そう。わたしたちはイヴィル・バスターズ。
 忌門の申し子にして、人に害なす忌的存在を狩りとるものだ。
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