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第二章:私の隠し事

『プールサイドの恋愛事情②』

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 僕、広瀬慎吾は、学校の友人らと六人で、屋内プールに来ているところだ。
 男女ともに三人ずつ。もっとも、ダブルデートとかそんな感じでは全然なくて、ちゃんと付き合っているのは手塚と美也くらいのものか。二人が交際している事実を最近知った身としては、二人の動向が気になってしょうがない。
 表向きは平静を装っているが、先程から内心は煮えくり返っているし、二人が上手くいかなければ良い、なんて願ったりもしてる。ほんと嫌な奴だよ僕は。
 そんななかでも、女子三人の水着姿に目が行ってしまうのは男の性というもので。
 美也が着ているのは青色のワンピースの水着。程よく膨らんだ胸としっかり割れた腹筋。鍛えられた肉体の中に女性らしい張りと質感を兼ね備えており、とにかく色っぽい。ビッチ女は場違いなビキニ姿で周辺の男の視線まで集めているし、桐原さんの水着姿も正直新鮮だった。
 彼女は比較的華奢な体格。相応に胸も大きくはないけれど、白いワンピースの水着姿は体の線までくっきり出るので妙に艶かしい。バランスの良い体躯も相まって目のやりどころに困ってしまう。
 そんな桐原さんは、今日もやたらと僕に懐いている。彼女は、まったくといってよいほど泳げないらしく、ずっと僕の腕にしがみつくようにして、プールの中を恐る恐る進んでいるところだ。
 一度だけウォータースライダーにも誘ってみたのだが、とんでもないと言わんばかりに首を振って否定した。それこそ、首が千切れんばかりに。
 まあそんなわけで、ずっとプールの中を歩いているのだ。そう、泳いでいるんじゃなくて歩いてる。ずっと僕にしがみついて。
 いや、足着くでしょ? と最初は僕も笑ってた。でも、耳が聞こえないうえ背が低い桐原さんの視点で見ると、多くの人で溢れ返ったプールの中はきっと怖いんだろうな、と思い直して、彼女のペースに任せておいた。

『ゆっくりでいいから、顔、浸けてごらん』

 僕に両手を握られたまま、そっと顔を水面に近づける桐原さん。両の瞼はきつく閉じられ、口元も硬く結ばれている。
 ぱしゃ、と顔が浸かる。
 瞬間的に顔を上げると、激しく咽る。
 ……いやいや、鼻から息を吸っちゃダメだよ。
 どうせ聞こえないだろうし、と大きな声を出して笑った。ところが、表情の変化から僕が笑ったことは理解したらしい。頬を膨らませて、拗ねたように口を尖らせる。
 ごめんごめん、と謝りながらも、桐原さんのそんな顔、初めて見たなと益々可笑しくなった。
 出し抜けに、僕は今とても幸せな瞬間を過ごしているのかな? と考えた。桐原さんはちっちゃいし、素直だし、とても可愛い。彼女と過ごしているこの時間が、とても愛おしくも思える。
 だが同時に、こうも考えずにはいられなかった。この時間を共有している相手が、手を握ってる相手が美也だったとしたら、どんなに良いだろうか、と。目の前にいる桐原さんを差し置いてそんなことを考えている自分が酷く後ろめたく思えて、そっと視線を逸らした。
 そんなことを考えながらプールの中を歩いているとき、突然桐原さんが、落ち着きなく視線を左右に彷徨わせた。いや、それだけではない。頬の辺りがほんのり紅潮しているし、身を捩る仕草をみせたりと歩く速度まで遅くなる。
 流石に様子がおかしい。『どうしたの?』と訊いてみた。
 すると彼女。一度僕の顔を見て、次に顔を逸らし、そのまた次に俯いて、しばらく硬直したのち気後れするように手話でこう伝えてきた。

『トイレに行きたい』

 一連の不自然な動向が腑に落ちると同時に、また可笑しくなった。本当にこの子ときたら、時々子供みたいだな、と感じてしまう瞬間がある。

『行ってくれば?』

 当然のように、そう告げた。ところが彼女、少し怒ったような眼で僕を睨むと、ゆっくりと水から上がってトイレに向かって行った。
 おかしいな……? 何か機嫌を損ねるようなことでも言ったかな?
 どこか釈然としないが、ずっと水に浸かっていたことで冷えてしまった体を意識すると、彼女が戻ってくるまで一旦プールから上がることにした。

