愛玩石

稲葉夏雲

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8話

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 僕は本当に馬鹿な事をしたらしい。
 いや、そんな事、こんな自虐をする前から何回も何回も何回も、言っているし、心の中で唱えているが、今に至って改めて自分の置かれている状況を再確認し、改めての、感想だ。

 そして恐らく、僕はかなり良くない、不味い状況に置かれていることも、確かだった。いや、確か、という言葉の意味はしっかりとしていること、だったから今この状況を説明するには向いていないかもしれない。

 今、僕は前が見えないのだ。まるで失明状態だ。全く「確か」ではない。だが幸いなことに、実際に失明はしていないらしく、目の上から麻の様な、ガサガサした乾いた生地を貼り付けられているだけらしい。

 目が見えないから、五感を最大限に使う努力をして、今置かれている状況を確認しようとする。
 視・聴・嗅・味・触の視が抜けた、聴・嗅・味、触の四つの、いわば四感である。

 聴、無音だ。いや、実際は無音ではない。これは自分の血流の音が聞こえるから無音じゃないとか、そういうつまらないものではなく、本当に微かに物音のような、何かを動かす音、人間が移動する音などが聞こえる——ような気がする。
 視覚が閉じられていると自然と自信が無くなってくる。

 嗅、古臭い、若干の緑を思わせる茶色を思わせる匂い。
 若干の緑を感じさせる茶色——それは、よく祖父母の家に行くと絶対嗅ぐであろう、使い込まれた、シミが出来た、畳の部屋の匂いだった。
 だが実際は視覚が閉じられているから畳かは分からない。

 味、これは、確かめようがない。いや、空気は吸えるから吸って、味わってみる。
 えた空気、の様だった。別に腐っている酸っぱい感じとか、そういうのは一切感じないが、汚れた空気というか、そういう味がした。
 それは廃墟を思わせる味だった。

 触、手は縛られているようだ。だから正座をかかされている脚をもぞもぞ動かし、エコノミー症候群を予防する運動の様に、動かしてみる。その時今着ているであろう柔道着の様な分厚い生地が膝と脛に当たって少し痛かった。
 小さい山のようなものを沢山感じた。何とも奇妙な表現方法だが、そう感じたのだから、そして僕の少ない語彙の中ではそう言うことしか出来ない。そして、ツルツルした感触。
 それは、多分、先に述べたように畳のようだった。何となく日本人の遺伝子がそのツルツルした小さな山の様な感触をイ草だ、と伝えている。

 まあこんな具合にあれこれと忙しく状況、四感について述べてはみたのだが、恐らくこんな長ったらしい説明よりも的確に状況を説明できているのは僕のその状況に置かれていることを理解した時に感じた、単語の方が言い得ているだろう——自意識過剰かもしれない——。

 ——恐怖

 僕は、そう思った。
 何とも肩透かしを食らわせるような感想だが、実際今僕が置かれている状況を説明するなら二文字、「恐怖」という言葉の方が似合っているだろう。誰だって目隠しをされて何処かに置かれているというは恐ろしいだろう。

 さて、そんな思考を張り巡らして五分、いや、十分ぐらいだっただろうか、実際はどうだか知らない。僕の体内時計、体感時計は起床時にしか役に立たないから仕方がない。

 サササ、と、引き戸が、襖が開くような音がした。僕はその襖の開く音にしか聞こえない音を聞いて僕の先の、ここは畳の部屋なんじゃないかという考察に少し自信が持てた。

 「……」

 這入って来た人、だろう物は無言で二つ這入ってきた気配がした。
 その音だけの、気配だけの存在は僕の脇の下に手を入れて、持ち上げる。片方が右脇の下に、もう片方が左脇の下に。

 依然として視界は真っ暗だ。

 そのまま持ち上げられて、半ば引きづられるようにして(自力で歩く気力はない)、その部屋から出たようだった。
 足が敷居をガリッと撫た。

 痛かった。

 敷居の外は木張りの廊下で、ひんやり、いや、酷く冷たかった。今は夜なのだろうか、ひんやりと廊下は気温が低い。

 今更ではあるが、二人の人のような物に持ち上げられた時点で殺されるんじゃないかと思ったが、それは杞憂だったようだ。

 するする、するすると小気味よい音を立てて、僕のつま先と僕はどこかへ連れて行かれている。
 僕はそんな状況でぼんやり考える。

 なぜ、こうなったか。

 僕は、僕は彼女を尾行——ストーキングして、それで、何だ?
 その後をよく覚えていないが——天罰でも食らっていきなりこうなった? いや、そんな事は考え難い。

 僕はふと、僕が着せられている、何色かも知れない、分厚い生地の、柔道着のような服を意識してみる。手が自由に動かせたら触って存分に確認できるのだろうが、残念ながら二つの何かに脇の下をガッシリ掴まれている状況で手は使えない。真逆、腕を無理やり振りほどくなどもっての外だ。

 腹、横腹、胸、背中、肩甲骨に当たる、服。肩には服の重みを感じる。
 これは何か、特別な時に着るような物のような気がした。普段着には重苦しすぎるし、何よりこの服の雰囲気がそんな様な事を言っているような気がする。

 特別な時。それは何だろう。
 葬式、結婚式、いや、そんなものじゃなくて、もっと物々しい事、儼乎げんこたる事、重々しい事。

——儀式?

