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プロローグ

『見上げた空は、今日もアオハルなり』

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 私が恋をすることなんて、一生ないんだろうと、そう思っていた。

 私の声は、誰にも届かないから。

 誰の声も、私の耳には届かないから。

 そうして、塞ぎ込むように過ごしていた高校二年の秋。私は彼に出会った。

 その日から凄く辛くて。

 凄く、切なくて。

 凄く、悲しくて──

 それでもあなたは、私の心の扉を全力でノックした。

 だから凄く嬉しくて。

 凄く、楽しくて。

 同時に、……凄く切なくて。

 それでも、私は後悔していない。

 私の想いは確かにあなたに届き、あなたの想いもまた、私に届いたのだから。

 だから私は、今日も空を見上げる。

 良い三年間でしたと、空を見上げる。



 半分ほど閉じられた、ブラインドの隙間から射し込む眩しい朝日で目が覚める。気を抜くと、またすぐに瞼が落ちてしまいそうなほどに頭が重く感じる。耳元ではスマホのアラームが鳴っているのだろう……たぶん。小刻みな振動を繰り返していた。
 煩わしいスマホの振動を止めて眠い目を擦りながら布団からはい出すと、頭と同じように重い足取りで階下を目指した。

 洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗うと一気に目が覚めてくる。フェイスタオルで水気を拭ってから、鏡に映った自分の姿を見つめる。
 アッシュグレイに染められた長い頭髪。薄い瞳と同じように薄い唇。幸の薄そうな顔だなって、毎朝のように思ってしまう。
 ふ、と溜め息を一つ落としてから自室に戻ると、パイプハンガーからブレザーの制服を取って袖を通していった。
 鏡台の前に腰かけ、メイク道具を一式広げる。メイクにはたっぷり三十分ほどかける。ファンデーションを丹念に塗りこみ、マスカラとアイシャドウを塗っていく。薄い瞳をきわ立たせるように、しっかりと、慎重に丁寧に。
 最後にピンク色の紅を差した。塗り残しがないように口角までちゃんとね。何度か唇を舐めて確認をする。
 ヘアアイロンの温度が上がっているのを確かめ、毛先を内巻きにカールし髪の毛を二つ結びにしてようやく完成。
 身支度が終わって鏡の中を覗きこむと、すっぴんの状態とは別人のように変わった自分がそこに居た。派手な髪の色と濃いめのバッチリメイク。反面、それらと不釣り合いな奥ゆかしい髪型。
 本当の姿を一部だけ残しつつ、虚構の自分を作り上げていく作業。既に日課といえるこの時間が嫌いではないけれど、化粧をしなければ自信すら持てない弱気な自分を、もどかしくも思う。

 朝食を食べ終えたころには、時刻は既に七時半を回っていた。古びた床に今時引き戸の玄関。築ウン十年のオンボロ一軒家。ローファーに踵を入れたそのとき、背後に人の気配を感じた。他人から向けられる視線を察知するのが私はわりと得意だから、きっとママが声を掛けてきたんだろうな、と思う。
 顔だけを向け、肩越しに『いってきます』とママに告げた。
 するとママは、『いってらっしゃい。忘れ物ない? 車に気をつけてね』とだけ、手短に返してくる。用件だけを伝え合う事務的な会話。でも、寂しい、なんて別に思わない。これは何度も繰り返されてきた、日常のワンシーンでしかないから。
『分かってるよ』と苦笑いで返し玄関を出る。それ以上返事はしなかった。
 今日もまた、憂鬱な一日が始まってしまったな、と思う。それでも半年前よりは、幾分かマシになっていた。些細な内容ではあるが、新たな楽しみができていたから。

 自宅から続く細い路地を抜けると、やがて車通りの多い場所にでる。交差点を幾つか越え、未だシャッターの開かない商店街を抜け、大きな歩道橋を一つ渡る。
 学校に至る交差点の近くまで辿り着くと、対面方向にある駅から溢れ出てきたであろう同じ制服姿が増えてきた。
 角を曲がった先にある学校へと続く坂道の両脇には、咲き始めの桜の木が立ち並んでいる。淡いピンク色に変わり始めている蕾と花びらが、新しい季節の到来を伝えようとしているようだ。
 今日は始業式。私――桐原悠里きりはらゆうりも三年生。
 ようやく三年生、なのか。それとも、もう三年生なのか。受け取り方は個々で違うんだろうけど、明らかに私は後者の方。
 時間の流れは、全ての人に平等に訪れるんだろうけれど、せめて私の周りだけでも、ゆっくりと時間が流れて欲しかったな。そんな感じの不満を、ぼんやりと考える。
 ホント、誰が好んであんな場所に校門を備えたんだろうか。長い坂道を登りきると、ようやく真新しい校舎の姿が目に飛び込んでくる。二階建ての、白い壁に覆われた建物。それは、私の通う私立照葉学園しょうようがくえんの校舎だった。
 いた。
 見慣れた後姿を見つけ、私の鼓動が走り出す。
 彼――広瀬慎吾ひろせしんご君は、二年生の秋ごろ、事故に遭いそうになっていたところを救ってもらってから、なんとなく気になっている男の子。
 背丈はそんなに高くない。たぶん百七十センチあるかどうかくらい。それでも百五十センチちょっとしかない私から見れば、凄く大きく見えるけど。
 癖毛気味に襟足だけ跳ねた長めの頭髪。中性的な雰囲気漂う整った顔立ちと、ちょっとだけ大きくて丸い瞳。
 私ははっきり言って友達が少なくて、女子ですら『友人です』と紹介できる間柄の子は二人しかいない。だから、男の子で友達って言えるのは彼だけ。もっとも、向こうが私のことを友達として認識してくれているのかは、わかんないけれど。
 そんな風に、朝からしょうもないことを考えながら、足早に彼の背後に近寄っていく。昇降口に入る直前でようやく追いつくと、声も掛けずにいきなり左手を握ってみた。恥ずかしいから指先だけ、そっとね。
 本当は筆談でもするべきなんだろうけど、手を握っちゃったほうが――手っ取り早いから。
 驚いた顔でり向いた彼は、私の姿を認めると、繋いでいた手を解いてこう返してくれた。

『おはよう、桐原さん』

 ほんのりと熱を帯び始めた頬。上気した顔を隠すように俯いて、私もこう返す。

『おはよう、広瀬君』

 ただし言葉は交わされることなく、会話は手話で行われる。なぜなら私の耳は、殆ど聞こえないのだから。
 いわゆる、聴覚障害者。それが私、桐原悠里の本当の姿。
 この障害のせいで息苦しさを感じたり、辛くなってしまうことも多いけれど、彼の顔を毎朝見るのが楽しみになった今は、ちょっとだけ幸せ。灰色だった高校生活も、彩りが鮮やかになった。
 視界の隅を、ピンク色の花びらが舞って散る。私は、春という季節があまり好きじゃない。築き上げてきた関係が一度リセットされ、また新たに構築しなければならない季節。それが、春、なのだから。
 ──今年は、変われるだろうか。

『じゃあ、教室行こうか』

 すっと視線を奪われる。柔和な笑みにいざなわれ、今日も私の一日が始まる。

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