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時給980円の恋人(恋愛・ラブコメ)
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クリスマスイブのケーキ屋は戦場だ。
そりゃかき入れ時だからね? と思うかもしれないが、おそらく君が想像している以上にクリスマスのケーキ屋は忙しい。
ケーキの仕込みが始まる二十三日から地獄が始まり、それがイブである二十四日からクリスマス当日である二十五日まで続く。
クリスマスは二十五日の日没までなので、二十五日の午後にもなるとだいぶ落ち着いてくるのだが。
そんなわけで。
クリスマスイブである今日、ケーキ屋でアルバイトをしている私、沙月は目が回るような忙しさで文字通り目が回っていたわけで。
「沙月ちゃん! 人手が足りないからカウンターのほうヘルプ入ってくれない?」
「はーい、ただいま」
店長の声に応えて、レジで接客を始めた。
「イチゴのケーキとチーズケーキとチョコレートケーキと……」
早口だなあ、このお客さん。イチゴのケーキと一口に言っても、当店では三種の品ぞろえがあるんですけれどもねえ? ショートケーキとムースとタルトのどれのことなんですかねえ?
まあ、こんなのはよくあることだ。店内が混みあっていると特に注文の声が聞き取りづらくなるため、たくさんあるケーキの種類や名前を把握しておくのは必須だ。お客さんの視線の動きなどからどれを欲しがっているのか即座に判断し、わからなかったらちゃんと訊く! 店長から叩き込まれた接客のノウハウだ。
ケーキ屋の仕事は、店内の掃除と予約の確認から始まる。
朝からケーキの仕込み、仕上げを行い、ショーケースに並べていく。
開店は十時。ケーキの販売が始まるが、その間も店の裏ではケーキの仕込みが続いている。
社員とアルバイトの境なく、交代で適宜休憩を挟みつつ、持ち場を時々ローテーションしながら仕事は続く。作る。売れる。作る。売れる。という流れがどこまでも。クリスマス時期はこの流れに加えて、注文のケーキ作りや引き渡しが何度も挟まれる。端的に言って地獄なのだ。
忙しくてやりがいがある?
そうだね!?
営業は二十時まで。店を閉じても仕事はそこで終わりではなく、掃除、片付け、翌日の準備とまだまだ続くのです。
それらが全部済んだらようやくお仕事終了! また明日! となるわけだ。
「いやあ、それにしてもさ、店長も人使いが荒いよね。クリスマス時期は忙しいのがわかっているんだからさ、バイトを増やしてくれれればいいのに」
帰り支度をしながら、バイト仲間の如月君が言う。
鮮やかなサラサラとした茶髪に切れ長の瞳といかにもチャラそうな外見の彼だが、これで案外とマジメだ。遅刻も無断欠勤も一度もしたことがない。朝が弱くて起きられない私とは大違いだ。
いや、私も遅刻はしないけど。滅多に。頻繁には。そんなには。
「だよね」
「それかさ、給料上げてほしいよ。こんなに忙しいのに、今どき最低賃金でこき使おうという魂胆が信じられないねー」
なお、歯に衣着せぬ物言いだ。
「なんか言ったかー」
店の奥のほうから初老の店長の声が聞こえてくる。
「いいえー、きっと店長の空耳ですよー」
こういったやり取りも、お互いに認め合った上でやっている。勝手知ったるなんとやら、みたいな感じだ。
「うーわ、もう二十一時だ。すっかり遅くなっちゃいましたね」
「クリスマスイブだからね。しょうがないよ」
窓から外を見ると雪がちらついていた。明日までには積もるだろうか、とマフラーを巻きながら思う。
店を出ようとしたそのとき、店長が顔を出して私と如月君に声をかけてきた。
「おう、如月。お前、沙月ちゃんを家まで送っていってやれや」
「へ? あ、いや、いいですよ。私ん家、ここから徒歩十五分くらいですし」
「それでもだ。暗い夜道の女の子の一人歩きは危ねえんだよ」
「あれ? ここの店に女の子なんていましたっけ?」
「失礼だなあ。性別のカテゴリーで言ったらかろうじて女です。確かに、君より私のほうがふたつ年上だけど、それをネタに年増扱いしてくるなんて生意気なのよ!」