「ふう……」プールサイドに腰かけ一つ息を漏らしたその時、「お疲れちゃん」と言いながら隣に相楽さんが座る。

 いや近いよ、と不満をのべる暇もなく、彼女は肌を密着させてくる。なんで益々寄るんだよ、という意思を視線にこめると、彼女は上目遣いで訊いてきた。

「慎吾君ってさ。もしかしてドーテー?」
「はあ」

 思わず溜め息がもれる。

「それとも、桐原ちゃんとセックスした?」
「してるわけないでしょ」
「ふーん、そう? 晩熟なのねつまんない。じゃあやっぱりド」
「あのね」と相楽さんの言葉を遮った。「そう訊ねられて、童貞ですって正直に答えるわけないでしょ?」

 抗議の意思をこめて相楽さんを睨むと、同時に豊満な胸の谷間が視界に入る。真っ赤なビキニの端から零れそうな横乳。僕が慌てて視線を逸らしたのを見て取ると、彼女がくすくす笑いを忍ばせる。
 完全に手玉に取られている。そんな自覚は確かにあるのに、上手くあしらうことができない自分がもどかしい。

「水着程度でドギマギしちゃって、お可愛い反応ですこと。それにです。直ぐ否定しなかったら、肯定しているようなものですのよ?」
「余計なお世話だよ」
「まあ、そうね。余計なお世話でしたね。本命のために大事に守ることも、良いことだと思いますわ」

 なんだよ、何が言いたいんだよ。からかいに来ただけなのか?

「ところで慎吾君って、桐原ちゃんの面倒見、良いのですわね」
「別にそんなんじゃ……。彼女は障害を持っている人だから、僕に何かできることがないかと考え、サポートしているだけのことだよ」
「ふ~ん、良い心がけですこと。でも、面倒だな、とか、鬱陶しい、とか思わないんですの?」
「最初は思ったよ。正直なところ、関わり合いになりたくないとも感じてた。でも桐原さんってああ見えて真面目だし、彼女の一生懸命な姿を見ていたら、そんなことを考えていた自分が、疎ましく思えてきたんだよ」
「なるほどねー」と彼女は独り言ちた。

 パシャっと足で水を叩いた後、僕の頬に触れそうなほど唇を寄せてくる。だから近いんだよと距離を遠ざけようとした矢先、僕にだけ聞こえる声量でこう言った。

「慎吾君は。桐原ちゃんのこと、どー思っているのかしら?」

 そう訊いてきた。それはもう、何気ない感じで。

「どう……って?」
「ど~んかんですわね。そんなもん、好意はありますの、って訊ねているに決まってるじゃありませんこと?」

 桐原さんのことを、恋人として面倒見ていく覚悟はありますの? 遠回しにそう訊かれているんだと理解して、僕は軽く狼狽えた。
 桐原さんのことを『異性』として捉えていること自体は明白だ。だからこそ、控えめながらも自己主張をする胸の膨らみに目がいってしまうし、ちっちゃなお尻に食い込んだ水着を直す仕草に見惚れてしまうし、また、彼女が白い水着を着てきたことで、透けたりしないだろうかと、周囲の視線に気を揉んだりしていたわけで。
 それでも、彼女を恋人として見ているか。こう問われるならば、やはり答えは否だろう。
 僕が桐原さんのことを心配し、大切な存在だと思っていること。向こうも僕のことを同じような目線で見てくれていること。どちらも間違いではないだろう。
 この気持ちに恋だとか、友情だとか、色々な呼び名をつけることは容易い。だが僕にとってそんなのはどうでも良いとすら思えた。
 僕は今、桐原さんと築いている関係、曖昧な距離感をとても心地いいと感じている。ここに不要な恋愛感情を持ち込むことで、二人の関係が壊れてしまうのが怖かった。
 だが、結論としてこれだけはハッキリ言える。桐原さんに対して思う好きと、美也に対して僕が抱く好きとでは、明らかに毛色が違っているんだ。
 しばらく沈黙が続いた。「それは」と言ったきり、言いよどんだ僕の様に、相楽さんがいよいよ呆れた口調で吐き捨てた。

