αは僕を好きにならない

宇井

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思わぬ場所での再会

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 久しぶりに西に会い、これまであった事をぽつぽつと喋った。その断片からすべてを知るのは難しいだろう。
 それでも深追いはせず、辛かっただろうと慰めてくれたのだった。
 西の言う病院については後々考えるとして、このごろの理人の頭を占めているのは家を出る事だ。
 会社の近くで単身者用の小さな部屋が借りられればいいのだが、家賃は予想通りにそこそこする。
 家賃に光熱費、それだけでも給料の大部分を削る事になる。蓮にふられてしまった今、おしゃれに気を使う必要はないから、被服費はゼロで計算できるだろう。一人で美味しい物を食べたいとも思わないし、酒好きでもないから節約できる。
 まったく無理な話ではないけれど楽ではない。敷金礼金、初期投資の家電を揃えるだけで時間も金も食う。
 会社には独身寮と呼ばれるものがあるが、それは会社からかなり離れた場所にあり躊躇していたのだが、周囲に聞いた所で自分には入る資格もないと知って少しがっかりした所だった。寮は地方出身者の為の施設なのだ。
 実家住まいの為にある程度は蓄えがある。しかし一人暮らしでは貯蓄も難しくなるだろう。
 一度出てしまえば、自分の戻る場所はもうなくなる。
 両親はともかく、蓮、そして比賀家との繋がりは切れる。踏ん切りがつかずにいるのはやはり未練なのかと悩む。
 それにしても蓮さんの経済力ってどうなってるんだろう。
 きっと今のレベルを維持した部屋を借り、そこにハウスキーパーも入れるのだろう。そして週末には楓と外食でも楽しみ、休日はデートに出る。
 雲の上の話だ……黒崎さんも同意してくれるだろうな。食事の時にそんな顔してたし。
 あの夜以来会っていない人を思い浮かべる。そして優しいキスを思い出して、唇をなぞる。
 あの出来事はもう遠い日のできごとだ。きっとこの調子で半年、一年……と時は過ぎ季節は変わっていくのだろう。
 次に黒崎と会う機会があるとしたら、蓮と楓を祝う為の集まりになるのかもしれない。二人の友人や関係者が集まるのならば、少し規模が大きくなるのが予想できる。
 そうなるとその会で黒崎を見つけたとしても、挨拶程度で終わってしまうのか。

