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16.帰還して

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 つむっていた目を開くと、そこは見慣れた部屋だった。

(いや……見慣れてないか?)

 いつもは午後からせいぜい日が沈むくらいの時間までしかいないから、夜闇の降りたこの部屋は新鮮だ。
 部屋は10畳くらいだろう。引き戸のある向かい側に窓があり、残り二方の壁にはファイルキャビネットやスチールラックが並んでいる。真ん中の空間には会議用の長机が二脚あり、その短辺側にキャスター付きのホワイトボード。ボードには、何枚か紙が貼られている。

 もはや言うまでもないだろう。
 白陽学園の生徒会室だ。

「も、戻ってきた……」

 呆然とつぶやく俺。

「やれやれ……やっと戻れたな」
「どうなることかと思いましたが、なんとかなりましたね」
「異世界転生なんて実際にするもんじゃないってことがよくわかりました」

 聞き慣れた声に振り返ると、そこにはいつもの三人娘がいた。

「よかった。夢オチじゃなくて」
「鈴彦ひとりだったら怪しかったですね。鈴彦が『実は俺、異世界に召喚されて……』なんて言い出したら莉奈は腹を抱えて笑った後に、優しい笑みを浮かべて評判のいい病院を紹介するところでした」
「あなたに紹介してもらった病院なんて行かない!」
「中に誰もいませんよされたいんですか?」
「おまえがこんなにずぶずぶのオタクだとは思ってなかったよ……」
「莉奈のオタク隠蔽スキルはちょっとしたものだったでしょう」
「ほんとよく隠してきたもんだよな」

 定例となった俺と莉奈のかけあいだが、アリスも千草もつっこまない。
 ここはもう、安全な場所だからな。

「っと。そういえば、日付は?」

 アリスが言う。
 俺は生徒会室にあった電波式の置き時計を見る。

「ええっと、召喚された翌日の午前2時……ですね」
「下校時刻をすぎてしまったな」

 アリスの冗談に苦笑する。
 なぜか千草だけはツボにはまったらしく、横を向いて口を押さえている。

「わたしもアリスという名前ではあるが、本当に不思議の国に迷い込んだのは初めてだ」
「ロマンもへったくれもない不思議な国でしたけどね。むしろ、もっていたのが不思議な国ですか。ファラ王はルイス・キャロルに焼き土下座するべきです」
「とにかく疲れた。今日はこれまでにしてうちへ帰ろう」

 アリスの言葉に、千草が言う。

「こんな時間では、お館様も心配なさっているでしょう」
「そうだな。しかもその間、音信不通と来た」
「誘拐されたのではないかと思われている可能性もありますね」
「ああ……気が重いが、すぐに連絡を取ることにしよう」

 アリスは生徒会室に置き去りだった鞄からスマホを取り出し、家に連絡を取っている。
 アリスの家は裕福なだけに、そういう気苦労もあるんだな。

 って。他人事じゃなかった。
 俺はズボンのポケットに入れていたスマホを取り出す。
 激しい戦闘で壊れてないかと心配したが、無事なようだ。
 バッテリーが切れかけていたので、生徒会室に置き去りだった鞄から充電ケーブルを取り出し、充電する。
 途端に、続々と着信通知が入ってきた。
 召喚された時点から夕方までは学内の知り合いから。それ以降は親からの電話やメッセージだ。
 学内の知り合いからの着信が多いのは、文化祭前なのに生徒会役員がひとりも見つからなかったからだろう。
 それより、問題は親である。電話、メール、メッセージ。あらゆる手段の着信履歴が並んでいた。

「ど、どうしよう……」

 俺は頭を抱えた。異世界に召喚されてました。そんな言い訳が両親に通じるはずがない。

「鈴彦はまだ男だからいいじゃないですか。莉奈もこんな時間に家に帰るのは気が進みません……」

 同じく、スマホを確認して青い顔になった莉奈が言う。

「ああ。きっと深夜なのに家の明かりが煌々とついていて、両親が壁掛け時計を睨みながら、まんじりともせず待ってるんだろうな。警察に電話しましょう、いや、もう少し待つべきだ……」
「や、やめてくださいよ!」

