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西芳寺ルカ
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5月7日木曜日。
天気は晴れ。
時刻は朝の8時。
普段どおりの登校時間。
私立白波学院。
県内の御三家に名を連ねる成績優秀なミッションスクール。僕の通う学校だ。
今でこそ閑静な住宅街だが、学校が移転してきた頃はニュータウン開発前だったと聞く。
それ故に実現された広大な敷地には、吹き抜けで繋がった普通教室棟と特別教室棟に加え、部室棟、礼拝堂のある修道院、全校生徒が収容可能な講堂、グラウンドにサブグラウンド、緑の豊かな中庭、テニスコートといった設備が備わっている。
一学年二百人にも満たない規模の高校にしては行き過ぎたインフラだが、始業前や昼休み、放課後はそれなりに賑わうものだ。
しかし今日は、開け放たれた校門をくぐっても、まるで人の気配はない。
まるで遅刻して授業時間中に登校しているみたいだ。
いや、それだって、校庭からは体育の授業中の声が聞こえるし、校門からほど近いところにある音楽室からは演奏や歌声が聞こえるだろう。
コンクリート製の角張った校舎は、通い慣れたはずなのにどこか余所余所しい。
人がいないだけでこんなに居心地が悪いとは思わなかった。
そそくさと昇降口へ向かう。
誰もいないしんとした校舎。
一人で居るだけで、どこかから誰かに監視されているような妄想をしてしまうのは、僕だけではないだろう。
誰かに言い訳するように、不自然じゃない程度にあたりを伺いながら、僕は普通教室棟に背を向ける。
特別教室棟の階段を二つ降り、地下一階の廊下を行く。
吹き抜けから注ぐ陽の光を避けるように、奥まった部屋。
PC教室の鍵は閉まっているべきだ。
鍵は要らないとアイツは言っていたけれど……
その言葉を信じて来てみると、残念なことに正しかったようだ。
キィと音を立てて開いた扉。地下にある教室には吹き抜けからの光が申し訳程度に入るものの、薄っすらと暗い。
数十年前の校舎移転時には想定されていなかった後付の教室。
特別教室の中でも利用頻度の低いその部屋の、更に奥にある準備室の扉を叩く。
「空いているよ」
聞き慣れた声。
喉の奥から絞り出したような声で、これほど安心する日が来るとは。
全ての命が死に絶えたような校舎においては、こんな奴でさえも救いになるのだ。
そんな本心を気取られて得することはなにもない。
短い息を吐いて、僕は目の前の扉を開けた。
◇ ◇ ◇ ◇
陽の当たらない部屋。
云十人の学生を相手にする教室と比べるまでもなく狭い、縦に細長い部屋。
準備室、と呼ばれるその部屋の、正式名称を僕は知らない。
左右と突き当りの壁には金属製の無骨な棚が並ぶ。
その棚にぎゅうぎゅうに詰められた本を照らすのは、備え付けの蛍光灯ではない。
薄暗い部屋の片隅に立てられた背の高い間接照明がぼんやりと橙色に灯る。
部屋の奥に据えられた古めかしい大机には似合わない薄型のディスプレイが、その光をも遮っていた。
「おはよう、エバくん。今日は早かったね」
ディスプレイが喋った。
のではない。
その向こうで、革張りの椅子に腰掛ける声の主がいる。
西芳寺ルカ。
僕のただ一人の幼馴染は、目の前の机に足を置き、これ以上無いほど深々と革張りの椅子に腰掛けていた。
「西芳寺、はしたないから辞めるんだ」
「大丈夫、靴は脱いでいる」
西芳寺は、自分のお腹に抱え込んだPCから手を離さず、目もそらさずに、裸足の足をグーパーした。
何が大丈夫なんだ?
