その花は、夜にこそ咲き、強く香る。

木立 花音

文字の大きさ
29 / 33
最終章:たなばた祭り

【今はただ、君を護れる強さが欲しい】

しおりを挟む
 水瀬が福岡に旅立ったのは、夏休みに入って最初の土曜日だった。
 その日、駅に着いたのは朝の六時ころで、夜半過ぎまで降っていた雨は、いつのまにか止んでいた。空はすっかり晴れ渡り、山の稜線りょうせんから昇った太陽の光が、駅舎の屋根に残った雨後のしずくを煌めかせていた。

 早朝の油津駅あぶらつえきのホームに、人は、僕と水瀬と彼女の母親しかいなかった。オレンジ色に塗装された車輌全体に朝日を浴び、日南線にちなんせんの電車が、物々しい音とともに一番線ホームに滑り込んでくる。ブレーキの音が余韻となって、物悲しさを加速させた。
 電車が所定の場所に止まり、ドアが開いて水瀬と母親が乗り込むまでの十数秒間。僕は彼女と二言三言、言葉を交わした。
 それなのに──何を話したのか、今となっては殆ど覚えていない。この瞬間ばかりじゃない。駅の待合室で十数分ほど語り合った内容ですら、殆ど。

 待合室のベンチに二人並んで腰かけ、ただ静かに語り合った。僕の肩に頭を預けてくる水瀬の柔らかな髪が、時折、首筋と頬をふわりと撫でた。こそばゆい感触と甘い香りに僕の胸は高鳴ったけれど、それでも彼女の存在を隣に感じているだけでもう精一杯だった。こんな楽しい時間も、すぐに終わりがくると分かっていたから。水瀬を愛しいと思う気持ちと、寂しいと思う気持ち。相反する二つの感情でずっと心は満たされていて、きっとうまく笑えていなかったと思う。
 そんな中かろうじて覚えているのは、母親が僕に対してしきりに頭を下げ、『ありがとうございました』と繰り返していた事か。僕が直接何かをしたわけでもないのにと、内心で恐縮しきりだった。
 とは言え、悪い気はもちろんしない。僕がやれるだけの事をやって、その結果、母親が心を開いてくれたと思えば。

 ──だからきっと、水瀬は大丈夫。

 どこか気もそぞろの中気がつけば、水瀬は電車に乗り込んでいて、正面からじっと僕を見つめていた。赤い鞄を重そうに両手で抱え、転校先である福岡にある公立校のセーラー服を着た中学二年の水瀬。

 ──そうだ、と僕は唐突に思う。

 これから僕たちはお互いの住むべき所に向かう。
 君がこれから向かう場所に僕はいないし、僕が帰る場所にも当然君はいない。僕たちはお互いに喪失感を抱え、それでも前を向いて生きていかなければならないんだ。
 文化祭の翌日から毎日のように一緒に過ごし、あれほどたくさん話をして、あれほど恋人同士になれた喜びを分かち合っていたはずなのに、それは、突然で、残酷すぎる別れに思えた。
 このまま今生の別れになってしまうかもしれない。何か言わなければ一生後悔する。そんな焦燥ばかりが募るのに、僕は上手く口も開けず押し黙ったままで、沈黙を破ったのは水瀬の方だった。
「翔君」というそれは、もう耳に馴染んだ気すらしてしまう、下の名前で呼ぶ声で。それなのに僕は、「え」という漏れた息のような声しか発することができない。

「あたしのこと、忘れないでね」

 忘れるわけがないじゃないか、と言おうとして、けど、その言葉は上手く喉元を通らない。
 なんでそんなこと言うんだよ。それじゃまるで、本当に今生の別れみたいじゃないか。
 なにか、声を掛けなくちゃ。
 なにか──。
 そうだ。ずっと黙っていたけれど、水瀬と僕は、実の兄妹きょうだいだったんだ。だから会おうと思ったら、何時でも会いに来ていいんだ。

「水瀬、僕は」

 そんな事、言えるはずがないじゃないか。
 自嘲して、掠れた声がようやく口をついて出たその時、電車のドアが閉まり始めた。閉じる瞬間聞こえたのは、「連絡するから、ぜったい」という悲鳴じみた水瀬の声。

「水瀬も元気で! 連絡するよ、僕も──」

 ドアが完全に閉じて、彼女は急いでドアのガラスに手を触れて、同じようにドアに触れた僕の手と、ガラス越しに一瞬だけ重なった。

「危ないから、ドアから離れて」

 背中から聞こえてきた駅員の声に慌てて手を離した瞬間、電車がするすると走り出した。
 走り出した電車を僕が追いかけて。
 水瀬も進行方向と逆側に向かって走り出す。
 しかし電車がどんどん走る速度を上げると、そのままホームから離れ、やがて視界の先に見えなくなってしまった。

 電車が見えなくなった先の田園風景を見つめ、ただ茫然と立ち尽くしていた。
 こうして僕たちは、恋人としての関係を解消することなく別れた。
 けれど──
 気持ちを伝え合えたから、なんて、なんの気休めにもならなかった。
 なんだかんだいって水瀬は美人だから、僕よりかっこいい男たちがきっと声を掛けてくる。次第に僕のことを忘れて『ファーストキスをした特別な相手』から、『昔好きだった男の子』に名称が変わり、終いには記憶の引き出しにそっと片付けられてしまうのだろう。二人を引き裂いた様々な障害が、僕たちの繋がりを完全に断ち切ってしまうのだろう。
 でも、それでいいとすら思う。皮肉な運命の巡り合わせから出会った僕たちの未来は、きっとこの先も交わることはないのだから。でも、それでも、と僕は思う。僅かに滲み始めた視界のなかで。今日も明日も明後日も、それから先もずっと、変わることなく君のことを愛し続けると。願わくば水瀬が、笑って前を向き生きられますようにと。
 今はただ、君を護れるだけの強さが欲しい。それだけを願い、僕は駅のホームに背を向けた。
 離れ離れになってしまった僕たちのことを、空だけは変わることなく繋いでいた。

 遥か彼方の空から、カラスの鳴く声が遠く響いた。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小学生をもう一度

廣瀬純七
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

処理中です...