「そこで答えに詰まるようじゃ困りますわね……。あなたがしっかりとした意思を持たないと、『彼女たち』を苦しめることになりますわよ? 中途半端な好意を寄せて期待させるのが、一番残酷なんですから」

 彼女がいうことも一理ある、どころか、むしろ正論だろうと思う。僕が美也に対して抱いている感情を相楽さんが心得ているのか、そこまでは定かじゃないが、桐原さんと今の関係を続けていく覚悟はあるのか、という彼女の問いに、情けなくも沈黙している事実は変わらない。
 僕は、桐原さんのことが好きなのか?
 自問自答が空回り。

「アタクシはこんな性格ですから? 誰かを好きだと感じれば声も掛けますし、そこに愛があれば肌も合わせます。けどそれも全て、愛があればこそですの。中途半端な気持ちでは近づきませんし、愛のないセックスなど致しません。……ですので、慎吾君を見ているとどこか煮え切らないようで心配になってしまいますの。お節介が過ぎるかもしれませんけど、まあ、そういうことですので」

 相楽さんの言葉がナイフのように僕の心を抉る。彼女の指摘は嫌味なほどに的を射ていて、全て僕が日々曖昧にしている内容だった。探られて痛い腹などないつもりだったが、どうやらそうではなかったらしい。
 結局、答えはみつからぬまま。

「わかってる。ちゃんと考えてるよ」

 と呻くように答えるのが精一杯。ちっとも働かなくなった頭で、美也と桐原さんのことばかり考え続けていた。

 * * *

 広瀬君に手を引かれプールの中を歩いていた最中。不覚にも私、桐原悠里は、尿意をもよおしてしまった。こうなるのが嫌だから、事前にトイレにも行っておいたのに。
 もう、やだ……。
 なんで……恥ずかしいな。
 これは、男の子にはわからない悩み。海やプールで遊んでいるとき、トイレに行きたくなるのは大事件だ。ワンピースの水着だと、途中から脱ぐとかずらすとかができないので、ほぼ脱がないと用を足せない。トイレで全裸。個室とはいえなんとなく抵抗がある。
 相良さんみたいなビキニだったら、ショーツを脱ぐだけでいいんだけど、そもそも私はビキニなんて着れるはずがない。そんなに恥ずかしくはないけれど、肌が汚くてとても他人には見せられないから。
 困ったなあ、と思いながらそわそわしていると、『どうしたの?』と広瀬君に訊ねられる。もうダメだ、白状するしかない。

『トイレ、行きたい』
『行ってくれば?』

 軽く言われた。
 それこそ、何の気なしに。
 もう……イヤ……
 ゆっくりプールから上がる。我慢し過ぎたことが原因で少し内またになりながら歩いていると、突然誰かが背後から私の肩を叩いた。驚いて顔を向けると、立っていたのは渡辺さんだ。
 彼女は私が向かっている先の方、プールの出口側を指差しながら軽くウインクをする。渡辺さんは当然ながら手話を使えない。だからアイコンタクトの他に意思疎通の手段がなかったが、たぶん、一緒にトイレ行こうと誘っているんだと思う。
 だから、こくこくと頷いておいた。
 渡辺さんは笑顔になり私の手を引いたから、たぶん、間違った解釈はしていない……はず。

 軽い力で握られた指先。少し先行して歩く渡辺さんの背中を落ち着きなく見つめた。
 じつのところ、私は渡辺さんのことが少し苦手。彼女は律や恭子とも友達なのだから、私の視点で見れば友人の友人に当たる間柄。それなのに、全く、と言って良いレベルで接点がなかった。
 むしろ、それだけならまだ良い。
 時々目が合うと、渡辺さんは私を見て瞳をすがめる。私は、他人から強い視線を向けられるのが、はっきり言って苦手だった。けれど、大抵の人が私に向けてくる感情は、好奇心、驚き、蔑み、そしてその大半は、無関心。
 だが、渡辺さんが向けてくる眼差しは少し毛色が違う。侮蔑とか蔑みとはまたちょっと違う。視線から感じられるのは、非難、あるいは苛立ちであったり怒りの感情。
 何より決定的なのは――彼女は私に対して、心の扉を開いていないこと。
 ゆえに、私は渡辺美也さんが苦手だった。