私は大学三年生。如月君はまだ一年生だ。
「ああ、なるほど」
如月君が、手のひらの上で拳をポン、と打つ。
「女の子かどうかはともかくとして、一応女性でしたか」
「そういうところなんだよなー」
「つべこべ言ってねえで、送ってやれ」
「へいへい。んじゃ、行きましょうか。大人の女性の沙月さま」
「なんかいちいち角が立つんだよなあ」
如月君と小突き合いながら店を出た。
見上げた空は、満点の星空だ。オリオン座がくっきりと浮かび上がっていて、いつもより空気が澄んでいる気がした。
ひと気のない住宅街を歩いていく。私は徒歩で。如月君は自転車を押して。
「いや、ほんと悪いね。送ってもらったりなんかして。本音を言うとさ、最近物騒な事件が多くて少し怖かったんだ」
このすぐ近くというわけではないが、高校生の女の子が路上で痴漢にあったとか、大学生の女の子がストーカー行為にあったという事件が実際にあった。
それを知っていて、店長は声をかけてくれたのかもしれない。
「いえいえ、いいってことですよ」
あ、そう言えば、と如月君が考え込む仕草をする。
「このまままっすぐ家に帰っちゃって大丈夫でした?」
「どういうこと?」
「いえ。ほら……今日ってクリスマスイブじゃないですか。なんか用事とかあったんじゃないかなーって」
ああ、そういう。
「そんな用事があったらさ、今日のシフト誰かと変わってもらっているよ」
「ははは、それもそうでしたね。愚問でした」
「そういう君だって一人もんでしょ」
「いや、俺は……」
そこまで言って、如月君が口ごもる。
「あれ? 日程が合わなかっただけで、実は彼女さんいた?」
如月君の見た目は優男風だし女の子にはモテそうだ。彼女の一人や二人いても不思議じゃない。ぶっちゃけ私も、結構かっこいいな、とは思っている。
「いないです。今は」
「今は? 妙な予防線張っちゃって可愛いねー」
「からかわないでください」
「うふふ。そうだね。寂しい者同士仲良くしようねー」
「不本意だ……」
ん? と如月君が首をかしげる。
「と言うことは、沙月さんも彼氏とかいないんですね」
「この話の流れでいるわけないでしょ」
胸を張っては言えないけど、二十一年間いたことないよ!
「寂しい者同士、仲良くしましょうね」
「改めて言われるとなんかムカつく」
「明日も仕事かー」
「今日よりは忙しくならないだろうから、いくらかマシでしょ」
「ですねー」
そこでしばらく会話が途切れた。隣で彼がなにやらぶつぶつ言っている気がしたが、声が小さすぎて何を言っているのかわからない。
私も、これといって振る話題がない。
沈黙が気まずく感じられてきて、何か言わなくちゃ、と考えて、「そういえばさ」と二人の声がそろって思わず苦笑い。
「あ、ごめん。いいよ、如月君から先に言って」
そうですか? と彼が言う。
「沙月さんって、ケーキ作るの好きなんスか?」
「いや。そんなに好きではないかなあ。家でも時々お菓子作りとかするけど、好きかと問われたらそこまでじゃない。ん、どうして?」
「えーと、どうしてケーキ屋でアルバイトしているのかなって思って。時給が良いから、ではないですよね?」
「まあね。時給980円だしね。そういう如月君はどうして?」
「俺はね、将来パティシエになりたいんですよ」
「へえ、なんか意外」
「意外は余計です」と如月君が笑う。
パティシエか。確かに、彼がケーキ作りをしているときの手際はとても良い。手先が器用なんだなーと思っていたけれど、それだけじゃなかったんだ。ちゃんとした目標があって頑張っているからなんだ。
突然ケーキ作りに目覚めたこと。そのことで、四年生大学ではなく専門学校に通っておけば良かったと後悔していること。将来を考えて、今はケーキ屋でアルバイトをしていることなどを彼が理路整然と語っていく。
「そっか。いい夢だね」
私は、どうなんだろう。
降り方が強くなってきた雪を見ているうちに思い出したことがあった。思えばあの日も、今日みたいな雪がちらつく日だったと記憶している。
「私がケーキ屋でアルバイトをしているのは、父さんの影響かもしれないなあ」
「沙月さんの父親って、パティシエだったんスか?」
