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10話
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走ると、走り続けると、光が見えた。山から降りてきたのだ。もしかしたら先の場所はそう地上から離れていなかったのかも知れない。でも僕には分からなかった。時間という概念が今の僕には感じられなかった。二晩続けて走ったかもしれないし、十分も走っていないかも知れない。
兎に角、町まで降りて来たのだ。少しだけ、安心した。
でもその安心はもちろん気休め、精神安定剤程度にしかならなかった。
——彼女は、
柳はどうなったのか。
それは分からない。
僕はなんにも知らないのだ。状況を見ただけなのだ。何も分からない。
だから僕は一番に家に帰ることにする。逆に、それ以外に考えが思いつかない。僕は今日、なぜ柳、猫守柳を尾行していたかも分からなくなってしまった、有耶無耶になってしまった。
とりあえず僕は頭の中を引っ繰り替えてして今日来た道を思い出そうとした。そして、思い出すことが出来た。何とか。
だけどどういう風に帰ったらいいのか、皆目分からなかった。家々に電気は付いている。つまりまだ時間はそんなに遅くないということだが、それでも僕はどうしたら良いのか分からない。
認知症の人間が、過去の事は思い出せるのに、現在進行の物事を上手く処理出来ないように、僕は記憶を脳髄の海から釣ったが、捌くことが出来ない。
こうなってしまっては本当にどうしようもない。僕は、とりあえず近くの電柱に座り込んだ。
周りには古風な建造物が沢山あった。だが、猫守柳の家は見えなかった。それは幸運だった。
多分、あの家をここでもう一度見てしまったら僕は吐くだろう。もうあんな汚らわしい、穢らわしい真似をしたくない。
僕はそう思って、何を考えるでもなく、ポケットに手を伸ばした————だが、ポケットは無かった。いや、僕の服すら無かった。あるのは、あの白装束だった。
酷く気分が悪くなった。だから、僕は服を脱いだ。腰辺りに巻いてある帯を乱暴に解いて、服を剥いだ。
肌に身に着けているものが褌だけになった僕は寒かった。今考えると、春なのに夜が寒いというのは少しおかしいような気がするが、まあ、仕方がない。
——、
何も、思うことはなかった。ただ呆然と、そこに座り尽くした。
静かである。
ここはあまり人が来ない道なのか、人も全然見ないし、少し明るいだけで、寒いだけで、静かだった。
ただ、僕の横で街灯が光って、民家の明かりが光っているだけだった。
僕の左は街の中心地へと向かう道、右は——山へ向かう道である。
その時
コツコツと、
コツコツと、
僕の右、山の方向から音がした。靴の音——のようだった。脊髄反射的反応で、僕はそちらの方に目を向ける。
奇妙な、服だった。暗い、闇のような服だった。
その人は、こちら目掛けて歩いてきた。
その人は、身長は恐らく、高いのだろうが、服のせいで、推し量るのが難くなっている。
真っ黒い、闇のような、形の良く分からない、奇妙な服を着ていた。袖の長さは腕の長さちょうどに合っている。だが、異常に袖のサイズが大きい。生地があまりに余って腕の下でぶらぶらと揺れている。
だが胴体部は少しだぼっとしているくらいで、袖のように異常にサイズが大きかったりはしていない。それ故上半身の服はかなり奇妙な形に見えた。
手には真っ白な手袋を嵌めている。
ズボンはまたもや黒。だがズボンを履いているのにもかかわらず、脛の三分の二、五位ある袴を着ていた。そしてその袴に噛ませるようにして、ぶら下げるようにして、まるでマジックのチャイナリングのような、鉄製の、成人男性の足の付け根から膝まであるんじゃないかという大きな金属リングを三つぶら下げている。だがそのリングは歩いてもシャン、シャンとか、ジャラ、ジャラとか、そういう音が全く出ず、静かだった。