「……関係ない……仕事、しよ」

 自分の耳に聞かせるように言って、デスクから立ち上がった。

 近いうちに会社絡みの団体が来館する予定があると理人にも連絡がきている。
 資料館の機器類の修理を依頼しなければならず、理人はエレベータに乗り込み本社の該当部署に向かう事にした。
 部長からの指示はなかったが、故障中の札をぶら下げている機器が多く、その団体が来る前に修理すべきだと思ったのだ。
 その国際団体は工場視察の方々で、お付きの方や通訳、社の人間を含み二十人程度となる。
 館内の案内は担当者がするから理人たちの出番はない、だが事前に準備できることはある。
 また資料館の面倒な社員が来たと、顔を出す度に苦い顔を向けられるのだが、たまたま席にいた課長に早めの修理をお願いができた。
 いつも下出にでて不快な思いをさせないようにしいるのに、どうしてだが扱いはとても悪い。だから総務の人間はこのフロアに行くのをとても嫌がっている。そして理人が生贄となり使い走りされるのだ。
 総合営業職や技術職の彼等からしたら、事務系総合職というのは軽く見えるのだろうか。実際に金を稼ぎ出すのは彼らだが、管理部門がなければ会社は機能しない。
 役員だって事務方出身者が多いのに……
 口に出すことはしないが、理人はこんな現状を歯がゆく思うことがあった。
 それでもそんな気持ちは一切表に出さず、お願いするようにしている。しかしたった一度だけ熱くなり声を大きくしてしまった事は一度だけあった。
 一階のメインとなるシアターの調整が放置され、一か月も封鎖されたままだったのだ。
 あれは見栄えが悪すぎると部長からせっつかれ何度も依頼した。それなのに修理はされず、真ん中に立つ理人が板挟み状態になっていたのだ。とはいえ、あれはマズかったかと今では反省している。
 仕事もプライベートもままならない事ばかり。いい事があれば悪い事があり、いいニュースの後にはトラブルが持ち込まれ忙しい。
 気になっていた箇所は順に修理が入り、見苦しさが無くなったのは、国際団体のお客様がやって来る前日だった。
 ぎりぎりセーフだと理人は息を撫でおろしていた。
 当日、開館前には館長でもある総務部長がやってきて、自ら不備がないか館内を見て回り、理人はその後に続いた。
 概ね満足だったようで、雨漏りの跡がある天井をながめ、棚のパンフレットの角度を直して本社ビルに戻っていった。
 部長が直々にやってきたと言う事には、やはりそこそこ重要な客となるのだろう。
 理人は資料館管理室から一階の受付カウンターに移動させたパソコンに目を落とす。
 表示されている数字は五。つまり今日の来館者数は朝から五人という事だ。団体の予約もない平日の午前中となるとこの数字は妥当だろう。
 退館数は把握していないが、小さな子供の声が聞こえてくるから、まだ館内で遊んでいる事になる。
 視察がある場合でも資料館を締め切りにする事はまずない。
 今来ている子供も楽しんでいれているのが伝わってくる。貸し切り状態に近いこの状況を喜んではしゃいでいるのだろう。幼く可愛らしい声を遠くに聞きながら、理人は手元のパソコンで仕事にかかった。
 手元には先週来館した小学生の社会見学を撮らせてもらったデータがある。それをサイトに上げる許可をもらうため学校にメールを送り、ホームページに添える文章を考える。
 見学に来てくれた子供たちの様子はまめに発信するようにしている。やり取りが面倒だと、引き継ぎの時には放置されていた仕事を理人は復活させた。好きでやっていることだから、自分がここの担当を外れるとしても、後任に押し付けるつもりはない。
 顔出しは禁止とか、あれこれ指定される事もあって大変だが、先生方も喜んで協力してくれるし、実は一番好きな作業だ。
 この作業をしていると知らずに微笑んでいる事があるらしく、後輩の木村に気持ち悪いと言われた事がある。そして今も微笑んでいたのだが、自動ドアの向こうが騒めきはじめ手をとめる。
 耳を澄ませてみれば複数の靴音が重なるのがわかった。
 来た。予定通りだ。
 慌ててパソコンから顔をあげると、壁掛けの時計は予定表より二十分以上前の時間を指している。
 工場視察がスムーズに進んだのだろう。それが延びれば資料館には来ないと言われていたのだが、飛ばされる事にはならなかったようだ。
 理人は急いで管理室にいる仲間にその旨を伝える電話をした。
 短い通話を終え一行を迎えるために椅子から立ち上がると、管理室で通常業務についていた木村がやってきて並ぶ。
 
「早いけどいらっしゃいましたね」
 
 木村が囁くのと扉が機械音を立てて横にスライドするのは、ほぼ同時だった。

「いらっしゃいませ」

 人が過ぎる度に頭を下げると、濃い目のアジア系な顔立ちの方が次々と通り過ぎていく。
 海外からのお客様となると、たまに民族衣装をまとっている人がいるのだが、今回は全員がスーツを着用しているようだ。
 ……ん?
 その中に知っている顔があった気がして、その後ろ姿を視線で追う。
 目、合ったよな。
 全員が黒髪で同じ様なスーツ姿がたむろしているのに、理人はすぐにその顔を見つける事ができた。
 背の高さに体型。前を通った時に見えた横顔。間違いなかった。

 黒崎さん……

 何で……ここにいるんだ。うちのお客様なのか? でも黒崎さんって日本人。だったら通訳として来てる!?
 理人は平静を装いながらも、早まる鼓動の音に支配されていた。そして黒崎の動きを観察していて、彼がどういう立場の人物であるかがわかった。
 彼は社外の人間じゃない、彼がお客様を案内してるんだ。
 小さくパニックを起こしそうになった所で、ようやく気付いた。
 黒崎姓は創業家一族と同じ苗字。現会長と専務の二人、他の役員にも黒崎がいるはずだ。
 彼が会長のわけがない。だったら他の役員だろうか。
 まさかあの黒崎が、と頭は否定するのだが、それを裏切る言葉がそこに重なってくる。

「専務」

 脇に控えていた男性が、黒崎をそう呼んだのだ。
 その小さなはずの声が理人には鮮明に届いていた。。
 黒崎はつき当たりにある、社の歴史情報のパネル前で客と談笑している。
 黒崎が社の専務だと確定しても、どうして彼の姿がそこにあるのかと、認めたくない思いがそこへ立ち返らせる。