「ううん、全然違うよ。それから、私の父さん、もう死んでいないんだ」
隣の端正な顔が、ごくりと喉を鳴らした。
「ああ、ごめん。湿っぽい話になるんだけど、聞く?」
「聞きたいです」
私の父が亡くなったのは、私が小学生のときだった。ちょうど今日みたいな雪がちらついている日だったと記憶している。
私はまだ、十歳かそこらの年齢で、正直、あまり聞き分けの良い子どもではなかったと思う。
クリスマスを前にした十二月の中旬。父が緊急入院をした。血管に腫瘍ができる病を突如として発症して、家の中で倒れて救急車で搬送されたのだ。
うちは、両親と私の三人暮らしだったので、それから母は父の看病と対応に追われることになる。家と病院とを行き来する毎日で、とてもじゃないがクリスマスにケーキを買ってゆっくり食べる、なんて余裕はなかったのだ。
母が大変なのはわかっていた。それでも、幼い心では納得できていなくて、そのことでだいぶショックを受けていた。
すっかり拗ねてしまった私は、父の病院にお見舞いに行っても父と口ひとつ聞かなかった。
お父さんが急に倒れるから、クリスマスケーキを食べられなかった。
誰々ちゃんの家は盛大にパーティをしたのに! などと言っては母を困らせたのだ。
でも、本当に困っていたのは父のほうだったろうな、と思う。病室から動くことができない。娘は病室の中にほとんど入って来ないし、入って来たとしてもろくに目を合わせてもくれないのだから。
「たぶんね。私は物事を軽く考えていたんだよ。お父さんを困らせたくて、というよりは、気を引きたくて拗ねているようなところがあったし、今は病院にいるけれども、そのうち元気な顔で帰ってくるものだとばかり思っていたから」
結局、父が家に戻ってくることはそれきりなかった。
そのとき発見された場所以外にも腫瘍ができていたみたいで、一ヶ月くらいしたら容態が急変してそのまま亡くなってしまった。父と仲直りができないまま、今生の別れになってしまったんだ。
「だからかな。ケーキ屋でアルバイトをしているのは。クリスマスの夜に一人でいるとさ、いろいろ考えちゃって怖くなるんだ。私がつまらない意地を張ったせいで、父さんは辛い気持ちを抱えたまま天国に行ってしまったのかな、とか、そういうことを。でも、人が多いところにいれば、そういうの、あまり考えずに済むから」
そのとき、如月君が私の手を握った。
大丈夫ですよ、とでも言うように。
硬くて、大きくて、でもちょっとだけ繊細な指先で。悔しいけれども男の子って感じがした。それに、温かい。
驚いたけれども、そのままにしておいた。
「幸せそうな顔でケーキを買っていく人たちを見ていると、少しだけ安心できるの。私がケーキを売ることで、誰かが幸せになってくれていると思うと満たされるっていうか。昔のことを、そのときばかりは忘れられるっていうか」
「素敵な話じゃないですか。そのときは辛かったかもしれないですけれども、それが巡り巡って、今、沙月さんがあの店で働いているんだと思えば。それだって、奇跡みたいなものですよ」
「そうだね」
冷たい夜風が目に染みた。
自分が泣いていることに気づいて慌てて目元を指で拭う。
この、父にまつわるエピソードがもしなければ、君とも店長とも出会えていなかったってことだからね。確かにこれは、ある意味運命であり奇跡でもあるのかもしれない。
私の部屋があるアパートの前に着いた。
あれ? そういや私、如月君に何を訊こうとしていたんだっけ?
ああ……如月君に好きな人がいるのかどうかだ。こんな湿っぽい空気になったあとじゃ訊けないなあ。またあとにしよっと。
「じゃあ、また明日。送ってくれてありがとう」と言って背を向けた。
「あの」
「うん?」
呼ばれて振り返ると、もう一度手を握られる。強引に何かをつかまされて、なんだろうと手を開いて見ると、硬貨だった。ちょうど980円分。
「なにこれ?」
「沙月さん。俺、そのうち絶対に自分の店持ちますんで、そしたら、うちの店で働いてもらえませんか?」
「時給980円で?」
苦笑いをすると、彼が盛大にうろたえた。
「あっ、いえ! それはその……、とりあえず今日一時間だけ、沙月さんの時間を売ってもらえないかなって思って」
私の、時間を?
