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第二章「霧島七瀬」

【「ごめんなさい」雨の中に滲んだ私の謝罪】

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 どこを目指しているのかもわからぬまま、無心で走り続けた。ぽつりぽつりと、アスファルトの上に雨染みが広がり始める。
 通り雨――と、時間のせいばかりではなく暗くなった空を見上げた。
 こいつは弱ったな。傘なんて持ってきてないし。でも、無様な泣き顔を隠すには、むしろ丁度いいだろうか。
 走り続けているうちに息があがってきて、軽い吐き気をもよおしてくる。マズいな。薬を飲まずに飛び出してきたので、摂食障害――神経性食欲不振症――の症状がでている。数か月前に摂食障害だと診断されたのも、日々のストレスが原因なんだ。
 こんな気持ちになるのなら、同棲なんてしなければ良かった。恋人のことをないがしろにする身勝手な男だと知っていたら、付き合うことはなかった。好きになんてならなかった。

「やっぱり。傘、持ってくればよかったな」

 雨の中、あてもなく彷徨い続ける。
 どんどん強くなっていく雨脚。乾いていたアスファルトが雨染みで真っ黒に染まっていくと、心の中も黒い感情で満たされていく。 
 降りしきる雨のカーテンで視界が白くけむっていくなか、雨天時特有の、甘ったるい匂いが漂い始める。菫が指で髪を梳いたときに、ふわっと漂ったシャンプーの香りとどこか似ていた。
 雨の日になると、思い出してしまう苦い記憶がある。
 七年前の花火大会の日。私は、中学に進学してからできた新しい友人と、花火を見に出かけた。今ではすっかり疎遠となり、もう何年も会っていない友人だ。
 今にして思うと、私らの間に友情は存在していたのだろうかと、首を傾げそうなほど薄っぺらい付き合いだった。

 あの日、西公園に向かう途中で、私たちはバス事故の現場を目撃する。
『うわー、ひでー事故』とその友人は言った。『一本前の路線バスかな? 最悪だね祭りの日なのに』
『ホントだね』と私も潜めた声を出した。この時はまだ、何も知らずにいたから。
 横転したバスに、菫が乗っていたなんてことも。彼女が重症を負い、近くの病院に救急搬送されていた、という事実も知らずにいたから。
 きっかけはおそらく、私の醜い嫉妬だった。
 今でこそ景と交際している私だが、初恋の相手は間違いなく三嶋蓮だった。
 私と蓮は、家が隣同士のいわゆる幼馴染。幼いころから何度もお互いの家に上がりこんで、一緒に遊ぶくらいには仲が良かった。
 二人で読書をしたり、テレビを観たり、一緒にお風呂に入ったことだってある。
 彼を好きだと思う気持ちが恋なんだと自覚したのは、小学三年生のころ。
 からかっているふりをしてほっぺたにキスをしたけれど、アレ、結構本気だったんだよ。あなたは喜んでいるというよりも、困惑している様子だったけれども。

「あの頃がピークだったなあ……」

 四年生に進級すると、クラスメイト達も次第に、異性とか性差を意識し始める。
 男だから。女だから。
 たったそれだけの違いで、明白な線引きがされるようになっていく。
『三嶋と霧島って、付き合ってんの?』
 ある日突然こんな噂が持ち上がると、それまで仲が良かった私たちの関係も、とたんにぎくしゃくし始める。
 明るい性格のわりに、女子らの間で浮いていた私。妙な波風が立つことを、とにかく恐れた。色気づいている、などと思われるのが癪で、次第に蓮を避け始める。会話も段々しなくなった。
 今だからわかる。最初に二人の間で壁を立てたのは、どう考えても私のほう。
 それなのに、彼と距離を置けば置くほど、砂粒のように小さかったはずの想いは積もり積もって、好きだという感情はどんどん膨らんでいった。
 気持ちを伝えたい。でも、今はまだ耐える時期なのだと、自分の気持ちを心の奥底に隠して鍵をかけた。
 皮肉にも――これが間違いの始まり。
 私と蓮が、疎遠になっていくのと時期を同じくして、彼と親密になったのが森川菫だった。
 私たちにとって共通の友人である菫は、私のように、クラスの女子からつま弾きにされている、なんてこともなかったが、元来大人しい性格なので、私らの他に目だった友人もいなかった。
 休み時間になると、蓮と菫は、たびたび校庭の片隅に並んで座っていた。
 教室にいる時もそう。斜め前の席にいる蓮が振り返って、それとなくこちらに視線を飛ばすのがわかった。
 しかし、私と目が合うことはなく、彼の視線は必ず、二つ後ろの席にいる菫に注がれていた。
『まただ』と、二人がアイコンタクトを交わすたび、私の心は嫉妬で激しく乱れた。
 頭がオカしくなりそうだった。
 それでも、今さら二人の間に割って入る気にはなれない。意固地になっていた、と言われてしまえばそれまでだが。


「冷た――」

 既に頭からびしょ濡れで、重くなった長い髪が、ぴたりと頬に張り付いた。

 だから小学校を卒業して、菫と蓮の進学先が違うと知ったとき、心の中で思わずガッツポーズをした。
 これ以上二人が親密になっていく過程を、見せ付けられなくて済むと思った。
 状況が動いたのは、中学に進学してから一年と数ヶ月が過ぎ、季節が本格的な夏へと移ろい始めた頃。私は菫から、ある相談事を持ちかけられる。

「私。三嶋君のこと、好きになってもいいかな?」

 知ってるよ。前から好きだったじゃん。

「どうして私に、そんなこと聞くの?」
「だって、彼とよく話をしていたし、七瀬ちゃんの好きな人も三嶋君だったら、やっぱりマズいかなあって」

 話をしていた──か。過去形にするんだね。それとも、私も好きなんだよって告白したら、引き下がるの?

