αは僕を好きにならない

宇井

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失恋のあと

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「乾さん、何だか酷い顔ですね」
「やっぱりわかるかな」
「それはもう。休日二日間挟んだだけなのに、なんでそんなにやつれてるんですか。いつもみたいにシャンとしてくださいよ」

 職場の後輩女性である木村のもっともな言葉に理人は苦笑いする。
 理人の顔は今日も通常とは言えない状態だ。鏡に映る自分を見る度、よくこんな不細工な顔した男にキスできたものだと、黒崎を称えたくなった。
 今朝も木村のネイルには隙がなく、剥げも欠けもない指先をしている。
 彼女もお洒落に気を使う方の人間で理人とは話が合い、職場の飲み会では席を近くして喋る仲だ。

 開館前の資料館はどこまでも静かだ。
 薄暗い空間には何も映していない画面が並びひっそりとし、足音は絨毯に吸い込まれていって、まるで異境にでも足を踏み入れた気持ちになる。
 地上三階の資料館の建物は二階までが体験型スペース、三階はガラス面を多く取ってあり海や工場群が見渡せるような休憩スペースになっている。
 一階、二階と順にルートを進み、壁にある基盤の蓋を開け、次々と電源を入れていく。
 子供たちが使うためのカラフルな色合いのボタンが付いた情報機器は順に立ち上がり、ブーンと動作音を立てては組み込まれている音声を明るく喋る。その中で木村は心配そうな顔で理人の後ろ姿を見ていた。
 静まり返った館内が活気づき、いつもと変わらない一日の始まりを感じる。
 人が多くデスクが整然と並ぶ本社のオフィスは今朝の気分に合わず、理人は資料館の開館作業を手伝うと言って、つかの間避難しにきていた。
 幸い今日のルーティンは前倒しでこなしてあるから、急いでするような仕事はなかった。
 理人は振り返り、目が合った木村に微笑む。

「木村さん。実はさ、僕、失恋したんだ」
「うそ。それって、もしかして、前に言ってた長年恋していたという、初恋のその人にですか!?」
「そう。その人に恋人ができた」

 自分でも驚くほどすんなりと口にできていた。あれほど泣いて今も引きずっているというのに。

「でも、恋人ができるって、今までもあった事ですよね?」

 木村は首をかしげる。
 蓮はこれまでに恋人を作っていた。それは理人が知る限りで三人。その数は二十代後半の男性としては、多くも少なくもないと言った所だろうか。
 理人と蓮の恋人が直接会うことはこれまでなく、理人はその存在にギリギリしながらも、どこか冷静でいられた。
 それが今回は違うのだからしょうがない。何しろ相手は親友の楓だ。
 失恋話は洗いざらい吐いた方が楽になると木村に説得をされる。
   同情の中にも好奇心が見えてるけれど、それが許されるのもわかっていてグイグイ来るのが木村だ。

「そんなに僕の失恋話が気になるかな……面白くないだろう」
「気になりますよ、だって稀にみる純情なお話でしたもん」
「それが見事に散ったんだけどね。この週末で、一気に」
「うそ……マジですか」
「本当だよ。だからこんな顔なんだ」

 木村は手を口にあて声を失っている。
 理人はそんな後輩の姿にではなく、消耗している自分をふっと笑った後、基盤を閉じ再び通路を移動していく。
 理人が近所に住む人の事をずっと好きでいる事を、この後輩は知っている。理人の子供の頃からの強い思いを知っているから、これほど木村は驚いているのだ。
 学生の頃からずっと身近にいた友達が凄くモテる奴だと言うことも、二人を会わせないように努力してきたことも、木村にだけは酒の席で話していた。
 蓮の名前も性別も教えていないから、木村の中では蓮は近所に住む年上美人であり、楓はイケメンの色男に変換されている事だろう。
 飲み会の席で強引に恋愛話を聞き出された時には参ったが、こんな時に話が通じる人がいるというのは助かる。
 一人鬱々とするより、話し相手が存在することは精神的に安定する。現に失恋した事実をひと言口にしただけで、気持ちは随分楽になっている気がする。

 木村が言うには、蓮のことを思って合コンにも顔を出さない理人は、不器用でツマラナイ男性らしい。
 確かに柔軟性がなく面白味がないとは、自分でも気づいてはいたが、人の口から告げられるとその重みは違う。でもそれは言い換えれば、純情と呼べる貴重なものらしい。
 この年で純情と言われるとは、はたして喜ぶべきことなのだろうか。
 その時、酒をちびちび飲みながら考えたものだ。
 複雑な顔をする理人に木村は、ある意味羨ましい事だと言葉を続けていた。自分もそれほど長く強く人を好きになれたら幸せだろうと。
 だけどそれが叶わないと確定した時、受けるショックはなかなかのものだと教えてやりたい。いや、もう伝わっているのか。

「あの人はもてるから、一人でいる期間があまりなかったんだ。これまでの恋人とも二年、三年って長く付き合ってたみたい。一人の人を長く愛するってあの人らしくて、顔も名前も知らない相手に嫉妬した。でも、今度の新しい恋人っていうのが厄介で、僕の親友なんだ」
「それって! もしかして、噂のモテまくりのお友達ですか!?」

