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最終章:たなばた祭り
【今はただ、君を護れる強さが欲しい】
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水瀬が福岡に旅立ったのは、夏休みに入って最初の土曜日だった。
その日、駅に着いたのは朝の六時ころで、夜半過ぎまで降っていた雨は、いつのまにか止んでいた。空はすっかり晴れ渡り、山の稜線から昇った太陽の光が、駅舎の屋根に残った雨後の雫を煌めかせていた。
早朝の油津駅のホームに、人は、僕と水瀬と彼女の母親しかいなかった。オレンジ色に塗装された車輌全体に朝日を浴び、日南線の電車が、物々しい音とともに一番線ホームに滑り込んでくる。ブレーキの音が余韻となって、物悲しさを加速させた。
電車が所定の場所に止まり、ドアが開いて水瀬と母親が乗り込むまでの十数秒間。僕は彼女と二言三言、言葉を交わした。
それなのに──何を話したのか、今となっては殆ど覚えていない。この瞬間ばかりじゃない。駅の待合室で十数分ほど語り合った内容ですら、殆ど。
待合室のベンチに二人並んで腰かけ、ただ静かに語り合った。僕の肩に頭を預けてくる水瀬の柔らかな髪が、時折、首筋と頬をふわりと撫でた。こそばゆい感触と甘い香りに僕の胸は高鳴ったけれど、それでも彼女の存在を隣に感じているだけでもう精一杯だった。こんな楽しい時間も、すぐに終わりがくると分かっていたから。水瀬を愛しいと思う気持ちと、寂しいと思う気持ち。相反する二つの感情でずっと心は満たされていて、きっとうまく笑えていなかったと思う。
そんな中かろうじて覚えているのは、母親が僕に対してしきりに頭を下げ、『ありがとうございました』と繰り返していた事か。僕が直接何かをしたわけでもないのにと、内心で恐縮しきりだった。
とは言え、悪い気はもちろんしない。僕がやれるだけの事をやって、その結果、母親が心を開いてくれたと思えば。
──だからきっと、水瀬は大丈夫。
どこか気もそぞろの中気がつけば、水瀬は電車に乗り込んでいて、正面からじっと僕を見つめていた。赤い鞄を重そうに両手で抱え、転校先である福岡にある公立校のセーラー服を着た中学二年の水瀬。
──そうだ、と僕は唐突に思う。
これから僕たちはお互いの住むべき所に向かう。
君がこれから向かう場所に僕はいないし、僕が帰る場所にも当然君はいない。僕たちはお互いに喪失感を抱え、それでも前を向いて生きていかなければならないんだ。
文化祭の翌日から毎日のように一緒に過ごし、あれほどたくさん話をして、あれほど恋人同士になれた喜びを分かち合っていたはずなのに、それは、突然で、残酷すぎる別れに思えた。
このまま今生の別れになってしまうかもしれない。何か言わなければ一生後悔する。そんな焦燥ばかりが募るのに、僕は上手く口も開けず押し黙ったままで、沈黙を破ったのは水瀬の方だった。
「翔君」というそれは、もう耳に馴染んだ気すらしてしまう、下の名前で呼ぶ声で。それなのに僕は、「え」という漏れた息のような声しか発することができない。
「あたしのこと、忘れないでね」
忘れるわけがないじゃないか、と言おうとして、けど、その言葉は上手く喉元を通らない。
なんでそんなこと言うんだよ。それじゃまるで、本当に今生の別れみたいじゃないか。
なにか、声を掛けなくちゃ。
なにか──。
そうだ。ずっと黙っていたけれど、水瀬と僕は、実の兄妹だったんだ。だから会おうと思ったら、何時でも会いに来ていいんだ。
「水瀬、僕は」
そんな事、言えるはずがないじゃないか。
自嘲して、掠れた声がようやく口をついて出たその時、電車のドアが閉まり始めた。閉じる瞬間聞こえたのは、「連絡するから、ぜったい」という悲鳴じみた水瀬の声。
「水瀬も元気で! 連絡するよ、僕も──」
ドアが完全に閉じて、彼女は急いでドアのガラスに手を触れて、同じようにドアに触れた僕の手と、ガラス越しに一瞬だけ重なった。
「危ないから、ドアから離れて」
背中から聞こえてきた駅員の声に慌てて手を離した瞬間、電車がするすると走り出した。
走り出した電車を僕が追いかけて。
水瀬も進行方向と逆側に向かって走り出す。
しかし電車がどんどん走る速度を上げると、そのままホームから離れ、やがて視界の先に見えなくなってしまった。
電車が見えなくなった先の田園風景を見つめ、ただ茫然と立ち尽くしていた。
こうして僕たちは、恋人としての関係を解消することなく別れた。
けれど──
気持ちを伝え合えたから、なんて、なんの気休めにもならなかった。
なんだかんだいって水瀬は美人だから、僕よりかっこいい男たちがきっと声を掛けてくる。次第に僕のことを忘れて『ファーストキスをした特別な相手』から、『昔好きだった男の子』に名称が変わり、終いには記憶の引き出しにそっと片付けられてしまうのだろう。二人を引き裂いた様々な障害が、僕たちの繋がりを完全に断ち切ってしまうのだろう。
でも、それでいいとすら思う。皮肉な運命の巡り合わせから出会った僕たちの未来は、きっとこの先も交わることはないのだから。でも、それでも、と僕は思う。僅かに滲み始めた視界のなかで。今日も明日も明後日も、それから先もずっと、変わることなく君のことを愛し続けると。願わくば水瀬が、笑って前を向き生きられますようにと。
今はただ、君を護れるだけの強さが欲しい。それだけを願い、僕は駅のホームに背を向けた。