「別に、ただの幼馴染だし」
「そっか。良かった」と、菫は伏し目がちに笑んだ。「三嶋君を誘って、夏休みにある花火大会に行きたいんだけど、連絡先がわかんなくって。七瀬ちゃん、後でメルアド、聞き出しておいてくれないかなあ?」

 冗談でしょ? と返す言葉を失った私に、戸惑いの顔を彼女は向けた。
「……ゴメン。やっぱり七瀬ちゃんも、三嶋君のこと好きだった?」と。
 今ごろ気づいたの? なんて言えるはずもなく……「そんなことないよ。蓮はただの幼馴染。メールアドレスなら、あとでそれとなく訊いておくね」とお茶を濁した。
 こうして私は、意図せず二人のキューピッド役を買って出る。
 だがそこは、嫉妬の感情をたぎらせていた当時の私のこと。余計なはかりごとを思いついてしまう。
 それっぽい架空のメールアドレスを二つ作成して、お互いに教えたのだ。簡単にいうと、双方から送信されたメールがいったん私の元に届き、それを確認した上でコピペ送信するということだ。つまるところ、のぞき見行為である。
 罪悪感は、むろんあった。
 子供じみた計画だし、正直穴だらけ。直接会って、お互いにアドレスを確認し合えばすぐバレるし、会わなくても電話をすればバレる可能性があった。そこまで頭が回らなかったのか? と当時の自分を殴りたい気分だ。
 ところが幸か不幸か、発覚することはなかった。
 そうなる前に、あの事故が起きたから――。

 すっかり息も絶え絶えだ。こんなに走ったのは学生の時以来。濡れているのは髪だけに留まらず、服から下着までずぶ濡れだ。
 遠雷の音が、墨をぶちまけたような空に轟いた。降りやまぬ雨の中、息遣いの音が聞こえる。喘ぐような私の呼吸と――あともうひとつ。

 ──はあっ。

「誰?」と驚き顔を上げると、実家近くのバス停が目の前にあった。ひと月ほど前、蓮と一緒に菫のを見に来たあの場所だ。
 バス停の真横にある立木の傍らで、何かが蠢いた気がした。女の子の細い声が、雨音に紛れて聞こえる。

 ──もしかして、……たの?

 ひっ、と私の口から短く悲鳴が漏れた。

「そこにいるの? 菫。そこにいるの?」

 目を凝らして、木の真下に広がっている暗闇や、バス停留所の周辺を窺う。だが、誰の姿も視認することはできなかった。そうだよ。菫がこんな場所に居るはずがない、と思い直した直後。

 ──もしかして、私を騙していたの?

 ともう一度。今度は、先ほどよりも鮮明な声で。
 
「どうして、そう思うの?」

 ――だって、彼に訊ねたら、待ち合わせの時間違うんだって。

 胸がどきりと音を立てる。

「違う。陥れようなんて考えは全然なかったの。あんなことになるなんて、まったく予想してなかった」

 ──じゃあ、やっぱりそうなんだ。

「違う。そうじゃないの。ああ……でも、ごめんなさい」

 それ以上聞いているのが辛くて、咄嗟に走り出した。ぽつぽつと灯っている街灯の光だけを見据えて、暗い夜道をただひたすら駆けた。

 あの時――。
 完全に二人の仲を引き裂こうとか、大それたことを考えてはいなかった。
『待ち合わせの時刻。西公園の案内板の前に十八時』
 花火大会でのデートプランが二人の間で纏まって、蓮から届いたメールの内容がこれ。いつも通りコピペして、菫に送信しようとした私の中で悪魔が囁いた。ちょっとだけ、悪戯をしてやろうよ、と。
 そこで私は、待ち合わせの時間に細工をし、一時間早くして伝えた。
『待ち合わせの時刻。西公園の案内板の前に十七時』
 ほんの少しでいい。二人の間で、すれ違いの時間が生まれればそれでよかった。親友が、独り公園で待ちぼうけになり、彼に対して不信感を募らせたらいい。
 もし一連の嘘がバレて追求されたら、「ごめん。ちょっとした出来心だった」なんて、軽く謝るつもりだった。その程度の認識だった。
 あんな結果を招くと知っていれば……こんな嘘はつかなかった。
 そして、なんの疑いも持たず一時間早いバスに乗った菫は、バスの横転事故に遭遇してしまう。もちろん、そんな結果を望んではいなかったし、菫が数か月間も入院して、障害を抱える結果になるとは予想だにしていなかった。彼女と行き違いになったことを、今の今まで蓮が後悔しているなんて──知らなかったんだ。
 結局、退院してから間もなく菫は遠方に引っ越した。話しかける勇気がわかず、私たちの関係が気まずくなるなか、謝る機会を作れないまま疎遠になってしまう。
 壁を作ったのは菫じゃなくて私の側。彼女と疎遠になった原因だって、すべて私のほうにある。
 全部、全部、私が悪いんだ……!

 背筋がぞくりと冷え込んだ。背中を伝うものが、雨なのか汗なのかわからない。違う。菫は今でも病院のベッドの上なんだからこれは私の妄想だ。そう思いたいのに、私の罪を暴こうと、暗闇が追ってくるみたいな錯覚に襲われる。――ごめんなさい、菫。ごめんなさい。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
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