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第二章「霧島七瀬」
【もう私たち、ずっとシテいない】
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涼しい夜風が、頬を撫でていく。背中まである髪の毛を踊らせながら、重い買い物袋を片手にアパートまでの道を足早に歩いた。
九月に入ったばかりなのだし、まだまだ残暑が厳しいだろうと高をくくっていたが、今年はどうやら秋の訪れが早いらしい。白のニットシャツの上から羽織ったカーディガンの胸元を、無意識のうちに左手で握った。
アパートの入口を潜って一息つくと、左手がわにある屋内階段を上って一番手前の部屋、210号室の扉を開けた。
「ただいまぁ」
これはまずい。少々気落ちした声になったな、と反省する。
だが、自宅の中から返事はなく、代わりに聞こえてきたのは、軽やかなコンピューターミュージックと打鍵音。
リビングに入ると、ヘッドフォンを耳に嵌め、パソコンの画面を注視している部屋着の彼──月輪景の姿が見えた。私が帰って来たことにも全く気づいていない。
どうせ今日も一日中、ゲームをしていたんだろう。だがもはや落胆はない。またか、と思うだけだ。
買い物してきた荷物をキッチンダイニングのカウンターに置くと、ようやく気がついたのか、「おかえり」と振り返ることもなく彼が言った。
「今日の晩飯ってなに?」
「トンカツだよ」
「やった、美味しそう」
ようやくこちらに向いた景の瞳は輝いていて、まるで少年のようだ。
「とはいっても、出来合の惣菜だよ?」
「いいよ。大丈夫、大丈夫」
相変わらず些事に拘らないんだね、とつい笑ってしまう。こういう無邪気なところは昔と何も変わんないし、可愛いなって思うんだけどね。
「あ、明日なんだけどさ。飲み会があるんで七時くらいに家を出る」
夕食の準備をするためキッチンに立っているとき、背中から景の声がした。煙草を吸う目的だろうか。部屋の窓が少し開いていて、ひゅう、と吹き込んできた外気が、彼の長めの前髪を軽く揺らした。
「そうなの? どこで飲むの?」
「国分町」
まあ、大体そこかな。夕食をテーブルの上に並べながら「誰と?」とさり気無く問いかけると、「昔の同級生。ほら、この間、同窓会があったでしょ? そっちの繋がり」と紫煙を吐き出しながら彼が答えた。
景は一日中ゲームしていたし同窓会出てないじゃん。喉元まで出かかった皮肉をごくんと飲み干した。
同級生とはいっても、二通り考えられた。私もよく知っている、小学生からの古い知り合いか。もしくは、櫻野学園に進学してからできた、遠方の友人までを呼んだ集まりか。後者だとしたら、私の知らない顔も含まれていそうだ。
このへん曖昧にして語らないのがいかにも景らしいが、もうすでに慣れっこだ。私だって飲み会は行かせてもらっているし、別に不満を言うつもりはない。
別に、どんなメンバーでもいいし。女の子も同席するんだろうけど、それすらもどうでもいい。なんて。
――それはないか。
心の奥底に芽生えた焼けるような痛みが、私の強がりを否定した。
「ご馳走様でした」美味しそうにトンカツを平らげた景に訊ねてみる。「ビール買ってきたけど、飲む?」
ビールというか、発泡酒なんだけど。私の給料以外に安定した収入が無いのだから、出費はなるべく抑える必要があった。
「ん~……。いや、やめとく。あとで飲むから冷蔵庫ん中入れといて」
「うん。わかった」
あとで、という返事で、今日は遅くまでオンライン・ゲームをするんだろうなと得心した。以前彼が説明してくれた、『臨時公平パーティー』とかいうものに参加するのかもしれない。