「一日忙しかったから、化粧は汗で流れているし、髪の毛もボサボサだけど、いいのこんな私で?」
「そんなの全然関係ないっス」
「けれど、私こんなに安い女じゃないよー?」
「あ……ですよね。あといくら払えばいいっスか?」
マジメな顔でそんなこと言うもんだから、おかしくなってしまう。本気なのか冗談なのか、どっちなのよ。
あはは、とひとしきり笑ったあとで、「一時間だけで足りるの?」 と問うと、彼がちょっと困った顔をした。
「部屋、寄っていくでしょ?」
「はい」
夜は静かにふけていく。
メリークリスマス、と懐かしい父の声が聞こえた気がした。
そりゃかき入れ時だからね? と思うかもしれないが、おそらく君が想像している以上にクリスマスのケーキ屋は忙しい。
ケーキの仕込みが始まる二十三日から地獄が始まり、それがイブである二十四日からクリスマス当日である二十五日まで続く。
クリスマスは二十五日の日没までなので、二十五日の午後にもなるとだいぶ落ち着いてくるのだが。
そんなわけで。
クリスマスイブである今日、ケーキ屋でアルバイトをしている私、沙月は目が回るような忙しさで文字通り目が回っていたわけで。
「沙月ちゃん! 人手が足りないからカウンターのほうヘルプ入ってくれない?」
「はーい、ただいま」
店長の声に応えて、レジで接客を始めた。
「イチゴのケーキとチーズケーキとチョコレートケーキと……」
早口だなあ、このお客さん。イチゴのケーキと一口に言っても、当店では三種の品ぞろえがあるんですけれどもねえ? ショートケーキとムースとタルトのどれのことなんですかねえ?
まあ、こんなのはよくあることだ。店内が混みあっていると特に注文の声が聞き取りづらくなるため、たくさんあるケーキの種類や名前を把握しておくのは必須だ。お客さんの視線の動きなどからどれを欲しがっているのか即座に判断し、わからなかったらちゃんと訊く! 店長から叩き込まれた接客のノウハウだ。
ケーキ屋の仕事は、店内の掃除と予約の確認から始まる。
朝からケーキの仕込み、仕上げを行い、ショーケースに並べていく。
開店は十時。ケーキの販売が始まるが、その間も店の裏ではケーキの仕込みが続いている。
社員とアルバイトの境なく、交代で適宜休憩を挟みつつ、持ち場を時々ローテーションしながら仕事は続く。作る。売れる。作る。売れる。という流れがどこまでも。クリスマス時期はこの流れに加えて、注文のケーキ作りや引き渡しが何度も挟まれる。端的に言って地獄なのだ。
忙しくてやりがいがある?
そうだね!?
営業は二十時まで。店を閉じても仕事はそこで終わりではなく、掃除、片付け、翌日の準備とまだまだ続くのです。
それらが全部済んだらようやくお仕事終了! また明日! となるわけだ。
「いやあ、それにしてもさ、店長も人使いが荒いよね。クリスマス時期は忙しいのがわかっているんだからさ、バイトを増やしてくれれればいいのに」
帰り支度をしながら、バイト仲間の如月君が言う。
鮮やかなサラサラとした茶髪に切れ長の瞳といかにもチャラそうな外見の彼だが、これで案外とマジメだ。遅刻も無断欠勤も一度もしたことがない。朝が弱くて起きられない私とは大違いだ。
いや、私も遅刻はしないけど。滅多に。頻繁には。そんなには。
「だよね」
「それかさ、給料上げてほしいよ。こんなに忙しいのに、今どき最低賃金でこき使おうという魂胆が信じられないねー」
なお、歯に衣着せぬ物言いだ。
「なんか言ったかー」
店の奥のほうから初老の店長の声が聞こえてくる。
「いいえー、きっと店長の空耳ですよー」
こういったやり取りも、お互いに認め合った上でやっている。勝手知ったるなんとやら、みたいな感じだ。
「うーわ、もう二十一時だ。すっかり遅くなっちゃいましたね」
「クリスマスイブだからね。しょうがないよ」
窓から外を見ると雪がちらついていた。明日までには積もるだろうか、とマフラーを巻きながら思う。
店を出ようとしたそのとき、店長が顔を出して私と如月君に声をかけてきた。
「おう、如月。お前、沙月ちゃんを家まで送っていってやれや」
「へ? あ、いや、いいですよ。私ん家、ここから徒歩十五分くらいですし」
「それでもだ。暗い夜道の女の子の一人歩きは危ねえんだよ」
「あれ? ここの店に女の子なんていましたっけ?」
「失礼だなあ。性別のカテゴリーで言ったらかろうじて女です。確かに、君より私のほうがふたつ年上だけど、それをネタに年増扱いしてくるなんて生意気なのよ!」
私は大学三年生。如月君はまだ一年生だ。