 そう、思った。何かの儀式の正装だと思った。ならば、僕はこれからどこへ連れて行かれるのだろう。
 儀式、という言葉の響きから連想されるのは嫌な言葉しか連想されないが、それは僕が無知だからだろうか。

 少し不安になった。いや、この状況で枕詞まくらことばに少し、と付くことが可怪しいのだが、なぜだかさっきから、気分がふわふわしていて、僕の特性である不安を大きくすること無く、物事をさっきまで冷静に分析できたのだ。
 だが頭を使いすぎたからか、寝起きのふわふわから覚めてしまったのか、少し、不安になった。

 この不安も次第に大きくなっていってしまうのだろうか——だが、そんな事を考えなくても良かった、いや、考える暇が無くなったと言ったほうが良いのかも知れない。僕はその小さな不安の種、それに気づいた瞬間、体の中に何かの冷たいような、熱いようなものが走り抜けて、スイッチが入ったように何も考えられなくなり、不安になった。怖くなった、恐ろしくなった。

 それは失禁をする程だったらしい。

 気づけば、場所は外に変わっていた。不安の、恐怖の洪水のせいで、流れるままに、流されるままに、ここまで来てしまった。いつどこで室内から屋外に移動したのか、知れない。

 そして何とか、不安を撥ねつけながら、耳を澄ますと地面から、樹の上から、虫の音、何かの鳴き声、山中独特の雰囲気を感じ取ることが出来た。

 つまり、今は山の中を歩かされている——引きづられているらしい。
 幸い、足にはいつ履かされたのか知らないが、わらじのような物を履かされている。だから山道の中に転がっている岩とか、何か硬い樹の実とかで足を怪我することはなかった。

 暫く引きづられると耳が詰まってきた。つまりは標高が上がってきたということなのだろう。いや、しかし緊張のせいで体が変な動きをしているだけかもしれない。

 でも、空気が澄んできたのは確かだった。 目の前は相変わらずの闇。長時間目を布で押さえつけられるのはこうも不愉快で、怖いものだと思った。まるで目の中の内蔵物が全て駄目になってしまうような不安さえ湧いてきた。

 空気は益々冷えて、澄んでいく。それに比例して音の通りも良くなっているようだ。虫の音やらがよく聞こえる。樹の上から聞こえる音は虫の音だし、偶に聞こえるのも何かの動物だろう。つまり、鳥の声がさっきから一切聞こえない。
 つまり、今は夜ということなのだろうか。

 視界が閉じられているから分からない。

 そんな時、目の前が少し明るくなったような、気がした。橙色の光が目の前で揺らいでいるように見えた。しかもそれは複数あるようだ。音やら、布越しにも届く光で感じ取れる。

 ——布越しで光が届く。

 つまり、今は夜ということで確定してしまったようだ。目の前にある光がこの目隠しを貫通するということは、今が昼間だったら目隠しを貫通して光が入ってくるはずである。

 またそこで、不安の波が波音を立てた。先の、スイッチが入ったような不安ではないにしろ、表情筋が半ば、自動的に歪められるほどには恐怖を、不安を感じた。
 その波は、去った後も嫌な余韻を残していった。この先、一生不安の余韻を背負っていかなくてはいけないような、そんな気分になった。

 そう思考を何とか、不安要素で満たされた頭の中で紡いだ所で、僕は頭を、腰を、ぐっと下の方向に押さえられて、跪かされた。まるで重力が瞬間、強くなったような、重力に従わさせられたような自然な力に加えられ方だった。

 燈火は、どうやら四方にあるようだ。そしてそれはどうやら火を使ったものらしい。最初に明かりに遭遇した時もだが、少し温かかった。今は四方にあるようだから歩かされていた時と比べて随分温かい。

 気配、人の気配が僕の左に移る。さっきまで、僕の左右両方に気配が存在していたが、二つとも僕の左へと移ったらしい。
 続けざまに、僕の前に人の気配が出てきた、出現した。その気配が風を切る音が僕の頭上からしたから、どうやら僕と違って立っているらしい。

 前の気配はぱららと、何かを出した。そしてその取り出したものについて考察する暇も与えず、すぐに男は、

『んがぁ!』

 と、受け取り方によっては雄叫び、はたまた間抜けな大声。そんな風に聞こえる声で、叫んだ。

 その後はよく分からなかった。

 男はその後、幾らか声のトーンを落としはしたものの、勢いだけは振らさず、変えず、ましてやこちらを威嚇するような雰囲気も変えずに呪文のようなものをだらだらと、唱えた。

 唱えた、という表現が合っているのか、ついには分からなかったが、何かを「喋っている」という感じでも無かった。

 とりあえず、その、男、と思われる人物はその祝詞のような呪文のようなものを唱え終え、後ろに下がったのが分かった。

 と、そこで、足を縛られた。何のつもりか、この場からもう動かなくてよいということなのだろうか。
 足をカサカサした紐のようなもので縛られ、そして、目隠しが、外された。

 すっといきなり後頭部に手が回され、乱暴にその目隠しを上に引っ張られて目隠しが取れた。

 目に当たる空気が新鮮に、涼しく、冷たく感じられた。その時の僕は、緊張か、何でだか知らないが暑かった。額には汗を感じた。
 そこでその涼しさを楽しめたら良かったのだが、生憎そんな事に喜びを見出せるほど今の僕には心に余裕がない。

 まず目に飛び込んできたのは、中央を開けて整列する、白装束の男たち——いや、男女だった。それらは、皆何か禍々しい雰囲気を放っていたし、目が邪視と化していた。

 その白装束たちは後ろに手を回し、正面を見ている。凝視。そして白装束達が開けている中央——その奥には池? のような物。水面が上空の月を反射して、妖しく光っていた。水面には波一つ立たない。だが、綺麗な水面鏡ではなかった。
 水面があばた肌の様に凸凹と、凹凹と、奇妙にへこんだり盛り上がったりしている。

 よく、見てみた。

 それは、大量の動物、猫の体、首だった。
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