殺意の二重奏

木立 花音

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最終章「殺意の二重奏」

【殺意の二重奏(2)】

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「理由はいくつかある。まず最初に思いつくのはこれかな。私の記憶では、龍人は大雑把な性格だったはずなのに、妙に不自然な点があった。たとえば、レシートを捨てずにとっておいたことや、財布の中身がきちんと整理されていたこと。でも特に不思議だったのは部屋の様子だよ。床は掃除され、ワイングラスは綺麗に洗われているのに、冷蔵庫の中はぐちゃぐちゃで、水回りも正直汚かった。この矛盾が、部屋の主とは別の誰かが手を加えた可能性を示していた」  
「それなら簡単だ。千沙の犯行を隠すために、俺が部屋を掃除して指紋を拭いたからさ」  
「千沙を帰したあと、急いで証拠を隠そうとしたから雑になったってわけね。まあ、納得できるかな。じゃあ次。停電の事実を、君は忘れていたよね? 知ってたら、ああいった不用意な発言はしなかったはずだ」  
「停電があったことをすっかり忘れてたんだ。こればかりはどうしようもない」  
「自分の家のことなのに?」  
「そうだ」  
 なるほど、と涼花は呟いた。
「うっかりすることは誰にでもある。でも、事件当日の君の証言にも不自然な点があった。君は蓮音が電話に出なかったと言ったけど、千沙は電源が切れていたと言っている。証言が食い違っている。なぜか、と考えた。君は自宅――蓮音の家の固定電話から、自分のスマホに電話をかけたんじゃないか。外部からの着信履歴を残すために、ね。スマホの電源を切ると、それを懐に忍ばせ、千沙と一緒に死体を見つけに行った。万が一、彼女の隣で着信音が鳴ったら怪しまれるから、電源を切るしかなかった。――そのため、二人の証言が食い違った。そして現場に着いてから、何食わぬ顔で自分のスマホと龍人のスマホをすり替えた。そうじゃない?」  
「千沙が勘違いしただけだろ。あるいは、スマホに電話をかけたつもりで、固定電話にかけていたかもしれないし」  
「なるほど? 固定電話には、千沙からの着信が確かにあったしね。では次に、そうだな……利き手の話をしようか」
「利き手?」
「そう。蓮音は右手をメインで使う両利きで、龍人は左利きだった。合ってるよね?」  
「合ってる。よく知ってたな、蓮音が右メインの両利きだってこと」  
 付き合いが長いからね、と涼花は苦笑した。好意を抱いていた相手だから、とは言わずにおいた。
「まず、現場の毒入りワイングラスについてだよ。グラスはテーブルの左端に置かれてた。これだけじゃ何とも言えないけど、左利きの人が置いた可能性が高い。次に卓球のとき。君は左手にラケットを持ってプレーした。それでいて私と接戦を演じたのだから、たいしたものだよ。一瞬、私の勘違いだったかと思いかけたけど、君は一つミスをした。粉薬を飲むとき、袋を右手で切ったよね。無意識にいつもの癖が出たんじゃない?」  
 ついでに言うと、事件の日、レシートを差し出してきたのも右手だった。
 商業施設内を二人で歩いたあの日、『彼』は私を試していたのかもしれない。入れ替わりに気づくかどうか、確かめるために。
 涼花は龍人の目をまっすぐ見つめた。彼は苦い表情を浮かべていた。  
「袋なんて、どっちの手でも切れるだろ。それだけじゃ根拠として弱い」
「確かにね。すべて状況証拠にすぎないし、二人の利き手がどっちだったかを証明するような証拠――たとえばアルバムとか――は君がすでに処分したあとだろうから」
 龍人の部屋の書棚に、不自然な隙間があったのを涼花は思い出していた。  
「言いがかりだな」  
「まあ、いいよ。次がとっておきの証拠だ。君はさっき、ここ一年ほど病院にかかったことはないと言ったよね?」  
「そうだが?」
 龍人の顔に、焦燥が滲む。何かミスをしたのではないかと、不安になったのだろう。  
「それはありえないの。事件があったあの部屋から、入沢龍人の診断書が見つかっている。それは、千葉市の大学病院で彼が受診したときのものだ。そこにはこう書かれてあった。内臓に重大な疾患あり、と。余命がどれほどか、具体的なことは書かれていないけど、無治療による予後は厳しい、とあった。君は今、本当にそんな状態なの?」