 莉奈が身体を抱えてすくみあがる。

 どこかに電話をかけていたアリスが、通話を終えて俺たちに言う。

「鈴彦と莉奈はわたしが送ろう。生徒会の活動だったことにする」

 正確には、アリスの家のリムジンで送ってくれるということだ。
 一度だけ乗ったことがある。後部座席は向かい合わせのソファで、シャンパンを冷やす冷蔵庫までついていた。大富豪気分を味わえると、莉奈に評判の一台だ。

「ありがたいですけど、無理筋じゃないですか?」
「わたしの家の地下室で作業の詰めをやっていたことにする。夕食を取って仮眠を取ったところ、寝過ごしてしまった。地下室なのでスマホは圏外だった。わたしたちは白陽祭の準備でこのところ帰りが遅かったから、ギリギリ通じなくはないだろう」
「一日で帰ってこられたのはさいわいでしたね」

 千草が言う。
 たしかに、不在期間が何日も続いていたら、口裏の合わせようもなかった。

「俺たちはそれでいいとしても、会長は大丈夫なんですか?」
「戻ってきたら呼び名も戻ったな。アリスでいいんだぞ? ともに死線を越えた仲じゃないか」
「絶対誤解されますから、それ。でも、人目がないところではそうします。もうそっちで慣れてきましたし。……じゃなかった。アリスはどう言い訳したんです?」
「父親は仕事で海外にいるし、母親は……まぁ、あの人のことはいいだろう。執事には心配されたが、千草が一緒にいたと言ったら納得してくれた」
「わたしは帰ったらこってり絞られそうですけどね」

 と千草。
 こってり絞られる千草とか、ちょっと想像がつかないな。
 この人もたいがいパーフェクトな人だから。

「シャワーくらい浴びたかったが、この時間だ。警備システムに引っかかったりすると厄介だ。このまま帰るしかあるまい」

 言われてみれば、俺たちはみな埃っぽい。
 莉奈が言う。

「せっかく生きて帰ったのに、うれしくない帰宅ですね」
「英雄の帰還だ!とは行かないな」
「そう言うな。とにかく今日はゆっくり休め。明日からはまた忙しい」

 というわけで、めいめい自宅に連絡を入れ、ひとしきり心配されたり怒られたりしてから、アリスのリムジンで帰宅することになった。
 どんな罰ゲームだよ、これ。




 誰かが言いました。

 ――勇者が魔(道)王を倒した後も、日常は続く。

 まったくその通り。
 深夜の帰還と親の小言で就寝時間が遅くなり、夢見もかなり悪かった。
 完全に寝不足だ。
 しかもその前には、ファラオと死闘を繰り広げていたのだ。
 いくら疲労回復魔法があるとはいえ、心身ともにガタが来る。

(便利だけどな)

 向こうで習得した魔法は、なぜかこちらの世界でも使えていた。
 リングも使える。
 魔法はともかく、リングをこの世界で使う機会なんてないと思うが。

 ファラオ戦では出番のなかった回復魔法と自己強化魔法だが、むしろこっちの世界でこそ便利である。
 ちょっとした怪我ならすぐに治せるし、疲労だって取り除ける。
 重いものを持ち上げたい? はい、瞬発力強化魔法!

 生徒会役員が丸一日不在だったことで生じた作業の遅れを挽回すべく、俺たちは校内を飛び回っていた。
 重いものを運んだりする時に、思わず「dasser」とつぶやいてしまったのもしかたがないことだろう。

「この学校の生徒会、仕事多すぎですよ」

 生徒会室のパイプ椅子にどさっと座り、思わずぼやく。

「権限が集中しているからな。生徒に組織で働く経験を積ませたいという学校側の意向もあって、白陽祭は実質、生徒会が取り仕切る」

 アリスが書類に目を落としながらそう言った。
 今、生徒会室には俺とアリスしかいない。

「それ、百回くらい聞きましたよ」
「同じ解答を何度となく繰り返すのもトップの重要な仕事なのだ。それに、最初からわかっていたことだろう?」
「ええ、わかってましたとも。アリスはちゃんと、最初にうちの生徒会は仕事がきついって言ってました。だからこそ、成長できるのだとも」