『臨時公平パーティー』とは、同じゲームをしている遠方の同志らとグループを作って共同作業を云々かんぬんと以前熱弁されたが、正直私にはよくわからない。
「さてと」と言いながら再び煙草に火を点けると、パソコンの前に座ってヘッドフォンをつける彼。煙草の量が増えたのは気がかりだが、過度な音漏れを気にするようになったのは有り難い。隣部屋から苦情が飛んできたことが、多少は堪えたのかもしれない。
一人寂しく発泡酒を空け、スローペースで飲んでいるうちに、彼の心はすっかりゲームの世界に旅立ってしまった。
「夏休み明けにさ、隣町の小学校と野球の交流試合をしてるじゃない? その試合でね、うちの小学校九年ぶりに勝ったんだよ。ねえ、凄くない?」
学校で私がマネージャーを兼任している、野球クラブの話題をふってみた。だが、彼が相槌を打つ気配はない。
「春頃に試合見に行ったの覚えてる? あの時とは戦力が見違えていてね。きっと、新しく招へいしたコーチの腕がいいのかも」
懲りずに話し続けてみるが、上の空どころか彼の視線は一度もこちらに向かない。口を噤んだとたんに喉が奇妙な乾きをうったえて、発泡酒の残りをぐいっと流し込んだ。
彼の関心ごとは、今宵、優秀なパートナーが見つかるかどうかにしかないのだ。
──私。昨日の夜ね、別の男と寝ちゃったかも。
言いかけて、ぐっと飲み干す。朝帰りした私の行動確認を、全然彼がしないことを、存外にも辛いと感じているらしい。
ねえ。私、嫉妬してるんだよ?
景が他の女の子と楽しそうに飲むのかな、談笑するのかなって思うと、嫉妬してるんだよ?
──あなたは、どうなの?
帰ったら、謝罪しようと思っていた言葉も、湧きあがってくる不満や愚痴も、心のなかでだけ弾けて消えた。私の気持ちは彼に届かないし、もちろん振り返ってもくれない。
「先に寝るね」
空き缶を片手に、一応声をかけてから立ち上がる。忙し気にマウスをクリックしていた手が止まり、気だるげな双眸がこちらに向いた。
「どした?」
「明日も早いから、寝る。あんまり遅くならないようにね」
「……ああ、わかってる。おやすみ」
「うん、おやすみ」
本当にわかっているのかな、と思いながらも、ひらひらと手を振ってキッチンに移動する。シンクの中に放置していた洗い物を片付けてから、寝室に入った。
布団の中に潜りこんで消灯した。彼がキーボードを叩いている音が、壁一枚隔てた先から聞こえてくる。
なんとなく体がムズムズして寝返りを打つと、衣擦れの音が嫌味なほど静寂のなか響いた。そういえば私たち、しばらくシていない。そんなことを考え悶々としてしまう自分が、
「ヤダなあ……」って思う。
景と付き合い始めたのは高校一年の秋。あれからもう、五年になるだろうか。
私と景は、学区は違ってこそいたものの、小学校のころから同級生。中学も、高校までエスカレーター式の私立に進学したため、ずっと一緒だった。ごく自然と話す機会が増え、仲良くなった。
バス停から学校までの道のりを毎日一緒に歩いているうちに、いつの間にか好きになって、私のほうから告白した。彼も私に好意を抱いていたらしく、そのまま交際がスタートした。
初体験は、高二の初夏。場所は彼の部屋。
家族に音を聞かれちゃうんじゃないかと心配で、凄くドキドキしていたのを昨日の事のように覚えている。
私は見た目が派手なので、男性経験も豊富なんだろうと誤解されがちだが、経験人数は一人だけ。景以外の男とセックスをしたことはない。
高校を卒業したあと、私たちはしばらく遠距離恋愛になった。
教師になる夢を叶えるため、私は東京にある短期大学へと進学。彼は小説家になる夢を叶えるため、自宅で執筆を続けながらアルバイトを繰り返す日々。