 龍人――いや、蓮音は沈黙した。それは無言の肯定だった。  
「司法解剖の結果、遺体の内臓に疾患があるのは確認されていた。間違っているのは診断書か、それとも遺体か。……結論は、君の体調を観察すればわかるだろうけどね。いつになるかは、ともかくとして」  
 観念したように、蓮音はため息をついた。  
「こいつはまいったね。そんなことには気付いてなかった。……そうか、あいつ……」
「もっとも、私はこれ以上追及するつもりはない。というか、できない。君を裁くなら『公正証書原本不実記載罪』になるだろうけど、明白な証拠がないからね。君が入沢龍人として生きていく覚悟なら、私はそれでもいいと思ってる」  
「すべて俺の判断にゆだねるってことか」
「そうだね。事実千歳の視点で見れば、君が龍人であるとしておくほうが、すべて丸く収まるだろうし」  
 涼花はこの事実を――あの時点では予測でしかなかったが――千沙にだけは伝えた。千沙が愛したのは龍人だ。どんな理由があれ、彼女だけはこの真実を知っておくべきだった。  
 龍人が殺される覚悟を持っていたこと。長く生きられないと知っていたから、千歳や千沙と距離を置いていたこと。七月三十日、君を愛したのは『本物』の龍人であろうことを告げると、千沙は泣き崩れた。彼の本心に触れたことで、犯した罪の重さを自覚したのだろう。  
「脅迫文を作ったのは君だよね?」
「そうだな」
「千沙の小説を父親に見せたのも、そうなんだろう?」
「そこまでわかっているのか」
「君の父親の評判は、私もある程度は知っていたからね。先生の性格からすれば、あの批評は丁寧すぎた。それに、先生の文体と批評の文体は、明らかに違っていたから」
「なるほど。千沙からお願いされたと龍人から聞いて、俺が担当したんだよ。親父がろくなフィードバックをしないのは予想していたから、俺が批評を用意しておいたんだ」  
「千沙の信用を得るために、かい?」
「そうだ。入沢龍人の株を、千沙の中で一度上げておく必要があったしね」 
 後で入れ替わる計画があったからかもしれない。だが、それだけだろうか。涼花は、千歳の家に飾られていた四枚の絵を思い出した。  
「一つ訂正がある」と蓮音が言った。  
「なんだい?」
「俺が龍人に憧れていたのも、龍人と入れ替わる計画を立て実行したのも事実だ。だけど、それは入沢蓮音として千歳に愛されなかったからでも、龍人になりたかったからでもない」
「どういうこと……?」
「入沢蓮音の存在は、すでに千歳の記憶から消えてるんだ」  
「なんですって?」  
 そこから続いた蓮音の話はあまりに予想外で、涼花は絶句した。
 その症状が現れ始めたのは、およそ一年前。妊娠できないこと、仕事が休みがちになったこと、そして龍人との別居。さまざまなストレスに晒されて、千歳の精神が不安定になっていると気付いた蓮音は、彼女に近づいた。「龍人はそのうち戻ってくるよ」と相談に乗るうちに、二人の関係は深まっていった。 
 ちょうどその頃、千歳が蓮音を「龍人」と呼び始めた。最初は聞き間違いかと思ったが、何度も繰り返されるうちに、蓮音は確信した。
 千歳の中から、自分の存在が抜け落ちているのだと。
「彼女には、俺が龍人にしか見えなくなってた。子どもが欲しくて誘惑したわけじゃない。俺を龍人だと思い込んでたんだ」  
 それは、龍人への強い依存から生じた記憶障害なのかもしれない。いずれにせよ、千歳は蓮音を蓮音として認識できなくなっていた。彼女のそばで生きるには、龍人になるしかなかった。千歳の中にある蓮音の記憶が、どんどん龍人に置き換わっていっていたから。  
 二重生活に、蓮音は疲れ果てていた。龍人に成りすまして千歳を愛し、千沙とも関係を持っている自分が滑稽だった。  
「だから、終わりにしようと思った。千歳が愛する男になって、残りの人生を彼女のそばで過ごすことを決めたんだ」  
 涼花はただ彼の話を聞くしかできなかった。頭の中で彼の言葉を反芻し、ある結論にたどり着いた。
「ねえ、蓮音」
「なんだい?」
「君は、本当に龍人を殺そうと考えていたの?」 