床にはローファが散らばっている。
靴下は見当たらない。
家から裸足ならまだ良いが、どこかで脱ぎ散らかしているのは最悪だ。
いつどこから靴下が出てくるのか、怯えて暮らしたくはない。
ローファを机の脇に揃えてやると、画面から目を上げた西芳寺と目が合った。
西芳寺はそのまま両手をこちらに放り出す。
「もう準備はできている。ボクの濡れた身体を、キミの熱で温めてくれ」
血色が悪い引き篭もり少女にしては珍しく、赤く火照った頬。
湿り気を帯びて深まる黒髪と、色素の薄い肌とのコントラスト。
中途半端に開いたブラウスからはインナーが覗いている。
とろんと垂れた気だるそうな目に吸い込まれそうになる。
完璧な不意打ちだった。
刺激的な視覚情報にぶん殴られた僕は、思わず目を逸らす。
「お? お?」
ギィギィと愉しげに背もたれが揺れる。
「これはどうした、エバくん。見慣れた幼馴染の意外に大人な一面に、やられちまったかい?」
「違う。断じて。そもそも、『大人な一面』って、そういう意味じゃないだろう」
「本題をそこそこに揚げ足取りに走るのは、図星って自白しているようなものだよ」
「いいから、ちゃんと服を着ろ。もう来ないぞ」
「な、なんだと!?」
西芳寺はPCを投げ出して裸足のまま立ち上がった。
襟元までボタンを締めると、脇に置かれていたリボンを手に取る。
「ちょっとふざけただけじゃないか。冗談が通じないようでは、モテないぞ」
「余計なお世話だ。そんなびしょ濡れで、何をしていたんだよ」
こんなおふざけで、万が一風邪を引いたら本物の馬鹿だ。
「シャワーを浴びていたんだよ。ちょうど」
「こんな時間に?」
「ああ。いつもそうだよ」
あっという間に身支度を終えて再び革の椅子に腰を掛ける。
小柄な西芳寺にはどう見ても大きすぎるが、事実上この椅子は彼女専用のものだ。
「ホームルームが始まるのでね。誰もいなくて快適なんだよ」
本校で唯一人、ホームルームに出なくて良い生徒は小さく笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
西芳寺ルカ。
僕のただ一人の幼馴染。
僕と同じ高校二年生。
けれど、クラスは違う……はずだ。
というか、彼女はどこかのクラスに所属しているのだろうか? それすら怪しい。
西芳寺は、昨年の半ばまでは他の生徒と同じように、普通に学校生活を送っていたのだが、色々あって、もう半年以上、彼女はこの準備室に登校していた。
本当に色々あった。
各所の名誉のために多くは語れないが、昨年末の一件は、数名の退学者を生み、僕の幼馴染は他の生徒から隔離されることとなった。
けれど、彼女が一方的な敗北者では決してないことは、この部屋をまるで己の城のように我が物顔で使っていることからも分かるだろう。
それどころか、この準備室からは学内ネットワークのほぼ全てが閲覧できるのだという。
そんな横暴が赦されているのは、国内有数の名家である西芳寺の家と、彼女自身の類まれなる学力という強大な後ろ盾があるからだ。
莫大な寄付金と理Ⅲ合格確約を引き換えに、彼女は自由を手に入れたが、普通の高校生活を買うには足りなかったらしい。
「でも、西芳寺が朝から登校しているのは意外だったよ。てっきり、お昼くらいから来ているのかと……」
「昼に一人で電車通学というのも目立つからね。制服を着ている以上、学校にも迷惑がかかる」
正論だ。
ソファに移動した西芳寺にコーヒーを渡して、向かい合わせに腰を下ろす。
せっかく淹れてやったコーヒーに、西芳寺はバカみたいな量の砂糖を注ぐ。
「それに、毎朝エバくんにおはようのLINEを送る為に早起きは習慣になってるからね」
「僕が一度も返信してないことで何かを察して欲しいな」
「毎朝すぐに既読がつくことで十分察しているよ」