髪は、服よりも一層黒く、暗く、だらしない長めのショートのような、よくわからない髪型をしていた。
目に、光はなかった。
顔は、よく分からなかった。まず男性か女性か良く分からない、中性的な顔をしていた。顔のパーツは整っているのだろうが、その一つ一つのパーツを認識できるようになるまでは長い時間が掛かりそうだった。
そして片手には大きなトランク。しかも特別に古めかしくて、クラシックな、格好におよそ合わない代物だった。
僕は瞬間、逃げなくては、と、思った。いや、反射として「感じた」だけだから思ってはいないのかも知れない。
彼女——ここでは、彼女としておく——は、疲れ果て、足が鉛のようになって逃げられない僕の方へと、どんどん近づいてきた。
けしてずんずんとか、どんどん、とか、そういう効果音が鳴りそうな、威圧感のある歩き方ではなかった。あくまでも静かな歩だった。
ただ、雰囲気に異常な抵抗を感じるというか、気圧された。
彼女は、ついに僕の目の前へと来てしまった。僕は必死で逃げようとして、彼女の方を見ながら、後ろ手に四つん這いになって後退する。
彼女はそんな僕を、静かに、真っ直ぐに見下ろす。目は僕の目に合わせようとしているのか、僕が視線をあっちこっちにやると彼女は僕の目を半ば、強引に見ようとしてくる。
こういう時、創作作品内では叫んだり、途端に四つん這いになって逃げ出したりするのだろうが、現実はそう甘くなかった。
動くことすら、許されなかった。
彼女は静かに見やり、その整った、光のない目を袖へと移し、袖の中に手を入れた。
ちょうど、和服の袖の下から物を出すように、なにかがさごそと袖の中で手をかき回している。
暫くそんな風に袖の中を引っ掻き回したあと、急に、何の前触れもなく布を取り出した。
服だった。
彼女は無言で差し出してくる。
僕はどうしたものか、やはり手が動かずに、固まってしまう。僕はその差し出された服を見ることしかしなかった、出来なかった。
服は上着が黒、ズボンが白という色だった。正に彼女が持っていそうな色合いである。
その状態で、彼女も固まってしまった。こうなってしまってはどうにも状況が進まない。誰も何も動いていないから、まるで世界が止まってしまったかのようだった。
兎に角、町まで降りて来たのだ。少しだけ、安心した。
でもその安心はもちろん気休め、精神安定剤程度にしかならなかった。
——彼女は、
柳はどうなったのか。
それは分からない。
僕はなんにも知らないのだ。状況を見ただけなのだ。何も分からない。
だから僕は一番に家に帰ることにする。逆に、それ以外に考えが思いつかない。僕は今日、なぜ柳、猫守柳を尾行していたかも分からなくなってしまった、有耶無耶になってしまった。
とりあえず僕は頭の中を引っ繰り替えてして今日来た道を思い出そうとした。そして、思い出すことが出来た。何とか。
だけどどういう風に帰ったらいいのか、皆目分からなかった。家々に電気は付いている。つまりまだ時間はそんなに遅くないということだが、それでも僕はどうしたら良いのか分からない。
認知症の人間が、過去の事は思い出せるのに、現在進行の物事を上手く処理出来ないように、僕は記憶を脳髄の海から釣ったが、捌くことが出来ない。
こうなってしまっては本当にどうしようもない。僕は、とりあえず近くの電柱に座り込んだ。
周りには古風な建造物が沢山あった。だが、猫守柳の家は見えなかった。それは幸運だった。
多分、あの家をここでもう一度見てしまったら僕は吐くだろう。もうあんな汚らわしい、穢らわしい真似をしたくない。
僕はそう思って、何を考えるでもなく、ポケットに手を伸ばした————だが、ポケットは無かった。いや、僕の服すら無かった。あるのは、あの白装束だった。
酷く気分が悪くなった。だから、僕は服を脱いだ。腰辺りに巻いてある帯を乱暴に解いて、服を剥いだ。
肌に身に着けているものが褌だけになった僕は寒かった。今考えると、春なのに夜が寒いというのは少しおかしいような気がするが、まあ、仕方がない。