 桜並木、湖畔の灯台、銀杏の大木、雪に閉ざされた公園。四季折々の光景が、涼花の心を流れた。あれは本当に美しい絵だった。  
 ――どこにあるの? 君の本心。  
 偽りの恋を選ぶの? それとも本当の恋?  

 蓮音は掠れた声で、「さあね」と呟いた。  
「どうだったかな。もう忘れてしまったよ」  
 搭乗時刻が迫っていた。「身の振り方は、これからゆっくり考えるよ。最後に涼花と話せて良かった。それじゃあ」と言葉を残し、蓮音は去った。人混みに消える寂しげな背中を、涼花はただ見つめていた。
 薄紫に染まった空を、銀色の機体が鋭く切り裂いていく。空港の展望デッキに立ち、遠ざかる飛行機の姿を涼花は穏やかな気持ちで見ていた。
 柔らかな斜陽が機体を包み、翼の先端が一瞬きらりと光を放つ。それはまるで線香花火が最後の力を振り絞り、燃え尽きる直前に放つ一際鮮やかな輝きに似ていた。刹那の美しさが胸に刺さり、涼花の瞳にその残像を焼き付けた。  
 頭の中を、懐かしい日々の記憶が渦のように巡る。あの甘く切ない日々が、色褪せたフィルムのように次々と浮かんでは消えていく。過去に拘泥してしまうのは、今の自分にどこか満たされない影があるからだろうか。涼花はそう自問しながら、もしもあの時別の選択をしていたらと――ありえたかもしれない未来の幻に、そっと身を委ねてみた。  
 あの日、高校の教室の窓辺から、彼の姿を見下ろしていた。夕陽に照らされた校庭で、彼の笑顔が風に揺れる。見ているだけで胸が締め付けられ、口にできなかった言葉が喉の奥で熱く疼いた。あのとき感じた、喜びと痛みが混じり合った複雑な色の奔流が、今もなお心の底で渦巻いている。  
 涼花はその記憶を、そっと「過去」という名の箱に押し込んだ。蓋を閉じるように一つ息を吐き、目を細める。これですべてが終わったのだ。踵を返し、展望デッキを後にする。足音がコンクリートに小さく響き、空の色が背中に溶けていく。  
「もう会えないわけじゃない」と自分に言い聞かせる。でも、心のどこかで確信していた。彼と再び会うことも、彼を思い出すことももうないだろう。涼花はその思いを小さく呟き、風に預けた。声は空に吸い込まれ、薄紫の彼方へと消えていった。

 ――私を捜査本部に残した部長の判断は、正しかったことになるのだろうか。はたして――。

 スーツのポケットからスマホを取り出し、電話をかけた。  
「もしもし、毅? 今日、仕事が早く終わったから、久しぶりに外食でもどう? どこの店がいいか、考えておいてね」  
 毅はまだ勤務中なのだろう。電話は繋がらなかった。  
 黙っていると、彼はすべてを涼花任せにしてしまう。自分で考えて案を出しなさい、とメッセージを送っておいた。  
 誰しもが「満たされたい」と願う。だが、ひび割れた心の器を抱え、ただ誰かがその隙間を埋めてくれるのを待つだけでは、胸の内が軋むばかりで苦しみが増す。同じように、見返りを期待しながら与え続けるだけでも、いつか心は疲れてしまう。与えられる人になるには、無意識のうちに陰徳を積む者でなければならない――今回の事件を通じて、涼花はその真理にたどり着いた。  
 無意識に与えることができれば、まるで静かな泉が湧くように、自然と徳が返ってくる。それは小さな滴となって心に染みわたり、やがて自己肯定の温かな流れとなって育っていく。妬みや嫉み、不満といった暗い影は、春の陽光に雪が溶けて清らかな水に変わるように、ゆっくりとではあるが確実に消えていくのだ。  
 かつての私は、そうではなかった。
「毅のために努力している」という意識があまりに強すぎたのだ。だから、彼の受動的な態度に苛立ち、不満を溜め込んでしまった。私は彼の心を満たしてやっているのだから、私だって満たされるべきだ――そんな身勝手な思いが、知らず知らずのうちに傲慢な鎧となって私を覆っていた。何と愚かなことか。
 でも、その過ちに気づけた今、心に柔らかな余裕が生まれた。風がそっと枝を揺らすように、穏やかに待てるようになった。焦燥や執着を手放し、穏やかな眼差しで未来を見つめられるようになったのだ。
「あ、毅から返事がきた。……なになに? ハンバーグが食べたいか。ふふ、あいつらしいや」
 どこのお店がいいかなあ? とスマホで検索しながら、涼花は幸せをかみしめる。
 さようなら、私の初恋。
 こんにちは、私の人生。
 言えていなかったけれど、ずっと前からあなたのことが好きでした。

   * * *

 一週間後、入沢蓮音は千葉中央署に自首した。  
 彼にどんな裁きが下されるべきのかは、私にもわからない。  

   * * *
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