「乾さん、どうしました?」

 一点を凝視して固まってしまった理人に木村が怪訝な顔をする。

「いや、知り合いに似た人がいて」
「へえ、お知り合いとは違うんですよね?」
「違う……まったくの別人だった」

 あれは理人の知る黒崎ではない。
 あんな大人の顔をした、できる風の人間を理人は知らない。知っているのは、口が悪く意地悪で、それとは裏腹な行動で理人を翻弄し甘やかした男だ。
 一行はその後あっさりとパネル前を通りすぎフロアを上がっていった。木村も予定通りに団体から大きく距離をとって後をついていく。
 長いと思ったこの時は、時間にすればたった五分ほどだった。
 その後、見学は通り過ぎるだけで熱心にはせず、帰りは違う出入口から去って行ったらしい。資料館でも滞在見学時間はたったの十五分で終わった事になる。
 そっか。
 出迎えた正面口でがっかりする理人は、黒崎にもう一度会いたかったらしい自分に気付いた。
 蓮兄と二人にしてくれてありがとう。
 お酒を飲ませてくれてありがとう。
 理人はまだそのお礼を黒崎に伝えられていない。
 黒崎は理人に気付かなかったかもしれないし、敢えて無視したのかもしれない。あの場での彼の立場を考えれば、それは当然ともいえる。実際、黒崎の心内がどんなであっても理人は構わなかった。
 黒崎の意外な側面を見られた。
 カウンターの中で洗い物をする黒崎を見て決まっていると思ったが、こっちの方が断然さまになっていた。
 専務様ならホテル代くらいけちるなよ……
 タクシー運転手とのやりとり、初めて入ったホテルの微妙さを思い出し、自分の扱いの雑さに拗ねたくなる。ついさっきまで忘れていた事が蘇り、今頃になって納得いかない思いが湧く。なのに口元は笑っていた。
 それだけ黒崎は飾りがないとも言い換えられる。少し口が悪くて遠慮がなくて、でも涙に弱い。情が厚いだけ友達も多いのだろう。
 きっともてるんだろうな……もてるよ。
 自分の事なんてとっくに忘れて、昼は仕事に集中し、夜は夜で息抜きしているのだろう。恋人の存在はないと勝手に思い込んでいたが、それだって本当はいるのかもしれない。
 僕は黒崎さんの事、何も知らないから。
 だから、突然の再会にこんなにも驚かされているのだと、動揺する自分を落ち着かせた。

「先輩? 大丈夫ですか? 口だけが笑ってて、ちょっと怖いですよ。ここはもう私に任せて裏で休憩してきて下さい」
「口だけで笑うってどんなだよ」

 受付カウンターの前で立ち尽くす理人に、木村が肩を叩いた。

「口角が上がっていて、でも視線は遠くて、とにかく不気味なんです」
「その説明じゃ、ますますわからない」
「つまりはですね……うん、何だろう、崩れそうな感じ?……さあさあ、今日は昼休憩がずれこんでしまいましたから、そろそろ行って来て下さい」

 強く背中を押され、理人は管理室に向かった。

 珍しく管理室には誰もおらず、扉を開けたものの室内へは入らず屋上へ足をすすめる。腰に下げている鍵で開錠し、扉の脇にあるコンクリートの台によいしょと腰をかける。
 理人がここへ来るのは二度目だ。
 屋上とはいっても、ここは給水設備や電気設備の箱が幾つも広がり、くつろげるようなスペースはない。それでも一日中室内にこもりっぱなしになってしまうと、一人のんびり外の空気が吸えるこの場所は恋しかった。
 一度目来た時にいい場所だと思ったが、しかし実際には忙しくてここまで来れなかったのが現状だ。
 高さがあり浮いてしまった足、体重を支えるために後ろに手をつき、空を眺める。たったそれだけの事が乱れた心を落ち着かせる。
 目の前が水の膜に覆われた。
 そうか、崩れる寸前の顔って、泣き崩れる寸前って意味なんだな。木村は遠慮したが本当はそう言いたかったのだ。
 なんでかな……どうして僕は、黒崎さんの顔が見られて、ほっとしたんだろう。嬉しかったんだろう。
 たったそれだけのことで、胸は高鳴りその後急激に落ちた。
 黒崎が専務であり遠い人だったからではない。
 また会う事ができた。その偶然が嬉しかったのだ。そしてすぐに消えてしまった事が寂しかったのだ。
 なんだよそれ。
 これからどうしようとは思わない。単に同じ会社で働いている偉い人だと言う事がわかっただけだ。
 黒崎さんはいつも突然で、いつも僕を揺さぶる。あんな人に、こんなに心を乱されて泣かされるなんて信じられなかった。
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