 興奮した木村の声にびくっとする。
 二人きりでなければ、強引にその口を塞いでいたかもしれない。

「えっと、正解。あいつに取られたというか、まあ、二人が勝手に恋に落ちたんだから、僕にできる事なんて、なにひとつなかったけど」
「でも、どうして二人が出会っちゃったんですか。何かの偶然?」
「偶然だよ。僕と友達が食事をした帰りにばったり会ってしまって、流れで紹介する事になったんだ」 
「そのお友達は、乾さんの好きな人だって、わからなかったんでしょうか? 乾さんの様子とか、その場の空気とかで伝わらなかったんですか? お友達がすぐに手を出しちゃったって事ですか?」

 鼻息の荒くなった木村をまあまあ落ち着いてと宥めるが、自分のために怒ってくれているのだと思うと、それも有り難い。
 木村が興奮すればするほど理人は冷静になっていく。
「でも、後から気付いて家まで謝りに来てくれたよ。僕がずっと好きだった人ならって、一度はあの人を諦めようとしてくれた。でも、そんなこと本当にされたら、こっちが罪悪感でいっぱいになるよ」
「両想いになっちゃったのは、まあ仕方ないとしても、わざわざ家に来るとか、友達だから諦めるとか言われたら、私だったら我慢できませんね。偉そうにお前何様だ!って怒り狂ってるかも」

 プライドをかけた女性同士の戦い。爪を出して飛びかかるキャットファイトを想像し、理人はぞっとした。

「こっちは男同士だし、あいつもマイペースなだけで悪気はないんだ。僕も気持ちの整理がまだできなくてメールは放置してる。申し訳ないとは思うけど、今はまだ時間が必要みたいだ。情けないけど、どうしていいか分からない」
「そんなの気にする事ないですよ。ブロックしてもいい位なんですから。ゴメンって何度も謝られても困るし、相談に乗ってくれとか言って、その実惚気を聞かされても嫌じゃないですか。何にしても、辛いですよね」

 さっきまでの声の高さが嘘のように、木村はしょんぼりし言葉が小さくなっていく。理人の代わりに落ち込んでくれているようにも見える。

「そうだね、辛いよ」
「酷いです……親友なのに……」
「しょうがないよ。誰にもどうにもできない事だ。好きな人を取られるのが嫌だったら、さっさと自分が告白してろって話だろ?」
「そんな事ないですよ……これまでの関係が崩れるのは怖いし、距離が近すぎるほど躊躇するのは当たり前です」
「ありがとう。そう言って慰めてくれるのは木村さんだけだよ」
「私でよければ、何度でも話を聞きます。乾さん、失恋に効くのは新しい恋です。いつも断られてばかりだけど今度こそ、もちろん落ち着いてからでいいですから、合コンしましょう。私がいい女集めます。絶対です」
「うん、ありがとう」

 理人より背の低い彼女が、一生懸命理人の背中をトントンしている。明るい木村が励ましてくれ、味方になってくれて救われていた。
 元気が出たら合コンに行ってみようか。この後輩が企画してくれたのならば。
 こんな友人を持てた僕は幸せ者だと、理人は穏やかな気持ちになった。
 木村の中で理人の片思いの相手はやはり女性となるらしい。そして次に恋する相手も当然女性。
 異性との恋愛の方が主流なのだから、それは仕方ないのだろう。

 木村を見ていて、艶のある長い髪は綺麗だと思うし、喋っている時の仕草がかわいいと思う時もある。自分より小柄な体型の女性たちを守らなければという気持ちにもなる。
 でも女性を紹介されて、その人を好きになる事ができるだろうか。付き合っていけば肌を合わせたい、抱きたいと思うのだろうか。
 だからと言って男性を紹介されても、まったく同じ事が言えるのかもしれない。やはり自分の嗜好が不明だし、整理がついていないのだろう。
 でも自分は黒崎と寝る事ができた。そうなるとやはり、対象は男なのか。
 もっと他に目を向けたら、楽になれるかな……
 そうすれば、曖昧な自分自身を知る事ができるのかもしれない。

 二人して業務を放りだしていたが、開館十分前の自動放送が流れ、とりあえず今すべき事は仕事だと、慌てて気持ちを切り替える事になった。


 水族館、食事、次の約束……

 仕事が終わり帰宅してスマホ画面を開けた途端に、楓からのメールの断片が一気に飛び込んできた。
 連絡を送ってくるのは楓だけじゃない。そう思うといつまでもスマホを放っておく訳にはいかなかったのだ。
 知りたくない単語ほど、なぜか目は拾い焼き付けてしまう。
 幸せそうな二人の姿を想像してしまい、胸が痛くなった。
 その後も着信を知らせる音を何度か聞いた。マナーモードにしていても端末が震え低い音がする度にハッとしてしまう。
 何かを相談したいらしいが、楓は相手を間違えている。たしかに二人を認め協力したが、その後にあった具体的な話だと知りたくない。今の理人にはまだ無理なのだ。
 無神経な奴だと思ったが、怒りは沸かなかった。ただ自分が一人でいることを寂しいと思っただけだ。
 蓮さんと楓。そして黒崎さん……
 深く関わった三人だというのに、その誰を思っても心に影が差す。それでも気が付けばその三人を思ってしまっている。
 ぐるぐると同じ思考を繰り返し、同じ思いをなぞって、出発した場所に戻る。
 これを何度も繰り返して、泣いて、泣いて、泣いて……それに飽きた頃ようやく理人の恋は終わるのだろう。
 楓より自分を大事にしていい。黒崎はそう言ってくれた。
 だから理人は遠慮なく自分を守ろうと思い、光っては点滅するスマホを意識の外に放り出した。

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