離れ離れになってしまった僕たちのことを、空だけは変わることなく繋いでいた。
遥か彼方の空から、カラスの鳴く声が遠く響いた。
その日、駅に着いたのは朝の六時ころで、夜半過ぎまで降っていた雨は、いつのまにか止んでいた。空はすっかり晴れ渡り、山の稜線から昇った太陽の光が、駅舎の屋根に残った雨後の雫を煌めかせていた。
早朝の油津駅のホームに、人は、僕と水瀬と彼女の母親しかいなかった。オレンジ色に塗装された車輌全体に朝日を浴び、日南線の電車が、物々しい音とともに一番線ホームに滑り込んでくる。ブレーキの音が余韻となって、物悲しさを加速させた。
電車が所定の場所に止まり、ドアが開いて水瀬と母親が乗り込むまでの十数秒間。僕は彼女と二言三言、言葉を交わした。
それなのに──何を話したのか、今となっては殆ど覚えていない。この瞬間ばかりじゃない。駅の待合室で十数分ほど語り合った内容ですら、殆ど。
待合室のベンチに二人並んで腰かけ、ただ静かに語り合った。僕の肩に頭を預けてくる水瀬の柔らかな髪が、時折、首筋と頬をふわりと撫でた。こそばゆい感触と甘い香りに僕の胸は高鳴ったけれど、それでも彼女の存在を隣に感じているだけでもう精一杯だった。こんな楽しい時間も、すぐに終わりがくると分かっていたから。水瀬を愛しいと思う気持ちと、寂しいと思う気持ち。相反する二つの感情でずっと心は満たされていて、きっとうまく笑えていなかったと思う。
そんな中かろうじて覚えているのは、母親が僕に対してしきりに頭を下げ、『ありがとうございました』と繰り返していた事か。僕が直接何かをしたわけでもないのにと、内心で恐縮しきりだった。
とは言え、悪い気はもちろんしない。僕がやれるだけの事をやって、その結果、母親が心を開いてくれたと思えば。
──だからきっと、水瀬は大丈夫。
どこか気もそぞろの中気がつけば、水瀬は電車に乗り込んでいて、正面からじっと僕を見つめていた。赤い鞄を重そうに両手で抱え、転校先である福岡にある公立校のセーラー服を着た中学二年の水瀬。
──そうだ、と僕は唐突に思う。
これから僕たちはお互いの住むべき所に向かう。
君がこれから向かう場所に僕はいないし、僕が帰る場所にも当然君はいない。僕たちはお互いに喪失感を抱え、それでも前を向いて生きていかなければならないんだ。
文化祭の翌日から毎日のように一緒に過ごし、あれほどたくさん話をして、あれほど恋人同士になれた喜びを分かち合っていたはずなのに、それは、突然で、残酷すぎる別れに思えた。
このまま今生の別れになってしまうかもしれない。何か言わなければ一生後悔する。そんな焦燥ばかりが募るのに、僕は上手く口も開けず押し黙ったままで、沈黙を破ったのは水瀬の方だった。
「翔君」というそれは、もう耳に馴染んだ気すらしてしまう、下の名前で呼ぶ声で。それなのに僕は、「え」という漏れた息のような声しか発することができない。
「あたしのこと、忘れないでね」
忘れるわけがないじゃないか、と言おうとして、けど、その言葉は上手く喉元を通らない。
なんでそんなこと言うんだよ。それじゃまるで、本当に今生の別れみたいじゃないか。
なにか、声を掛けなくちゃ。
なにか──。
そうだ。ずっと黙っていたけれど、水瀬と僕は、実の兄妹だったんだ。だから会おうと思ったら、何時でも会いに来ていいんだ。
「水瀬、僕は」
そんな事、言えるはずがないじゃないか。
自嘲して、掠れた声がようやく口をついて出たその時、電車のドアが閉まり始めた。閉じる瞬間聞こえたのは、「連絡するから、ぜったい」という悲鳴じみた水瀬の声。
「水瀬も元気で! 連絡するよ、僕も──」
ドアが完全に閉じて、彼女は急いでドアのガラスに手を触れて、同じようにドアに触れた僕の手と、ガラス越しに一瞬だけ重なった。
「危ないから、ドアから離れて」
背中から聞こえてきた駅員の声に慌てて手を離した瞬間、電車がするすると走り出した。
走り出した電車を僕が追いかけて。
水瀬も進行方向と逆側に向かって走り出す。
しかし電車がどんどん走る速度を上げると、そのままホームから離れ、やがて視界の先に見えなくなってしまった。
電車が見えなくなった先の田園風景を見つめ、ただ茫然と立ち尽くしていた。
こうして僕たちは、恋人としての関係を解消することなく別れた。
けれど──
気持ちを伝え合えたから、なんて、なんの気休めにもならなかった。
なんだかんだいって水瀬は美人だから、僕よりかっこいい男たちがきっと声を掛けてくる。次第に僕のことを忘れて『ファーストキスをした特別な相手』から、『昔好きだった男の子』に名称が変わり、終いには記憶の引き出しにそっと片付けられてしまうのだろう。二人を引き裂いた様々な障害が、僕たちの繋がりを完全に断ち切ってしまうのだろう。
でも、それでいいとすら思う。皮肉な運命の巡り合わせから出会った僕たちの未来は、きっとこの先も交わることはないのだから。でも、それでも、と僕は思う。僅かに滲み始めた視界のなかで。今日も明日も明後日も、それから先もずっと、変わることなく君のことを愛し続けると。願わくば水瀬が、笑って前を向き生きられますようにと。
今はただ、君を護れるだけの強さが欲しい。それだけを願い、僕は駅のホームに背を向けた。
離れ離れになってしまった僕たちのことを、空だけは変わることなく繋いでいた。
遥か彼方の空から、カラスの鳴く声が遠く響いた。
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