西芳寺はいくらかかさの増えたコーヒーを口に運ぶ。
「しかし、まさか、こんなことになるとはね」
「ああ、休校のこと?」
「そのおかげで、朝からこうして、エバくんが会いに来てくれるのだから、ボクにとってはありがたい話だがね」
「お前がちゃんと学校を休んでくれれば僕も登校しなくて済んだんだけど……」
僕はブラックのままコーヒーを飲む。
間違いなく美味い。
いつものことながらこれを砂糖漬けにされるのは悔しいが、それでも西芳寺は僕のコーヒーが好きだと言う。
「しかしね、エバくん。改めて、こんな日に登校して良かったのかい?」
「だって、西芳寺が登校するって言うから。そしたら僕が休むわけにはいかないだろう?」
「それもそうか。それもそうだね」
西芳寺は頷きながら、薄く笑みを浮かべた。
その様子は、面白がっているようにも、嬉しそうにも見えた。
「さて――それじゃあ、そろそろ本題に移ろうか」
◇ ◇ ◇ ◇
本題。
僕たちの会話に本題なんてものがあったことは無いだろうに。
穏やかに垂れた目つきで、西芳寺は僕を見ている。
「5月7日。本日付で明けるはずだった長期連休は、そのまま臨時休校になった。連休は明けなかった。理由は、片付けきることが出来なかったからだ」
「そうかな。校門からここまでは、もうすっかり綺麗なものだったよ」
「物理的には片付くだろうさ。じゃあ聞くけど、『すっかり綺麗に片付いている』『にもかかわらず、休校措置が取られた』のは何故だろう」
おかしなことを聞く。
「だって、一晩で80人の学生が飛び降りて亡くなったんだ。連休が明けたからって授業を再開できるわけないさ」
それは4月末のことだった。
連休前の最終登校日、いつものように学校を訪れた僕たちが目にしたのは無数のブルーシートで覆われた校舎だった。
慌ただしく開催された臨時の全校集会で、狼狽した様子の校長から、前夜に起こった荒唐無稽な事件のあらましが語られた。
学校の敷地の至るところから飛び降りた生徒たち。
その数はおおよそ80人。
学年もクラスも部活動も、およそ共通点らしいものはない。
連休中は羽目を外さないようにくれぐれも気をつけて。
「しかしね、連休中から今に至るまで、この事件は報道されたか? 少子高齢化社会でこれだけの将来有望な若者が亡くなったんだ。前代未聞のスキャンダルだ。連休前の申し訳程度の箝口令に、どれだけの効果がある。亡くなった生徒の親が結託するまでもなく、報道しない理由はあるか? 警察も出入りしていたが、未だにだんまりだ」
「それは――」
「綺麗に片付いた校舎。抑え込まれた世間の声。『何事もなかった』と言い張る為に、想像もつかないほどのコストを掛けている。それなのに『連休明けに学校を再開できませんでした』は最悪のムーブではないかな」
滔々と紡がれる論理。
休校になったにもかかわらず、校舎は解錠されていた。
連休中から引き続き、部活動や委員会活動も全面的に禁止、といった措置の重さに反して、学校自体は「普通」を貫いている。
その無意味なポーズは、あくまで「事件などなかった」という意思表示だとすれば。
理解は出来ないけれど、ありえない話ではないのかもしれない。
「けどさ、西芳寺。お前の言うとおりだとして、こんなこと、いつまでも続けられるはずがない」
「いつか世間は気付くだろう。時間がない。それまでに解決せねばならない。そう思っているだろうね」
「解決って……つまり、何だよ」
「簡単さ」
意地悪く笑う西芳寺。
「犯人を捕まえて、全部押し付けてしまえば良い。それが、この学校の、いつものやり口さ。昨年末のことを忘れたかい?」
西芳寺がこの準備室の主となった事件。
西芳寺が普通の生徒ではいられなくなった事件。
忘れられるはずがない。
僕が隣で、どんな思いで見ていたか、分かっているのか?