数年とはいえ、離れ離れだった時間は寂しさを募らせた。私が小学校教諭二種免許を取得して地元小学校への勤務が決まると、どちらからともなく同棲しようという意見がでて、私の卒業を待たずにこの部屋を借りた。
自宅から一駅先。駅から徒歩五分の場所にあるアパートの2DK。カウンターテーブルのあるキッチンダイニングに、ソファーとテーブルを置いたリビング。あとは、ダブルベッドのある寝室がひとつ。
好きな人と一緒に暮らす毎日って、どんなに楽しくて幸せなものなんだろうと、期待に胸を膨らませていた。
だが、覚悟はしていたものの、教師という仕事は想像以上にハードだ。
仕事を自宅まで持ち帰ることもざらにあるし、休日だって思うように取れない。
だからこそ、デートはまめにした。週末は美味しいものを食べに行こうよ。毎日同じベッドで眠ろうよ。気に入った家具を揃えてさ、自分たちの好みに部屋をコーディネートしようよ。お揃いの服を着て外出しようか。あの小説が映画化されたんだって、公開日に観に行こうよ。それはもう、色んな話を二人でした。
楽しかった日々は、半年も続かなかった。
時刻を確認すると、深夜〇時だった。「眠れない」と呟き、ひとりきりのダブルベッドで天井を見上げる。
景が書く小説はわりと好きだ。
それまで小説を読む習慣のなかった私が、忙しい仕事の合間をぬって、純文学なんてものを読むようになったのも間違いなく彼の影響だ。
景の小説はやや癖が強い独特の文体ながら、比喩表現が巧みで、なだらかに連なる長文と短文の使い分けも見事だ。
そのうちに、受賞してデビューする日がやってくるだろうと私は確信している。
──今でも。
だが、現実はそこまで甘くない。
彼が応募する小説は、これまで何度か最終選考まで進んだものの、そこでことごとく落選を続けた。
どんなに惜しかろうと、結果が紙一重だろうと、受賞しなければ作家への道は開かない。
最近はペンを握ることも殆どなくなって、四六時中ゲームをしている毎日。六月まで務めていた居酒屋のバイトを辞めてしまうと、仕事をする意欲までなくしてしまったようだ。
執筆用だったはずのパソコンは、気がつけばゲーム専用機と化していた。
職業柄私は夜しか家にいなかったし、主として深夜に勤務していた彼とはすれ違いの毎日が続いていた。
それが、悪かったのだろうか? とはいえ、帰宅したのち顔を合わせるようになった今でも、会話が増えたとは思えない。同じタイミングでベッドにはいることも殆どなくなった。
同棲を始めた当時は、手の込んだ料理を作ると、もっと喜んでくれたように思う。『美味しいね』と食事をしながら言ってくれたのが、いつの話だったのか思い出せない。
喜んでもらえないと、作る楽しさも半減してしまう。そんなわけで最近は、惣菜で手抜きをする日が増えた。
今日はリアクションとしてマシな方だが、あの程度で喜べるほど、私だって無垢じゃない。
景のことは、今でももちろん好き。だからこそこんなに悩んでいる。彼の性格や生活習慣もひっくるめて好きになったつもりだったし、今さら文句を言うつもりもない。
いや、『なかった』というべきだろうか。
過剰な束縛をせずに自由に生きている私たちを、『羨ましいね』と学校の先生たちによく言われる。でも同時に、『霧島先生の彼氏って、ヒモなの?』と囁かれていることも知っている。
こう思いたくはないが、同棲生活が諸悪の根源だ。同棲しなければ、彼の汚い部分を見ずに済んだし、私もずっと恋する乙女でいられた。一緒にいる時間が長いからこそ、お互いを大事にできなくなったんだ。
「はあ、くだらない」布団に顔を埋めて、固く瞳を閉じた。
あんな手紙を読んだから、悪いことばかり考えてしまうんだ。忘れていたはずの初恋とか嫌いだった昔の自分を思い出すと、心の芯まで冷え込んでいくようだ。