——、
何も、思うことはなかった。ただ呆然と、そこに座り尽くした。
静かである。
ここはあまり人が来ない道なのか、人も全然見ないし、少し明るいだけで、寒いだけで、静かだった。
ただ、僕の横で街灯が光って、民家の明かりが光っているだけだった。
僕の左は街の中心地へと向かう道、右は——山へ向かう道である。
その時
コツコツと、
コツコツと、
僕の右、山の方向から音がした。靴の音——のようだった。脊髄反射的反応で、僕はそちらの方に目を向ける。
奇妙な、服だった。暗い、闇のような服だった。
その人は、こちら目掛けて歩いてきた。
その人は、身長は恐らく、高いのだろうが、服のせいで、推し量るのが難くなっている。
真っ黒い、闇のような、形の良く分からない、奇妙な服を着ていた。袖の長さは腕の長さちょうどに合っている。だが、異常に袖のサイズが大きい。生地があまりに余って腕の下でぶらぶらと揺れている。
だが胴体部は少しだぼっとしているくらいで、袖のように異常にサイズが大きかったりはしていない。それ故上半身の服はかなり奇妙な形に見えた。
手には真っ白な手袋を嵌めている。
ズボンはまたもや黒。だがズボンを履いているのにもかかわらず、脛の三分の二、五位ある袴を着ていた。そしてその袴に噛ませるようにして、ぶら下げるようにして、まるでマジックのチャイナリングのような、鉄製の、成人男性の足の付け根から膝まであるんじゃないかという大きな金属リングを三つぶら下げている。だがそのリングは歩いてもシャン、シャンとか、ジャラ、ジャラとか、そういう音が全く出ず、静かだった。
髪は、服よりも一層黒く、暗く、だらしない長めのショートのような、よくわからない髪型をしていた。
目に、光はなかった。
顔は、よく分からなかった。まず男性か女性か良く分からない、中性的な顔をしていた。顔のパーツは整っているのだろうが、その一つ一つのパーツを認識できるようになるまでは長い時間が掛かりそうだった。
そして片手には大きなトランク。しかも特別に古めかしくて、クラシックな、格好におよそ合わない代物だった。
僕は瞬間、逃げなくては、と、思った。いや、反射として「感じた」だけだから思ってはいないのかも知れない。
彼女——ここでは、彼女としておく——は、疲れ果て、足が鉛のようになって逃げられない僕の方へと、どんどん近づいてきた。
けしてずんずんとか、どんどん、とか、そういう効果音が鳴りそうな、威圧感のある歩き方ではなかった。あくまでも静かな歩だった。
ただ、雰囲気に異常な抵抗を感じるというか、気圧された。
彼女は、ついに僕の目の前へと来てしまった。僕は必死で逃げようとして、彼女の方を見ながら、後ろ手に四つん這いになって後退する。
彼女はそんな僕を、静かに、真っ直ぐに見下ろす。目は僕の目に合わせようとしているのか、僕が視線をあっちこっちにやると彼女は僕の目を半ば、強引に見ようとしてくる。
こういう時、創作作品内では叫んだり、途端に四つん這いになって逃げ出したりするのだろうが、現実はそう甘くなかった。
動くことすら、許されなかった。
彼女は静かに見やり、その整った、光のない目を袖へと移し、袖の中に手を入れた。
ちょうど、和服の袖の下から物を出すように、なにかがさごそと袖の中で手をかき回している。
暫くそんな風に袖の中を引っ掻き回したあと、急に、何の前触れもなく布を取り出した。
服だった。
彼女は無言で差し出してくる。
僕はどうしたものか、やはり手が動かずに、固まってしまう。僕はその差し出された服を見ることしかしなかった、出来なかった。
服は上着が黒、ズボンが白という色だった。正に彼女が持っていそうな色合いである。
その状態で、彼女も固まってしまった。こうなってしまってはどうにも状況が進まない。誰も何も動いていないから、まるで世界が止まってしまったかのようだった。
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