「……エバくん、顔が怖いよ」
「お前のせいだろう」
「気に障ったなら謝る」
言って、西芳寺は僕から目を逸らす。
チャイムが鳴り、蚊の鳴くような彼女の謝罪は掻き消された。
◇ ◇ ◇ ◇
「西芳寺。お前の言うことが、常に100%正しいとは僕は思わない」
飛び降り自殺の痕なんて、できるだけ早く片付けてしまうのは当たり前のことだ。
報道や警察が報じないのは、学校からの指示かもしれないが、それだって生徒を守るためだと考えられる。
そう思えば、むしろ学校はよくやっている。
僕たちを守ろうとしてくれている。
西芳寺。
お前の語る理屈は、大量の砂糖でコーティングされて、最早それはコーヒーではない。
けれど、それでも僕は、たった一人の幼馴染を、昨年末に守れなかったお前を、その全てを敢えて受け入れよう。
「お前の言う本題ってのは、つまり、何だ?」
「学校は、犯人を待望している」
トロンとした、夢を見るような表情で西芳寺は言った。
「犯人にふさわしいのはどんな人だと思う?」
とある小学校の教師は、最初の授業で顔を見ただけで、その子の性格から家庭環境まで、あらかた見当がつくのだという。
テッド・バンディがシリアルキラーだというのは、意外性もあれば説得力もあった。
「80人の飛び降りだなんて、荒唐無稽で前代未聞の事件の犯人として名指しされるのはどんな人物だろう」
「……何が言いたいんだ?」
「残念ながら、ボクほど犯人としてしっくりくる人物もいないんだ。困ったことに」
本当に困ったことに、否定することはまるで出来なかった。
「確かに、こんな日に登校しているくらいだし、言い訳のしようもないね」
「そういうことだよ、エバくん。キミは実に察しが良い。本当に大好きだよ」
おもむろに立ち上がった西芳寺はそのままくるりと身を翻して僕の隣に腰を下ろした。
さっと身をかわすも、狭いソファの上でギュッと密着する。
薄くてヒョロい僕とは違う、小柄で柔らかい西芳寺の身体が押し付けられる。
「今日、登校している学生はだいぶ頭がおかしい。ボクもそう思う」
「自覚があったようで良かったよ」
「そして、そんな学生はボクらだけじゃない」
懐からスマホを取り出した西芳寺。
その画面には幾人かの名前がリストアップされていた。
時刻とともに名前が書かれたそれは、今日の登校者リストらしい。
ご丁寧に僕の名前もある。
どうやって作成、入手したのかはわからないが、それが西芳寺にとって然程難しいことではないのは分かる。
「犯人にふさわしい学生ランキングのトップに燦然と輝くボクも、犯人はボクのような奴だと思うんだ。そしてそいつは、きっと今日も学校に来ている」
西芳寺がスルスルとスマホをタップすると、僕のポケットのスマホが震えた。
「犯人は、今日登校している学生の中にいる――今リストを送ったけど、ものの見事に女子生徒ばかりだね」
「それで、これからどうしようっていうんだ? 一人ひとり会いに行って話を聞くつもりか?」
「ああ、そうだよ。キミがね」
「なんでだ!?」
反射的に大声を出してしまい、反省する。
僕の腕に絡みつきながら西芳寺は悪びれることもなく告げる。
「なんでって、ボクはさっきも言った通り、犯人予想ランキング堂々の第一位だよ。登校しているだけでもかなりアレなのに、この上校内を歩き回るだなんて、怪しさ満点の行動、リスクが大きすぎる。そうでなくても例の件以降、ボクは有名人なんだ。急に彼女たちの元に出向いても警戒されて、まともに話なんて聞けないよ」
本当に困ったことに、これまた否定することは出来ない。
「その点、エバくん。キミは囲碁将棋同好会に所属していることをクラスメイトにも知られていない見事な影の薄さを誇る。こだわりのない髪型も爽やかと言えなくもないし、少し頼りないくらいの方が信用を得やすい。見事な諜報員になれるよ」
「お前は僕のことを褒めてるのか? 貶してるのか?」
「価値判断を挟まない、客観的な事実の報告だよ」
白々しいことを。
猫のように纏わりつく幼馴染を引っ剥がして立ち上がる。
フギャッと声を上げてソファに倒れ込んだ西芳寺を見下ろす。
「分かったよ。つまり、僕がこいつらに話を聞いてくれば良いんだろう?」
「正確には、犯人を見つけてきてくれれば良いんだけどね」