「ああ、なるほど」
如月君が、手のひらの上で拳をポン、と打つ。
「女の子かどうかはともかくとして、一応女性でしたか」
「そういうところなんだよなー」
「つべこべ言ってねえで、送ってやれ」
「へいへい。んじゃ、行きましょうか。大人の女性の沙月さま」
「なんかいちいち角が立つんだよなあ」
如月君と小突き合いながら店を出た。
見上げた空は、満点の星空だ。オリオン座がくっきりと浮かび上がっていて、いつもより空気が澄んでいる気がした。
ひと気のない住宅街を歩いていく。私は徒歩で。如月君は自転車を押して。
「いや、ほんと悪いね。送ってもらったりなんかして。本音を言うとさ、最近物騒な事件が多くて少し怖かったんだ」
このすぐ近くというわけではないが、高校生の女の子が路上で痴漢にあったとか、大学生の女の子がストーカー行為にあったという事件が実際にあった。
それを知っていて、店長は声をかけてくれたのかもしれない。
「いえいえ、いいってことですよ」
あ、そう言えば、と如月君が考え込む仕草をする。
「このまままっすぐ家に帰っちゃって大丈夫でした?」
「どういうこと?」
「いえ。ほら……今日ってクリスマスイブじゃないですか。なんか用事とかあったんじゃないかなーって」
ああ、そういう。
「そんな用事があったらさ、今日のシフト誰かと変わってもらっているよ」
「ははは、それもそうでしたね。愚問でした」
「そういう君だって一人もんでしょ」
「いや、俺は……」
そこまで言って、如月君が口ごもる。
「あれ? 日程が合わなかっただけで、実は彼女さんいた?」
如月君の見た目は優男風だし女の子にはモテそうだ。彼女の一人や二人いても不思議じゃない。ぶっちゃけ私も、結構かっこいいな、とは思っている。
「いないです。今は」
「今は? 妙な予防線張っちゃって可愛いねー」
「からかわないでください」
「うふふ。そうだね。寂しい者同士仲良くしようねー」
「不本意だ……」
ん? と如月君が首をかしげる。
「と言うことは、沙月さんも彼氏とかいないんですね」
「この話の流れでいるわけないでしょ」
胸を張っては言えないけど、二十一年間いたことないよ!
「寂しい者同士、仲良くしましょうね」
「改めて言われるとなんかムカつく」
「明日も仕事かー」
「今日よりは忙しくならないだろうから、いくらかマシでしょ」
「ですねー」
そこでしばらく会話が途切れた。隣で彼がなにやらぶつぶつ言っている気がしたが、声が小さすぎて何を言っているのかわからない。
私も、これといって振る話題がない。
沈黙が気まずく感じられてきて、何か言わなくちゃ、と考えて、「そういえばさ」と二人の声がそろって思わず苦笑い。
「あ、ごめん。いいよ、如月君から先に言って」
そうですか? と彼が言う。
「沙月さんって、ケーキ作るの好きなんスか?」
「いや。そんなに好きではないかなあ。家でも時々お菓子作りとかするけど、好きかと問われたらそこまでじゃない。ん、どうして?」
「えーと、どうしてケーキ屋でアルバイトしているのかなって思って。時給が良いから、ではないですよね?」
「まあね。時給980円だしね。そういう如月君はどうして?」
「俺はね、将来パティシエになりたいんですよ」
「へえ、なんか意外」
「意外は余計です」と如月君が笑う。
パティシエか。確かに、彼がケーキ作りをしているときの手際はとても良い。手先が器用なんだなーと思っていたけれど、それだけじゃなかったんだ。ちゃんとした目標があって頑張っているからなんだ。
突然ケーキ作りに目覚めたこと。そのことで、四年生大学ではなく専門学校に通っておけば良かったと後悔していること。将来を考えて、今はケーキ屋でアルバイトをしていることなどを彼が理路整然と語っていく。
「そっか。いい夢だね」
私は、どうなんだろう。
降り方が強くなってきた雪を見ているうちに思い出したことがあった。思えばあの日も、今日みたいな雪がちらつく日だったと記憶している。
「私がケーキ屋でアルバイトをしているのは、父さんの影響かもしれないなあ」
「沙月さんの父親って、パティシエだったんスか?」
「ううん、全然違うよ。それから、私の父さん、もう死んでいないんだ」
隣の端正な顔が、ごくりと喉を鳴らした。
「ああ、ごめん。湿っぽい話になるんだけど、聞く?」
「聞きたいです」
私の父が亡くなったのは、私が小学生のときだった。ちょうど今日みたいな雪がちらついている日だったと記憶している。