――菫。
もう何年も会っていない、親友の顔が脳裏に浮かんだ。彼女を差し置いて、私だけ幸せになっちゃいけないよ、ということなのかな。
咲いた向日葵のように笑んだ彼女の姿が、私の胸をちくりと痛ませる。あの日、彼女に嘘をついた私が、記憶の中で笑って泣いた。
九月に入ったばかりなのだし、まだまだ残暑が厳しいだろうと高をくくっていたが、今年はどうやら秋の訪れが早いらしい。白のニットシャツの上から羽織ったカーディガンの胸元を、無意識のうちに左手で握った。
アパートの入口を潜って一息つくと、左手がわにある屋内階段を上って一番手前の部屋、210号室の扉を開けた。
「ただいまぁ」
これはまずい。少々気落ちした声になったな、と反省する。
だが、自宅の中から返事はなく、代わりに聞こえてきたのは、軽やかなコンピューターミュージックと打鍵音。
リビングに入ると、ヘッドフォンを耳に嵌め、パソコンの画面を注視している部屋着の彼──月輪景の姿が見えた。私が帰って来たことにも全く気づいていない。
どうせ今日も一日中、ゲームをしていたんだろう。だがもはや落胆はない。またか、と思うだけだ。
買い物してきた荷物をキッチンダイニングのカウンターに置くと、ようやく気がついたのか、「おかえり」と振り返ることもなく彼が言った。
「今日の晩飯ってなに?」
「トンカツだよ」
「やった、美味しそう」
ようやくこちらに向いた景の瞳は輝いていて、まるで少年のようだ。
「とはいっても、出来合の惣菜だよ?」
「いいよ。大丈夫、大丈夫」
相変わらず些事に拘らないんだね、とつい笑ってしまう。こういう無邪気なところは昔と何も変わんないし、可愛いなって思うんだけどね。
「あ、明日なんだけどさ。飲み会があるんで七時くらいに家を出る」
夕食の準備をするためキッチンに立っているとき、背中から景の声がした。煙草を吸う目的だろうか。部屋の窓が少し開いていて、ひゅう、と吹き込んできた外気が、彼の長めの前髪を軽く揺らした。
「そうなの? どこで飲むの?」
「国分町」
まあ、大体そこかな。夕食をテーブルの上に並べながら「誰と?」とさり気無く問いかけると、「昔の同級生。ほら、この間、同窓会があったでしょ? そっちの繋がり」と紫煙を吐き出しながら彼が答えた。
景は一日中ゲームしていたし同窓会出てないじゃん。喉元まで出かかった皮肉をごくんと飲み干した。
同級生とはいっても、二通り考えられた。私もよく知っている、小学生からの古い知り合いか。もしくは、櫻野学園に進学してからできた、遠方の友人までを呼んだ集まりか。後者だとしたら、私の知らない顔も含まれていそうだ。
このへん曖昧にして語らないのがいかにも景らしいが、もうすでに慣れっこだ。私だって飲み会は行かせてもらっているし、別に不満を言うつもりはない。
別に、どんなメンバーでもいいし。女の子も同席するんだろうけど、それすらもどうでもいい。なんて。
――それはないか。
心の奥底に芽生えた焼けるような痛みが、私の強がりを否定した。
「ご馳走様でした」美味しそうにトンカツを平らげた景に訊ねてみる。「ビール買ってきたけど、飲む?」
ビールというか、発泡酒なんだけど。私の給料以外に安定した収入が無いのだから、出費はなるべく抑える必要があった。
「ん~……。いや、やめとく。あとで飲むから冷蔵庫ん中入れといて」
「うん。わかった」
あとで、という返事で、今日は遅くまでオンライン・ゲームをするんだろうなと得心した。以前彼が説明してくれた、『臨時公平パーティー』とかいうものに参加するのかもしれない。
『臨時公平パーティー』とは、同じゲームをしている遠方の同志らとグループを作って共同作業を云々かんぬんと以前熱弁されたが、正直私にはよくわからない。