「成果は期待するなよ。僕はお前と違って、ただの学生なんだから」
「困ったり迷ったりしたら、すぐにLINEしてくれていいよ。それに、ボクもここでずっと見ている」
「了解」
返事もそこそこに早速荷物をまとめる。
といっても、大したものは持ってきていないし、何が必要になるのかも分からない。
スマホと財布だけのスカスカなリュックは、犯人を探す装備としてはいささか心もとない。
肉弾戦をしにいくわけではないとはいえ、もう少し格好つかないものか。
「エバくん」
振り返ると、ソファに倒れ込み、横になった西芳寺がいた。
重力に従って流れた黒髪をかき分け、大きな瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「エバくん、ボクはキミを本当に愛しているよ。本当に。本当に。それだけは信じてくれ」
おかしなことを言うな。
「当たり前だろ」
僕は準備室を後にした。
天気は晴れ。
時刻は朝の8時。
普段どおりの登校時間。
私立白波学院。
県内の御三家に名を連ねる成績優秀なミッションスクール。僕の通う学校だ。
今でこそ閑静な住宅街だが、学校が移転してきた頃はニュータウン開発前だったと聞く。
それ故に実現された広大な敷地には、吹き抜けで繋がった普通教室棟と特別教室棟に加え、部室棟、礼拝堂のある修道院、全校生徒が収容可能な講堂、グラウンドにサブグラウンド、緑の豊かな中庭、テニスコートといった設備が備わっている。
一学年二百人にも満たない規模の高校にしては行き過ぎたインフラだが、始業前や昼休み、放課後はそれなりに賑わうものだ。
しかし今日は、開け放たれた校門をくぐっても、まるで人の気配はない。
まるで遅刻して授業時間中に登校しているみたいだ。
いや、それだって、校庭からは体育の授業中の声が聞こえるし、校門からほど近いところにある音楽室からは演奏や歌声が聞こえるだろう。
コンクリート製の角張った校舎は、通い慣れたはずなのにどこか余所余所しい。
人がいないだけでこんなに居心地が悪いとは思わなかった。
そそくさと昇降口へ向かう。
誰もいないしんとした校舎。
一人で居るだけで、どこかから誰かに監視されているような妄想をしてしまうのは、僕だけではないだろう。
誰かに言い訳するように、不自然じゃない程度にあたりを伺いながら、僕は普通教室棟に背を向ける。
特別教室棟の階段を二つ降り、地下一階の廊下を行く。
吹き抜けから注ぐ陽の光を避けるように、奥まった部屋。
PC教室の鍵は閉まっているべきだ。
鍵は要らないとアイツは言っていたけれど……
その言葉を信じて来てみると、残念なことに正しかったようだ。
キィと音を立てて開いた扉。地下にある教室には吹き抜けからの光が申し訳程度に入るものの、薄っすらと暗い。
数十年前の校舎移転時には想定されていなかった後付の教室。
特別教室の中でも利用頻度の低いその部屋の、更に奥にある準備室の扉を叩く。
「空いているよ」
聞き慣れた声。
喉の奥から絞り出したような声で、これほど安心する日が来るとは。
全ての命が死に絶えたような校舎においては、こんな奴でさえも救いになるのだ。
そんな本心を気取られて得することはなにもない。
短い息を吐いて、僕は目の前の扉を開けた。
◇ ◇ ◇ ◇
陽の当たらない部屋。
云十人の学生を相手にする教室と比べるまでもなく狭い、縦に細長い部屋。
準備室、と呼ばれるその部屋の、正式名称を僕は知らない。
左右と突き当りの壁には金属製の無骨な棚が並ぶ。
その棚にぎゅうぎゅうに詰められた本を照らすのは、備え付けの蛍光灯ではない。
薄暗い部屋の片隅に立てられた背の高い間接照明がぼんやりと橙色に灯る。
部屋の奥に据えられた古めかしい大机には似合わない薄型のディスプレイが、その光をも遮っていた。
「おはよう、エバくん。今日は早かったね」
ディスプレイが喋った。
のではない。
その向こうで、革張りの椅子に腰掛ける声の主がいる。
西芳寺ルカ。
僕のただ一人の幼馴染は、目の前の机に足を置き、これ以上無いほど深々と革張りの椅子に腰掛けていた。
「西芳寺、はしたないから辞めるんだ」
「大丈夫、靴は脱いでいる」
西芳寺は、自分のお腹に抱え込んだPCから手を離さず、目もそらさずに、裸足の足をグーパーした。
何が大丈夫なんだ?