 実際、俺は生徒会に入って本当によかったと思っている。
 もしここにいなかったら、俺はごく平凡な高校生活を送って、周囲に流されるように大学に入っていただろう。
 もちろん、それが悪いとは言わない。ただ、目的を持って生きるアリスや千草を見ていると、俺も頑張らなくちゃと自然に思える。
 莉奈を忘れてるって? あいつはまたちがったポジションだな。あいつの何を見習えと? 真似したくてもできねーよ。

「与えられるものを受け取るだけでは真の学びにはならないのだ。われわれは親鳥が餌を運んでくるのを待つ雛ではない。自分の翼で羽ばたく必要がある。たとえ、はじめはうまくいかなかったとしてもだ」
「生徒会に誘ってもらった時にも、それを言われましたね。みんなに言ってるんですか?」

 俺が言うと、アリスが書類から顔を上げた。
 心外そうに俺を見る。

「相手は選ぶさ。そういう正論を理想論だと言って鼻で笑う者もいる。生徒会活動だって、内申点稼ぎだろうなどとくさす輩は必ずいるものだ」
「……いますね」

 思わず顔をしかめた。
 俺もそう言われたことがある。

「だが、そういう輩は成長しない。今の状態が居心地いい、そこから動きたくない、動こうとする奴は気に入らない、自分へのあてつけのつもりか……そんな考えではな」
「アリスも、そんなことを言われることがあるんですね」
「しょっちゅうさ」
「どうしたら気にせずにいられるんです?」
「覚悟を決めること、慣れること、仲間を見つけること、だな」

 会話が途切れる。
 アリスは書類に目を戻す。
 俺はぼんやりと生徒会室を眺める。
 見慣れた光景だ。
 それなのに、何か違って見えてしまう。

(こんな風景だったっけ?)

 間違いなく以前と同じ風景なのに、そこから感じるものが違う。
 異世界に召喚され、マミーと戦い、兵と戦い、ファラオと戦った。
 閉鎖的なピラミッドの中で生きるしかない人たちの苦しみを見た。
 それと比べると、ここはあまりにも平和だ。
 その平和さが、今はどこか居心地が悪い。
 俺は自分の手を見下ろす。
 パイルバンカー。
 突き出す鉄杭。
 その反動が腕に響く。
 鉄杭はファラオの裸の胸に突き刺さる。
 その感触。
 命を奪う感触。
 人を殺すという感触だ。
 今朝方も、ファラオを殺す夢を見た。

「……ず彦。鈴彦」
「えっ、あっ、はい!」

 気がつくと、目の前にアリスが立っていた。
 アリスは、プラチナブロンドの長い髪を片手で押さえながら、俺の顔を覗き込む。

「どうした、ぼーっとして」
「い、いえ、なんでもありません」

 反射的に答える。
 俺の目を、アリスが覗き込んでくる。
 微動だにしない碧眼は、そこから何を読み取ったのか。顔を上げ、アリスは生徒会室の窓の外に目を向ける。

「……後悔しているのだ」

 アリスが言った。

「何を……ですか?」
「鈴彦に背負わせてしまったことを」

 何を、とはアリスは言わなかった。
 それでも、アリスの言いたいことはわかった。

「あの場ではあれが最適でした」
「そうだな。そこを悔いているのではない」
「気にしすぎですよ」
「気にはするさ」

 アリスがためらうように言葉を切る。

「鈴彦は、わたしの指揮下にあった。パイルバンカーに雷撃を撃ち込んだのもわたしだ。引き金はわたしが引いたのだ」
「……だから、俺が気にする必要はないって言うんですか?」

