「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

かおるこ

文字の大きさ
3 / 15

第2話 35年前の借金

しおりを挟む
 電話のベルが、また鳴った。

 ジリリリリ――。

 古い黒電話の音は、耳の奥に刺さるようだった。
 和子は台所で包丁を握ったまま、肩をびくっと震わせた。

 鳴り止まない。

 受話器を取らなければ、ずっと鳴り続ける。
 それがわかっているのに、体が動かなかった。

 ジリリリリ。
 ジリリリリ。

 居間のテーブルでは、修一がうつむいたまま酒をあおっていた。

 グラスが机にぶつかる。
 コツン、と鈍い音。

「……出ないのか」

 低い声だった。

 和子はゆっくり包丁を置き、手を拭いた。
 指先が冷たい。

 電話の前に立つと、心臓がどくどく鳴る。
 受話器を持つ手が、わずかに震えた。

「……はい」

 次の瞬間、怒鳴り声が飛び込んできた。

「いつ払うんだ!」

 和子は思わず目を閉じた。

「もう三ヶ月だぞ! こっちは慈善事業じゃねえ!」

「す、すみません……」

 謝る言葉しか出てこない。

 電話の向こうの男は舌打ちをした。

「旦那に言え。逃げても無駄だからな」

 ガチャン。

 受話器を置いた瞬間、力が抜けた。

 和子はしばらく電話機に手をついたまま立っていた。

 部屋には、安い焼酎の匂いが充満している。
 窓は閉め切ったまま。
 空気が重く、ぬるい。

 テーブルの向こうで修一が言った。

「……誰だ」

 和子は振り向いた。

「金融会社の人」

 修一は顔をしかめ、グラスをあおる。

「チッ」

 アルコールの匂いが、さらに強くなる。

「またかよ」

「また、って……」

 和子の声は震えていた。

「修一さん、どうするの?」

 修一は答えない。
 ただ、酒瓶を傾けた。

 トクトクトク、と液体がグラスに落ちる音。

 それを見ているだけで、胸が苦しくなる。

「ねえ」

 和子は一歩近づいた。

「借金、いくらあるの?」

 修一はしばらく黙っていた。

 やがて、ぼそっと言った。

「……大したことない」

「いくら?」

「……」

「修一さん」

 和子の声が、少し強くなる。

 修一は苛立ったように頭をかいた。

「三千万だよ!」

 グラスがテーブルに叩きつけられた。

 ガン、と響く。

 和子は言葉を失った。

「……三千万?」

「仕方ないだろ!」

 修一が怒鳴る。

「商売ってのはこういうもんなんだよ!」

 彼の始めた小さな建材の仲介会社。
 最初は順調だった。

 だが取引先が倒産し、
 連鎖するように資金が詰まった。

 手形。
 借入。
 追加の融資。

 気づいたときには、雪だるまのように膨らんでいた。

「もう終わりだよ……」

 修一は両手で顔を覆った。

「俺の人生、終わりだ」

 声が、かすれていた。

 その夜からだった。

 電話は一日何度も鳴る。
 ドアを叩く音。
 怒鳴り声。

「いるのはわかってるんだぞ!」

 ドンドン、と玄関が揺れる。

 和子は息を殺していた。
 カーテンの隙間から差し込む夕焼けが、畳を赤く染めている。

 台所では味噌汁が冷え、
 ご飯はすっかり固くなっていた。

 修一は押し入れの前で座り込み、酒を飲んでいる。

「……どうしよう」

 和子の声は、ほとんど空気に溶けた。

 修一は答えない。

 ただ、ぶつぶつ言っている。

「もうダメだ……」

「俺は終わりだ……」

 そのときだった。

 玄関のチャイムが鳴った。

 ピンポーン。

 二人とも固まった。

 また取り立てだ。

 和子の背中を、冷たい汗が流れる。

 しかし、続いて聞こえた声は違った。

「和子」

 低く、落ち着いた声。

 和子の心臓が跳ねた。

 玄関へ走る。

 扉を開けた瞬間、思わず声が出た。

「……お父さん」

 父が立っていた。

 濃いグレーのスーツ。
 背筋をまっすぐ伸ばし、静かな目をしている。

 その姿を見た瞬間、和子の胸がいっぱいになった。

「中に入ってもいいか」

「う、うん」

 父は靴を脱ぎ、居間に入った。

 焼酎の匂いが漂う部屋。
 散らかった書類。
 空の酒瓶。

 父はそれを一瞥しただけだった。

「……修一君」

 静かな声。

 修一はゆっくり顔を上げた。

 その瞬間、顔色が変わる。

「お、お義父さん……」

 立ち上がると、ふらついた。

 酒の匂いが強い。

 父は座布団に座った。

「事情は聞いた」

 短い言葉だった。

 修一の喉が、ごくりと鳴る。

「……申し訳ありません」

 次の瞬間。

 修一は畳に額をこすりつけていた。

 土下座。

「本当に……すみません!」

 声が震えている。

「俺の責任です……!」

 和子は胸が痛くなった。

 父はしばらく黙っていた。

 時計の秒針だけが聞こえる。

 カチ、カチ、カチ。

 やがて父が口を開いた。

「借金はいくらだ」

 修一は顔を上げないまま言った。

「……三千二百万です」

 その数字が、部屋の空気を重くした。

 父はゆっくり息を吐いた。

「そうか」

 そして、静かに言った。

「借金は、私が払う」

 和子の息が止まった。

「え……?」

 修一も顔を上げた。

「ほ、本当ですか……?」

 父は修一をまっすぐ見た。

 鋭い目だった。

「ただし」

 その声は低く、重かった。

「条件がある」

 修一の背中がぴんと伸びる。

「なんでもします!」

 父は一瞬だけ和子を見た。

 それから、ゆっくり言った。

「娘を泣かせるな」

 部屋が静まり返った。

 修一の肩が震える。

「……はい」

 声が震えている。

「はい……!」

 畳に頭をこすりつける。

「一生かけて恩返しします!」

 涙がぽたぽた落ちる。

「和子を絶対幸せにします!」

 その言葉を、和子は聞いていた。

 胸が熱くなる。

 父はゆっくり立ち上がった。

「約束だ」

 修一は何度も頷いた。

「はい……!」

 そのとき和子は思った。

 きっと大丈夫。

 この人は変わる。

 この人は、きっと――。

 父の言葉を、忘れない。

 そう、信じていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】真実の愛とやらに目覚めてしまった王太子のその後

綾森れん
恋愛
レオノーラ・ドゥランテ侯爵令嬢は夜会にて婚約者の王太子から、 「真実の愛に目覚めた」 と衝撃の告白をされる。 王太子の愛のお相手は男爵令嬢パミーナ。 婚約は破棄され、レオノーラは王太子の弟である公爵との婚約が決まる。 一方、今まで男爵令嬢としての教育しか受けていなかったパミーナには急遽、王妃教育がほどこされるが全く進まない。 文句ばかり言うわがままなパミーナに、王宮の人々は愛想を尽かす。 そんな中「真実の愛」で結ばれた王太子だけが愛する妃パミーナの面倒を見るが、それは不幸の始まりだった。 周囲の忠告を聞かず「真実の愛」とやらを貫いた王太子の末路とは?

〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?

ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」 その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。 「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

悪役断罪?そもそも何かしましたか?

SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。 男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。 あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。 えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。 勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。

処理中です...