床にはローファが散らばっている。
靴下は見当たらない。
家から裸足ならまだ良いが、どこかで脱ぎ散らかしているのは最悪だ。
いつどこから靴下が出てくるのか、怯えて暮らしたくはない。
ローファを机の脇に揃えてやると、画面から目を上げた西芳寺と目が合った。
西芳寺はそのまま両手をこちらに放り出す。
「もう準備はできている。ボクの濡れた身体を、キミの熱で温めてくれ」
血色が悪い引き篭もり少女にしては珍しく、赤く火照った頬。
湿り気を帯びて深まる黒髪と、色素の薄い肌とのコントラスト。
中途半端に開いたブラウスからはインナーが覗いている。
とろんと垂れた気だるそうな目に吸い込まれそうになる。
完璧な不意打ちだった。
刺激的な視覚情報にぶん殴られた僕は、思わず目を逸らす。
「お? お?」
ギィギィと愉しげに背もたれが揺れる。
「これはどうした、エバくん。見慣れた幼馴染の意外に大人な一面に、やられちまったかい?」
「違う。断じて。そもそも、『大人な一面』って、そういう意味じゃないだろう」
「本題をそこそこに揚げ足取りに走るのは、図星って自白しているようなものだよ」
「いいから、ちゃんと服を着ろ。もう来ないぞ」
「な、なんだと!?」
西芳寺はPCを投げ出して裸足のまま立ち上がった。
襟元までボタンを締めると、脇に置かれていたリボンを手に取る。
「ちょっとふざけただけじゃないか。冗談が通じないようでは、モテないぞ」
「余計なお世話だ。そんなびしょ濡れで、何をしていたんだよ」
こんなおふざけで、万が一風邪を引いたら本物の馬鹿だ。
「シャワーを浴びていたんだよ。ちょうど」
「こんな時間に?」
「ああ。いつもそうだよ」
あっという間に身支度を終えて再び革の椅子に腰を掛ける。
小柄な西芳寺にはどう見ても大きすぎるが、事実上この椅子は彼女専用のものだ。
「ホームルームが始まるのでね。誰もいなくて快適なんだよ」
本校で唯一人、ホームルームに出なくて良い生徒は小さく笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
西芳寺ルカ。
僕のただ一人の幼馴染。
僕と同じ高校二年生。
けれど、クラスは違う……はずだ。
というか、彼女はどこかのクラスに所属しているのだろうか? それすら怪しい。
西芳寺は、昨年の半ばまでは他の生徒と同じように、普通に学校生活を送っていたのだが、色々あって、もう半年以上、彼女はこの準備室に登校していた。
本当に色々あった。
各所の名誉のために多くは語れないが、昨年末の一件は、数名の退学者を生み、僕の幼馴染は他の生徒から隔離されることとなった。
けれど、彼女が一方的な敗北者では決してないことは、この部屋をまるで己の城のように我が物顔で使っていることからも分かるだろう。
それどころか、この準備室からは学内ネットワークのほぼ全てが閲覧できるのだという。
そんな横暴が赦されているのは、国内有数の名家である西芳寺の家と、彼女自身の類まれなる学力という強大な後ろ盾があるからだ。
莫大な寄付金と理Ⅲ合格確約を引き換えに、彼女は自由を手に入れたが、普通の高校生活を買うには足りなかったらしい。
「でも、西芳寺が朝から登校しているのは意外だったよ。てっきり、お昼くらいから来ているのかと……」
「昼に一人で電車通学というのも目立つからね。制服を着ている以上、学校にも迷惑がかかる」
正論だ。
ソファに移動した西芳寺にコーヒーを渡して、向かい合わせに腰を下ろす。
せっかく淹れてやったコーヒーに、西芳寺はバカみたいな量の砂糖を注ぐ。
「それに、毎朝エバくんにおはようのLINEを送る為に早起きは習慣になってるからね」
「僕が一度も返信してないことで何かを察して欲しいな」
「毎朝すぐに既読がつくことで十分察しているよ」
