愛玩石

稲葉夏雲

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6話

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 柳は微妙にまばらに座席が空いた車内、僕の横の席目掛けて一直線に音もなく——電車の揺れる音が大きくて音がかき消されていたのかもしれないが——、近づいてきて、僕の隣に座った。

 髪はミディアムのストレートだが、毛先が癖で明日の方向に行ったり、明後日の方向に行ったり、いろんな方向に毛がボサついていて、少しだらしない。前髪は直線のぱっつんで、本当に、別れた時と同じ髪型だった。

「……水山」

 彼女は僕を、名字で呼んだ。別れて赤の他人となった今、それは当たり前で、当然の事なのだが、少し寂しさを感じるのは僕が彼女のことを引きずっているだけだ。

「ひさ、しぶり」

 僕はなんとも頼りない声で応答する。

「本当、うん、水山は元気だった?」
「まあ、まずまずかな」
「そう」

 今にも会話が終了しそうな、会話という体系自体が霧になって発散してしまいそうなリズムの会話だった。

 柳は突然切り出した

「ねこちゃん、どう」
「猫……レイ、か。まあ、元気だよ」
「そう」

 今朝、三百六十五日、六時四十分に必ず扉の前で待っているレイが居なかった事は、伏せた。特に意味はなかった。

 そう答えた後の柳は何か、意味ありげな——そう見えただけだが、そんな目をした。そしてその目を真っ直ぐ僕に向けて、

「今日、レイにおかしな事は無かった?」
「おかしな事? そんな、」
「あったんでしょ」

 どうやら見透かしたような事を言った。果たして彼女には僕の私生活が見えているのだろうか。いや、もしかしてストーキングを? ……いいや、そんな事は考えすぎだ。不安が僕に歪な考えを持たせる。

「まあ……今日は居なかったというか」
「居なかった? 居なかったってレイが? 家の中にずっと居るのに居ないなんてそんな——」
「違う、その、今日は家に来なかったんだ」

 彼女は視線を前の窓にやった。柳は完全室内飼育だと思ったのだろう。それが普通だ。というか、猫を押し付けられた時、絶対に室内で飼育して、外に一歩も出さないでと、約束させられたのだった。
 それを守らず、家に入れず、風呂にも入れず、半野良猫として飼育、いや、管理している僕には彼女と話す権利すら無いのかもしれない。

「家に来ないって、それはつまり」
「家には、入れてない」

 柳は首を掻いた。

「私、水山と別れる時、家の外から絶対に出さないでねって、言ったよね」
「……ごめん」

 ごめん、としか言えなかった、そう言うことしか出来なかった。そもそも、彼女がほぼ一方的に猫を押し付けてきたっていうのだ、僕は反論する権利があるだろう。だけれど、僕には反論できなかった。そういう性格なのだ。
 そういう自分が嫌になった。洞に溜まった黒い物が増えた。

「まあ、私も、押しつけちゃったから、なんにも言えないけど」
「……」

「っていうか、水山は何処に? 今日平日でしょ」
「……そっちこそ、なんで平日にぶらぶら外に出てるんだよ」

「私は……仕事、うん、仕事。」
「そう」

 彼女の仕事はそんなあっちこっちに行ってするようなものではない。だから、恐らく違う。

「僕は、その、ちょっと遠くまで行きたいなって」

 僕が殺人事件の犯人と疑われていて勝手な被害妄想で冤罪をかけられるのを恐れ、家を飛び出してきたんだ、など、とても言えなかった。

「へえ、有給?」
「もちろん、っていうか、猫守さっき、かなり怯えてるみたいな感じだったけれど、大丈夫?」

「それは——」

 柳が言葉に詰まった。それは何か言い訳を考えているように僕は感じた。

「色々、だよ。会社の事とか、そこら辺」

 絶対に何か、隠していた。それは誰が聞いてもそう聞こえただろう。

「ねえ、もう、僕ら赤の他人なんだし、嘘を付くのはやめよう」

 柳は黙り込む。若干俯く。

「猫の、ことでさ」

 柳は言った。

「ちょっと用事があって」
「猫の? それってレイのこと?」

「まあ、そうなるのかな」

 ——レイのことで緊張? そんなこと、あるのか?