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一人寂しく発泡酒を空け、スローペースで飲んでいるうちに、彼の心はすっかりゲームの世界に旅立ってしまった。
「夏休み明けにさ、隣町の小学校と野球の交流試合をしてるじゃない? その試合でね、うちの小学校九年ぶりに勝ったんだよ。ねえ、凄くない?」
学校で私がマネージャーを兼任している、野球クラブの話題をふってみた。だが、彼が相槌を打つ気配はない。
「春頃に試合見に行ったの覚えてる? あの時とは戦力が見違えていてね。きっと、新しく招へいしたコーチの腕がいいのかも」
懲りずに話し続けてみるが、上の空どころか彼の視線は一度もこちらに向かない。口を噤んだとたんに喉が奇妙な乾きをうったえて、発泡酒の残りをぐいっと流し込んだ。
彼の関心ごとは、今宵、優秀なパートナーが見つかるかどうかにしかないのだ。
──私。昨日の夜ね、別の男と寝ちゃったかも。
言いかけて、ぐっと飲み干す。朝帰りした私の行動確認を、全然彼がしないことを、存外にも辛いと感じているらしい。
ねえ。私、嫉妬してるんだよ?
景が他の女の子と楽しそうに飲むのかな、談笑するのかなって思うと、嫉妬してるんだよ?
──あなたは、どうなの?
帰ったら、謝罪しようと思っていた言葉も、湧きあがってくる不満や愚痴も、心のなかでだけ弾けて消えた。私の気持ちは彼に届かないし、もちろん振り返ってもくれない。
「先に寝るね」
空き缶を片手に、一応声をかけてから立ち上がる。忙し気にマウスをクリックしていた手が止まり、気だるげな双眸がこちらに向いた。
「どした?」
「明日も早いから、寝る。あんまり遅くならないようにね」
「……ああ、わかってる。おやすみ」
「うん、おやすみ」
本当にわかっているのかな、と思いながらも、ひらひらと手を振ってキッチンに移動する。シンクの中に放置していた洗い物を片付けてから、寝室に入った。
布団の中に潜りこんで消灯した。彼がキーボードを叩いている音が、壁一枚隔てた先から聞こえてくる。
なんとなく体がムズムズして寝返りを打つと、衣擦れの音が嫌味なほど静寂のなか響いた。そういえば私たち、しばらくシていない。そんなことを考え悶々としてしまう自分が、
「ヤダなあ……」って思う。
景と付き合い始めたのは高校一年の秋。あれからもう、五年になるだろうか。
私と景は、学区は違ってこそいたものの、小学校のころから同級生。中学も、高校までエスカレーター式の私立に進学したため、ずっと一緒だった。ごく自然と話す機会が増え、仲良くなった。
バス停から学校までの道のりを毎日一緒に歩いているうちに、いつの間にか好きになって、私のほうから告白した。彼も私に好意を抱いていたらしく、そのまま交際がスタートした。
初体験は、高二の初夏。場所は彼の部屋。
家族に音を聞かれちゃうんじゃないかと心配で、凄くドキドキしていたのを昨日の事のように覚えている。
私は見た目が派手なので、男性経験も豊富なんだろうと誤解されがちだが、経験人数は一人だけ。景以外の男とセックスをしたことはない。
高校を卒業したあと、私たちはしばらく遠距離恋愛になった。
教師になる夢を叶えるため、私は東京にある短期大学へと進学。彼は小説家になる夢を叶えるため、自宅で執筆を続けながらアルバイトを繰り返す日々。
数年とはいえ、離れ離れだった時間は寂しさを募らせた。私が小学校教諭二種免許を取得して地元小学校への勤務が決まると、どちらからともなく同棲しようという意見がでて、私の卒業を待たずにこの部屋を借りた。
自宅から一駅先。駅から徒歩五分の場所にあるアパートの2DK。カウンターテーブルのあるキッチンダイニングに、ソファーとテーブルを置いたリビング。あとは、ダブルベッドのある寝室がひとつ。