西芳寺はいくらかかさの増えたコーヒーを口に運ぶ。
「しかし、まさか、こんなことになるとはね」
「ああ、休校のこと?」
「そのおかげで、朝からこうして、エバくんが会いに来てくれるのだから、ボクにとってはありがたい話だがね」
「お前がちゃんと学校を休んでくれれば僕も登校しなくて済んだんだけど……」
僕はブラックのままコーヒーを飲む。
間違いなく美味い。
いつものことながらこれを砂糖漬けにされるのは悔しいが、それでも西芳寺は僕のコーヒーが好きだと言う。
「しかしね、エバくん。改めて、こんな日に登校して良かったのかい?」
「だって、西芳寺が登校するって言うから。そしたら僕が休むわけにはいかないだろう?」
「それもそうか。それもそうだね」
西芳寺は頷きながら、薄く笑みを浮かべた。
その様子は、面白がっているようにも、嬉しそうにも見えた。
「さて――それじゃあ、そろそろ本題に移ろうか」
◇ ◇ ◇ ◇
本題。
僕たちの会話に本題なんてものがあったことは無いだろうに。
穏やかに垂れた目つきで、西芳寺は僕を見ている。
「5月7日。本日付で明けるはずだった長期連休は、そのまま臨時休校になった。連休は明けなかった。理由は、片付けきることが出来なかったからだ」
「そうかな。校門からここまでは、もうすっかり綺麗なものだったよ」
「物理的には片付くだろうさ。じゃあ聞くけど、『すっかり綺麗に片付いている』『にもかかわらず、休校措置が取られた』のは何故だろう」
おかしなことを聞く。
「だって、一晩で80人の学生が飛び降りて亡くなったんだ。連休が明けたからって授業を再開できるわけないさ」
それは4月末のことだった。
連休前の最終登校日、いつものように学校を訪れた僕たちが目にしたのは無数のブルーシートで覆われた校舎だった。
慌ただしく開催された臨時の全校集会で、狼狽した様子の校長から、前夜に起こった荒唐無稽な事件のあらましが語られた。
学校の敷地の至るところから飛び降りた生徒たち。
その数はおおよそ80人。
学年もクラスも部活動も、およそ共通点らしいものはない。
連休中は羽目を外さないようにくれぐれも気をつけて。
「しかしね、連休中から今に至るまで、この事件は報道されたか? 少子高齢化社会でこれだけの将来有望な若者が亡くなったんだ。前代未聞のスキャンダルだ。連休前の申し訳程度の箝口令に、どれだけの効果がある。亡くなった生徒の親が結託するまでもなく、報道しない理由はあるか? 警察も出入りしていたが、未だにだんまりだ」
「それは――」
「綺麗に片付いた校舎。抑え込まれた世間の声。『何事もなかった』と言い張る為に、想像もつかないほどのコストを掛けている。それなのに『連休明けに学校を再開できませんでした』は最悪のムーブではないかな」
滔々と紡がれる論理。
休校になったにもかかわらず、校舎は解錠されていた。
連休中から引き続き、部活動や委員会活動も全面的に禁止、といった措置の重さに反して、学校自体は「普通」を貫いている。
その無意味なポーズは、あくまで「事件などなかった」という意思表示だとすれば。
理解は出来ないけれど、ありえない話ではないのかもしれない。
「けどさ、西芳寺。お前の言うとおりだとして、こんなこと、いつまでも続けられるはずがない」
「いつか世間は気付くだろう。時間がない。それまでに解決せねばならない。そう思っているだろうね」
「解決って……つまり、何だよ」
「簡単さ」
意地悪く笑う西芳寺。
「犯人を捕まえて、全部押し付けてしまえば良い。それが、この学校の、いつものやり口さ。昨年末のことを忘れたかい?」
西芳寺がこの準備室の主となった事件。
西芳寺が普通の生徒ではいられなくなった事件。
忘れられるはずがない。
僕が隣で、どんな思いで見ていたか、分かっているのか?