私はまだ、十歳かそこらの年齢で、正直、あまり聞き分けの良い子どもではなかったと思う。
クリスマスを前にした十二月の中旬。父が緊急入院をした。血管に腫瘍ができる病を突如として発症して、家の中で倒れて救急車で搬送されたのだ。
うちは、両親と私の三人暮らしだったので、それから母は父の看病と対応に追われることになる。家と病院とを行き来する毎日で、とてもじゃないがクリスマスにケーキを買ってゆっくり食べる、なんて余裕はなかったのだ。
母が大変なのはわかっていた。それでも、幼い心では納得できていなくて、そのことでだいぶショックを受けていた。
すっかり拗ねてしまった私は、父の病院にお見舞いに行っても父と口ひとつ聞かなかった。
お父さんが急に倒れるから、クリスマスケーキを食べられなかった。
誰々ちゃんの家は盛大にパーティをしたのに! などと言っては母を困らせたのだ。
でも、本当に困っていたのは父のほうだったろうな、と思う。病室から動くことができない。娘は病室の中にほとんど入って来ないし、入って来たとしてもろくに目を合わせてもくれないのだから。
「たぶんね。私は物事を軽く考えていたんだよ。お父さんを困らせたくて、というよりは、気を引きたくて拗ねているようなところがあったし、今は病院にいるけれども、そのうち元気な顔で帰ってくるものだとばかり思っていたから」
結局、父が家に戻ってくることはそれきりなかった。
そのとき発見された場所以外にも腫瘍ができていたみたいで、一ヶ月くらいしたら容態が急変してそのまま亡くなってしまった。父と仲直りができないまま、今生の別れになってしまったんだ。
「だからかな。ケーキ屋でアルバイトをしているのは。クリスマスの夜に一人でいるとさ、いろいろ考えちゃって怖くなるんだ。私がつまらない意地を張ったせいで、父さんは辛い気持ちを抱えたまま天国に行ってしまったのかな、とか、そういうことを。でも、人が多いところにいれば、そういうの、あまり考えずに済むから」
そのとき、如月君が私の手を握った。
大丈夫ですよ、とでも言うように。
硬くて、大きくて、でもちょっとだけ繊細な指先で。悔しいけれども男の子って感じがした。それに、温かい。
驚いたけれども、そのままにしておいた。
「幸せそうな顔でケーキを買っていく人たちを見ていると、少しだけ安心できるの。私がケーキを売ることで、誰かが幸せになってくれていると思うと満たされるっていうか。昔のことを、そのときばかりは忘れられるっていうか」
「素敵な話じゃないですか。そのときは辛かったかもしれないですけれども、それが巡り巡って、今、沙月さんがあの店で働いているんだと思えば。それだって、奇跡みたいなものですよ」
「そうだね」
冷たい夜風が目に染みた。
自分が泣いていることに気づいて慌てて目元を指で拭う。
この、父にまつわるエピソードがもしなければ、君とも店長とも出会えていなかったってことだからね。確かにこれは、ある意味運命であり奇跡でもあるのかもしれない。
私の部屋があるアパートの前に着いた。
あれ? そういや私、如月君に何を訊こうとしていたんだっけ?
ああ……如月君に好きな人がいるのかどうかだ。こんな湿っぽい空気になったあとじゃ訊けないなあ。またあとにしよっと。
「じゃあ、また明日。送ってくれてありがとう」と言って背を向けた。
「あの」
「うん?」
呼ばれて振り返ると、もう一度手を握られる。強引に何かをつかまされて、なんだろうと手を開いて見ると、硬貨だった。ちょうど980円分。
「なにこれ?」
「沙月さん。俺、そのうち絶対に自分の店持ちますんで、そしたら、うちの店で働いてもらえませんか?」
「時給980円で?」
苦笑いをすると、彼が盛大にうろたえた。
「あっ、いえ! それはその……、とりあえず今日一時間だけ、沙月さんの時間を売ってもらえないかなって思って」
私の、時間を?
「一日忙しかったから、化粧は汗で流れているし、髪の毛もボサボサだけど、いいのこんな私で?」
「そんなの全然関係ないっス」
「けれど、私こんなに安い女じゃないよー?」
「あ……ですよね。あといくら払えばいいっスか?」
マジメな顔でそんなこと言うもんだから、おかしくなってしまう。本気なのか冗談なのか、どっちなのよ。
あはは、とひとしきり笑ったあとで、「一時間だけで足りるの?」 と問うと、彼がちょっと困った顔をした。
「部屋、寄っていくでしょ?」
「はい」
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