 そもそも、自分にはもう関係ない元飼い猫の事で怯える理由が無い。

「何で猫守が僕の猫のことで怯えるんだ? 猫守には関係ないどころか、今のレイの全責任は僕にあるんだ。しかも……飼い主である僕よりも先にレイの不安になる点に気づくって……」

 おかしいじゃないか。
 なぜ柳に僕の猫のことが分かるんだ。もう柳とレイの縁は切れているし、僕とも今日会うまで一切会っていない。しかも、レイの身には何も起こっていない。
 多分、今日居なかったのはたまたまだし。

「うん、分かる。水山がなんで自分しか知らない猫の事について分かるのか、ましてや怯えるのかも、不思議に思うのも分かる」

 柳はそこで言葉を切った。そしてまた少し俯いて、

「水山は、事件の事、わからないもんね」

と、言った。

 事件? 分からない? 彼女の口から出る言葉に脈絡を見いだせない。

「おい、事件? 事件なんて僕は知らないよ」
「いや、いいの。なんにせよ、水山には関係ないことなの。でも、これだけは守ってほしい」

 柳は僕を見た。

「絶対にレイを、もう家から出さないで」

 そう、言った。

 柳の視線さっきの真っ直ぐとした視線とは違い、また怯えからのよろよろとした、頼りない視線に戻っていたし、声のハリも先ほどよりもなくなっていたが、言葉だけは正体不明の威圧感とともに、僕を圧倒した。

 彼女からの、一方的な押し付けによって僕が飼うことになった猫。それと同様、この発言も彼女からの一方的な押し付けだった。だが、その要求をねつける事は僕には出来なかった。

 それは性格のせいでもなんでもなく、僕が今置かれている、警察から逃げているという状況から精神が不安定になって断り切れなかったということなのかもしれないが、どちらにせよ、僕の問題なのだ。

 僕は、彼女の要求から逃れられない。

 猫守柳から逃れられない。

 彼女はその後、すっと顔を前に向けて、話さなくなった。いや、話すことがなくなっただけかもしれない。

 僕はそんな柳を見て、漠然とした不安と、巨大な疑問とが頭の中に渦を巻いた。

 彼女はなぜ猫の事について不安になるのか、怯えるのかについても、猫にまつわる用事についても、僕が知らないという、事件の事も、その後一切喋ろうとしなかった。

 『藤枝、藤枝。次は藤枝です』

 アナウンスが聞こえる。運転士の、そういう声なのか、本当に疲れているのか、気の抜けたような、疲労の滲む声。

 守屋はそのアナウンスと同時に肩から提げていたトートバッグを肩から掛け直した。

 彼女は藤枝駅で降りるようだった。

 暫くすると窓の向こうに、藤枝駅という駅名標が見えた。

「私、ここで降りるから」

 そう、言われた。
 藤枝駅は彼女の実家がある所だった。僕が住んでいる所から、十駅も離れた所だ。今日の逃走はここで止めにして、この藤枝駅で彼女と一緒に降りても良さそうだった。
 だから、僕は柳に声を掛ける。

「ねえ、僕もここで降りようと思うんだけど」
「そう」

 柳はあくまでそっけない。

「いい、のか? 僕も同じところで降りるんだぞ」
「別に。だって私にくっついてくるわけじゃあ、無いんでしょう。」

「それは——」

 即答できるような問いでは、無かった。勿論守屋について行く気など、毛頭無いが、やはり、意識してしまうというか、ここできっぱりついて行く気はない、と言ってしまうと突き放されたような気分になりそうで、恐ろしく、言葉がうまく出てこない。

 自分で自分を突き放すような気分になりそうだった。
 それは、今被害妄想で逃げている自分も同じようなものなのだが。
 素直に、堂々と、冤罪を恐れない自分を突き放したのだ。

「言っておくけど、絶対に私には付いてこないでね」
「あ、ああ。そんな、ついて行くなんて」

 ついて行くなんてあり得ない。「あり得ない」の部分は言わなくても伝わるだろうから言わなかった。

 扉が開く。
 春の昼間の、生ぬるいような、薄ら寒いような、微妙な外気が流れ込んでくる。

 彼女は席を立って扉の外へ出た。僕もそれに続く。続いたが、続けていけたのもそれまでだった。彼女は無言で僕から離れていった。

 後ろで扉がスーッという音と、機械音を鳴らして閉まった。

 僕は突き放された。
 僕は一人になった。

 横を見れば、エスカレーターの列に並ぶ猫守柳。
 ついて行けば、まだ間に合う。だが、彼女からはついてくるなと言われてしまった。
 付いてくるな。付いてくるな。付いていくとは何だろう。

 付いてくる。それはつまり、認識なんじゃないだろうか。人を付けて、それに相手が気づいて、初めて「付ける」という行為が成立するんじゃないだろうか。

 シュレディンガーの猫じゃないが、屁理屈だが、でも、つまり、その粗悪な理論だと、バレなければ付けていないという事になる。

 バレなければ良いのだろうか。バレなければ、行為は成立しないのだろうか。まあ、この場合、どうでもいいか。

 僕はエスカレーターに向かった。
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