「……エバくん、顔が怖いよ」
「お前のせいだろう」
「気に障ったなら謝る」
言って、西芳寺は僕から目を逸らす。
チャイムが鳴り、蚊の鳴くような彼女の謝罪は掻き消された。
◇ ◇ ◇ ◇
「西芳寺。お前の言うことが、常に100%正しいとは僕は思わない」
飛び降り自殺の痕なんて、できるだけ早く片付けてしまうのは当たり前のことだ。
報道や警察が報じないのは、学校からの指示かもしれないが、それだって生徒を守るためだと考えられる。
そう思えば、むしろ学校はよくやっている。
僕たちを守ろうとしてくれている。
西芳寺。
お前の語る理屈は、大量の砂糖でコーティングされて、最早それはコーヒーではない。
けれど、それでも僕は、たった一人の幼馴染を、昨年末に守れなかったお前を、その全てを敢えて受け入れよう。
「お前の言う本題ってのは、つまり、何だ?」
「学校は、犯人を待望している」
トロンとした、夢を見るような表情で西芳寺は言った。
「犯人にふさわしいのはどんな人だと思う?」
とある小学校の教師は、最初の授業で顔を見ただけで、その子の性格から家庭環境まで、あらかた見当がつくのだという。
テッド・バンディがシリアルキラーだというのは、意外性もあれば説得力もあった。
「80人の飛び降りだなんて、荒唐無稽で前代未聞の事件の犯人として名指しされるのはどんな人物だろう」
「……何が言いたいんだ?」
「残念ながら、ボクほど犯人としてしっくりくる人物もいないんだ。困ったことに」
本当に困ったことに、否定することはまるで出来なかった。
「確かに、こんな日に登校しているくらいだし、言い訳のしようもないね」
「そういうことだよ、エバくん。キミは実に察しが良い。本当に大好きだよ」
おもむろに立ち上がった西芳寺はそのままくるりと身を翻して僕の隣に腰を下ろした。
さっと身をかわすも、狭いソファの上でギュッと密着する。
薄くてヒョロい僕とは違う、小柄で柔らかい西芳寺の身体が押し付けられる。
「今日、登校している学生はだいぶ頭がおかしい。ボクもそう思う」
「自覚があったようで良かったよ」
「そして、そんな学生はボクらだけじゃない」
懐からスマホを取り出した西芳寺。
その画面には幾人かの名前がリストアップされていた。
時刻とともに名前が書かれたそれは、今日の登校者リストらしい。
ご丁寧に僕の名前もある。
どうやって作成、入手したのかはわからないが、それが西芳寺にとって然程難しいことではないのは分かる。
「犯人にふさわしい学生ランキングのトップに燦然と輝くボクも、犯人はボクのような奴だと思うんだ。そしてそいつは、きっと今日も学校に来ている」
西芳寺がスルスルとスマホをタップすると、僕のポケットのスマホが震えた。
「犯人は、今日登校している学生の中にいる――今リストを送ったけど、ものの見事に女子生徒ばかりだね」
「それで、これからどうしようっていうんだ? 一人ひとり会いに行って話を聞くつもりか?」
「ああ、そうだよ。キミがね」
「なんでだ!?」
反射的に大声を出してしまい、反省する。
僕の腕に絡みつきながら西芳寺は悪びれることもなく告げる。
「なんでって、ボクはさっきも言った通り、犯人予想ランキング堂々の第一位だよ。登校しているだけでもかなりアレなのに、この上校内を歩き回るだなんて、怪しさ満点の行動、リスクが大きすぎる。そうでなくても例の件以降、ボクは有名人なんだ。急に彼女たちの元に出向いても警戒されて、まともに話なんて聞けないよ」
本当に困ったことに、これまた否定することは出来ない。
「その点、エバくん。キミは囲碁将棋同好会に所属していることをクラスメイトにも知られていない見事な影の薄さを誇る。こだわりのない髪型も爽やかと言えなくもないし、少し頼りないくらいの方が信用を得やすい。見事な諜報員になれるよ」
「お前は僕のことを褒めてるのか? 貶してるのか?」
「価値判断を挟まない、客観的な事実の報告だよ」
白々しいことを。
猫のように纏わりつく幼馴染を引っ剥がして立ち上がる。
フギャッと声を上げてソファに倒れ込んだ西芳寺を見下ろす。
「分かったよ。つまり、僕がこいつらに話を聞いてくれば良いんだろう?」
「正確には、犯人を見つけてきてくれれば良いんだけどね」
「成果は期待するなよ。僕はお前と違って、ただの学生なんだから」
「困ったり迷ったりしたら、すぐにLINEしてくれていいよ。それに、ボクもここでずっと見ている」
「了解」
返事もそこそこに早速荷物をまとめる。
といっても、大したものは持ってきていないし、何が必要になるのかも分からない。
スマホと財布だけのスカスカなリュックは、犯人を探す装備としてはいささか心もとない。
肉弾戦をしにいくわけではないとはいえ、もう少し格好つかないものか。
「エバくん」
振り返ると、ソファに倒れ込み、横になった西芳寺がいた。
重力に従って流れた黒髪をかき分け、大きな瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「エバくん、ボクはキミを本当に愛しているよ。本当に。本当に。それだけは信じてくれ」
おかしなことを言うな。
「当たり前だろ」
僕は準備室を後にした。
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