 アリスが黙り込む。
 俺は椅子から立ち上がる。

「そうやって、全部自分で背負うつもりですか」

 アリスは答えない。

「でも、それは違いますよ。たしかに、俺ひとりの責任ではないでしょう。莉奈はともかく、アリス、千草、俺の誰が当たりくじを引いてもおかしくなかった」
「それは……」
「こういう見方もできます。俺たちは連携して戦ったのだから、その責任も等分するべきだと。平凡な人間の代表として、俺はそう考えますよ」
「…………」
「覚悟と慣れと、仲間を見つけることだって、さっき言ったじゃないですか。そうやってアリスに全責任をひっかぶられたら、俺たちはアリスの仲間になれなくなってしまう。俺たちを除け者にしないでください、アリス」
「そんな、つもりは……」

 アリスが顔を伏せた。
 しばらくして、顔を上げる。
 窓から差し込む夕日に染まった端整な顔が、俺の方を向く。

「……そうだな。おまえの言うとおりだ。ありがとう、鈴彦」
「……どういたしまして」

 ほのかに微笑むアリスの顔がまぶしくて、俺は頬をかき、目をそらしながら答えた。

 それから言う。
 甘さと気まずさのまざった独特の空気から逃れるために。

「メメンを思い出してくださいよ。自分の失態を糊塗するあの面の皮の厚さ。たくましく生きていくにはあれくらいじゃないとダメなんじゃないですかね。アリスはちょっと優しすぎます」
「あの胃もたれする天使様か」

 アリスが苦笑した。

「男はああいう女がいいのか?」
「いやいや! それは絶対違います!」
「わたしからすると、女性のかわいさとあざとさの境界線がよくわからない」
「その女性の動機ですかね?」
「かわいい女性がみな天然なわけではないだろう。男が思う以上に女は計算してる」
「そうなんでしょうね。男も、あながちそれに気づいていないわけじゃなくて、気づいていながら騙されるのが好きって奴がけっこう多い気がします」
「鈴彦もそうなのか?」
「いやー、俺はそういうのはどうも。作り物のかわいさを女性に求めるのは何か間違ってる気がしますね。それを求める男も、それに応えてしまう女も、どっちも問題ありですよ」
「まともな意見だな」

 アリスがくすりと笑う。

(意見というより、実感だけどな)

 アリスを見ていればわかる。
 アリスは他人の目を意識して自分を演出しているところがあるが、それはあくまでも政治的なものであって、異性の目を気にするのとは違っている。
 しかしだからこそ、アリスには目を離し難い魅力がある。
 男とか女とかではなく、人間として輝いている。格が違う。そういうふうに思わせられる。

(これは恋なのか?)

 そう思うこともある。
 そのようでもあり、違うようでもある。
 尊敬と愛情は違うなんてしたり顔で言う奴もいるが、絶対的なラインなんて引けないんじゃないか。

(引けたらどれだけ楽なことか)

 カリスマのそばにいて、呑まれずにいるのは大変なのだ。

 ガラガラと、生徒会室の扉が開いた。

「ただいま戻りました」
「莉奈も戻りました。おつかれさまですー」

 千草と莉奈が入ってくる。
 俺とアリスを見て、千草が眉をひそめる。

「……どうしたのです、二人して突っ立って」
「まるでロマンスでも始まりそうな雰囲気ですね?」
「ろ、ロマンス!? 鈴彦、まさかお嬢様を……!」
「な、何もないですって!」

 あわてて腕を振って否定する。

「鈴彦とアリスじゃとても釣り合いませんけど、吊り橋効果なんてものもありますからね。しばらくは要警戒なんじゃないでしょうか。あっ、莉奈には惚れないでくださいね?」
「言われなくても惚れねーよ」
「お嬢様……まさか?」
「い、いや! わたしにもそんな感情はないぞ!」

 いつも通りのかけあいである。
 このかけあいの目的は、俺が勘違いしないように釘を差すことなんじゃなかろうか。

(言われんでも勘違いなんかしないっての)

 俺は平凡極まりない人間だ。
 白陽学園生徒会は、間違っても、俺のためのハーレムではない。

(そんなものも望んでないしな)

 少しの強がりをこめて、俺は心の中でつぶやいた。
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