 トイレの前に辿り着くと、とりつくろうような笑みを浮かべて渡辺さんと別れる。羞恥心に耐えながら用を足し、手を洗っていたときだった。彼女がもう一度、私の肩を叩いてくる。
 渡辺さんは洗面所の上に設置されている大きな鏡に息を吐きかけて曇らせると、そこに指で何かを書き始める。どうやら、筆談をしようということらしい。
 緊張した面持ちで、書かれていく文字を見守った。

『きりはらさん、しんごのことすき?』

 驚いて顔を上げると、渡辺さんと目が合った。
 私の内面を暴こうとしているのだろうか。とても真剣な表情だ。どう答えるべきだろう、と暫し悩んだ末、彼女の真摯な瞳を見て嘘をつくべきではないと判断した。
 だから首を縦に振る。
 彼女がぱっと笑顔に変わる。
 良かった、と安堵したのも束の間、彼女が次に書き入れた文字で、私の思考が瞬時に凍り付く。

『わたしも、しんごのことすき』

 反射的に首を横に振った。
 とたんに、渡辺さんの顔が困惑の色に染まる。
 勘違いをされただろうか。彼女の意思を非難したと思われたんだろうか? 胸中に暗い感情が渦巻いていく。
 ああ、ヤダな。私はまた自分を卑下して、卑屈な感情に捉われている。
 呼吸が苦しい。心臓が今にも飛び出しそうだ。
 とにかく、渡辺さんに申し訳ないという思いだけがこみあげてくる。違うんです。広瀬君のことは友だちとして、そんな感じに弁解がましく首を横に振り続けた。
 怒っている、という感じではない。少し悲しそうな笑みを浮かべて渡辺さんは私の肩に手を置くと、最後の言葉を書き入れた。

『わたしに、えんりょしないで。これは、せんせんふこくだから』

 私の返答を受け取ることなく、渡辺さんは背を向ける。一度だけ振り返った彼女の茶褐色の瞳が、雄弁に物語る。

 ――負けないよ。

 その瞬間私は、宣戦布告――という言葉の意味を噛みしめる。

 ――重すぎるよ。

 私は「好き?」と問われて肯定したことを、ずっと後悔していた。どうして認めてしまったんだろう。気持ちを知られていなければ。渡辺さんの気持ちに気付いていなければ。暫くの間、楽しい夢を見られていたはずなのに。
 不相応な幸せを、たとえ一瞬でも願ってしまった罰なんだ。

(だって、勝てるわけないじゃない)

 情けない言葉ばかりが、泡沫のように浮かんでは消えていく。
 わかってる。渡辺さんは何も悪くないってこと。彼女はただ、自分の気持ちを私に伝えただけのこと。私を出し抜こうと思えばできるのに、そんな事はせず正々堂々と想いを告げてくれた。
 でも――

(渡辺さんは、私とは違う)

 また情けない言葉が、脳裏に浮かんだ。
 でも、その通りなんだ。渡辺さんと私とでは全然違うじゃないか。
 背も高いし、スタイルも良いし、胸だって大きいし、瞳だってパッチリしているし、スポーツ万能だし性格も明るいし、友だちも多いし、何よりも……
 ……気持ちを言葉にして伝えられる。
 まただ、また、嫌なことを考えている。
 誰も悪くなんてないのに、勝手に傷ついて、勝手に悲劇のヒロインぶってる。聴覚障害者であることを理由にして、私は諦めようとしている。いつも通りの弱気な自分。
 でも、やっぱり私と渡辺さんじゃ全然違うんだ。私じゃ勝てないよ。
 勝てるわけ、ないじゃん……
 結局、情けない台詞で思考を締めくくると、とたんに視界が滲んだ。胸中に浮かぶマイナス思考の言葉と溜め息の数が、私の無力さを痛感させる。
 そのままトイレの床にへたり込んだ。固くて冷たい床の感触が、私の心をじわじわと冷やしていった。
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