好きな人と一緒に暮らす毎日って、どんなに楽しくて幸せなものなんだろうと、期待に胸を膨らませていた。
だが、覚悟はしていたものの、教師という仕事は想像以上にハードだ。
仕事を自宅まで持ち帰ることもざらにあるし、休日だって思うように取れない。
だからこそ、デートはまめにした。週末は美味しいものを食べに行こうよ。毎日同じベッドで眠ろうよ。気に入った家具を揃えてさ、自分たちの好みに部屋をコーディネートしようよ。お揃いの服を着て外出しようか。あの小説が映画化されたんだって、公開日に観に行こうよ。それはもう、色んな話を二人でした。
楽しかった日々は、半年も続かなかった。
時刻を確認すると、深夜〇時だった。「眠れない」と呟き、ひとりきりのダブルベッドで天井を見上げる。
景が書く小説はわりと好きだ。
それまで小説を読む習慣のなかった私が、忙しい仕事の合間をぬって、純文学なんてものを読むようになったのも間違いなく彼の影響だ。
景の小説はやや癖が強い独特の文体ながら、比喩表現が巧みで、なだらかに連なる長文と短文の使い分けも見事だ。
そのうちに、受賞してデビューする日がやってくるだろうと私は確信している。
──今でも。
だが、現実はそこまで甘くない。
彼が応募する小説は、これまで何度か最終選考まで進んだものの、そこでことごとく落選を続けた。
どんなに惜しかろうと、結果が紙一重だろうと、受賞しなければ作家への道は開かない。
最近はペンを握ることも殆どなくなって、四六時中ゲームをしている毎日。六月まで務めていた居酒屋のバイトを辞めてしまうと、仕事をする意欲までなくしてしまったようだ。
執筆用だったはずのパソコンは、気がつけばゲーム専用機と化していた。
職業柄私は夜しか家にいなかったし、主として深夜に勤務していた彼とはすれ違いの毎日が続いていた。
それが、悪かったのだろうか? とはいえ、帰宅したのち顔を合わせるようになった今でも、会話が増えたとは思えない。同じタイミングでベッドにはいることも殆どなくなった。
同棲を始めた当時は、手の込んだ料理を作ると、もっと喜んでくれたように思う。『美味しいね』と食事をしながら言ってくれたのが、いつの話だったのか思い出せない。
喜んでもらえないと、作る楽しさも半減してしまう。そんなわけで最近は、惣菜で手抜きをする日が増えた。
今日はリアクションとしてマシな方だが、あの程度で喜べるほど、私だって無垢じゃない。
景のことは、今でももちろん好き。だからこそこんなに悩んでいる。彼の性格や生活習慣もひっくるめて好きになったつもりだったし、今さら文句を言うつもりもない。
いや、『なかった』というべきだろうか。
過剰な束縛をせずに自由に生きている私たちを、『羨ましいね』と学校の先生たちによく言われる。でも同時に、『霧島先生の彼氏って、ヒモなの?』と囁かれていることも知っている。
こう思いたくはないが、同棲生活が諸悪の根源だ。同棲しなければ、彼の汚い部分を見ずに済んだし、私もずっと恋する乙女でいられた。一緒にいる時間が長いからこそ、お互いを大事にできなくなったんだ。
「はあ、くだらない」布団に顔を埋めて、固く瞳を閉じた。
あんな手紙を読んだから、悪いことばかり考えてしまうんだ。忘れていたはずの初恋とか嫌いだった昔の自分を思い出すと、心の芯まで冷え込んでいくようだ。
――菫。
もう何年も会っていない、親友の顔が脳裏に浮かんだ。彼女を差し置いて、私だけ幸せになっちゃいけないよ、ということなのかな。
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