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第3話 家を買った日
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春の風が、まだ少し冷たかった。
駅前の通りには、新しくできた不動産屋の赤い旗がはためいている。
「新築分譲」「住宅ローン相談」
そんな文字が、陽の光を受けて眩しく揺れていた。
和子は店の前で立ち止まり、小さく息を吸った。
「……家、かあ」
口に出すと、それだけで胸が温かくなる。
隣で修一が腕を組んだ。
「そろそろいいだろ」
以前より少しだけ自信のある声だった。
借金の返済が終わったのは、去年の冬。
あの地獄のような日々から、やっと抜け出した。
電話のベルに怯える夜も、
玄関を叩く音に息を殺す夕方も、
もうない。
「俺も会社、持ち直してきたしな」
修一は店のガラスを見ながら言った。
「いつまでもアパートってのもな」
その言葉に、和子の胸がふわっと浮いた。
「ほんとに……?」
修一は少し照れくさそうに鼻をこすった。
「当たり前だろ」
そして、少しだけ優しい声になった。
「家くらい、買ってやるよ」
その言葉を聞いた瞬間、和子の目の奥がじんと熱くなった。
古いアパートの六畳。
冬はすきま風が入り、夏は蒸し風呂のようになる。
台所は狭く、
洗濯機はベランダ。
それでも文句を言わず暮らしてきた。
でも――
家。
自分たちの家。
その響きは、夢みたいだった。
「ねえ」
和子は不動産屋のガラス越しに、模型の住宅を見つめた。
小さな庭。
白い壁。
窓にはカーテン。
「庭に、花植えたいな」
「花?」
修一が笑う。
「好きだろ、お前」
和子は頷いた。
「あとね、台所は少し広い方がいい」
「料理するからな」
「うん」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
あの暗い日々が嘘みたいだった。
数週間後。
住宅会社の応接室には、新しい木の匂いが漂っていた。
テーブルの上には分厚い書類の束。
コーヒーの湯気がゆらゆら立っている。
「では、こちらが契約書になります」
営業の男が丁寧に説明している。
和子は緊張して背筋を伸ばしていた。
窓の外では、春の光がやわらかく差し込んでいる。
ついに。
今日、家を買う。
胸の鼓動が少し早い。
修一はペンをくるくる回していた。
「ローンは問題ありませんね」
「ええ」
修一は軽く頷いた。
「大丈夫です」
そのとき、ドアがノックされた。
コンコン。
営業の男が振り向く。
「失礼します」
ドアが開いた。
和子は振り向き、思わず声を上げた。
「……お父さん?」
父が立っていた。
濃いグレーのスーツ。
相変わらず背筋は真っ直ぐ。
修一も驚いた顔をした。
「お義父さん?」
父は静かに言った。
「少し話がある」
その声は、穏やかだが有無を言わせない響きがあった。
修一は立ち上がる。
「……はい」
二人は廊下に出た。
ドアが閉まる。
和子は応接室で一人になった。
コーヒーの匂いがやけに濃く感じる。
廊下の向こうで、低い声が聞こえた。
父の声だった。
「修一君」
「はい」
「家を買うそうだな」
「……はい」
少し緊張した声。
父は続けた。
「一つだけ条件がある」
沈黙。
修一が聞き返す。
「条件……ですか?」
「家の名義は和子にしなさい」
一瞬、廊下の空気が止まった。
「……え?」
修一の声が小さくなる。
「なぜ……?」
父は淡々と言った。
「理由はわかるだろう」
修一は何も言えない。
あの夜のこと。
借金。
土下座。
すべて思い出したのだろう。
父の声は静かだった。
「私は君を信用していないわけではない」
少し間が空く。
「だが、娘の人生を守る責任がある」
修一の喉が鳴る。
「……」
「名義は和子」
父ははっきり言った。
「それが条件だ」
沈黙が落ちた。
廊下の蛍光灯が、ジジッと小さく鳴る。
やがて修一が口を開いた。
「……わかりました」
声は、少しだけ固かった。
「名義は和子にします」
父は短く頷いた。
「それでいい」
応接室のドアが開いた。
修一が戻ってくる。
表情は少し硬いが、無理に笑っている。
「待たせたな」
和子は不思議そうに聞いた。
「何の話?」
修一はペンを手に取った。
「大したことじゃない」
営業の男が書類を差し出す。
「では、こちらにご署名を」
紙の上に、修一の手が動く。
さらさらとペンが走る音。
和子の胸が高鳴る。
窓の外では、青い空が広がっていた。
春の風がカーテンを揺らす。
「はい、これで契約成立です」
営業の男が微笑んだ。
修一が肩を回す。
「これで俺たちも、家持ちだな」
和子は嬉しくて、何度も頷いた。
「うん……!」
父は黙って二人を見ていた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
それから年月が流れる。
庭に花を植え、
台所で料理をし、
子どもが走り回る。
家は、確かに幸せの形になっていった。
だが。
人の記憶というものは、不思議だ。
都合の悪いことほど、ゆっくり薄れていく。
修一はいつしか言うようになった。
「この家は俺が建てた」
「俺の家だからな」
笑いながら。
誇らしげに。
まるで最初から、そうだったかのように。
あの日、廊下で交わした約束も。
名義の話も。
そして――
父の静かな声も。
修一の記憶の中から、少しずつ消えていった。
駅前の通りには、新しくできた不動産屋の赤い旗がはためいている。
「新築分譲」「住宅ローン相談」
そんな文字が、陽の光を受けて眩しく揺れていた。
和子は店の前で立ち止まり、小さく息を吸った。
「……家、かあ」
口に出すと、それだけで胸が温かくなる。
隣で修一が腕を組んだ。
「そろそろいいだろ」
以前より少しだけ自信のある声だった。
借金の返済が終わったのは、去年の冬。
あの地獄のような日々から、やっと抜け出した。
電話のベルに怯える夜も、
玄関を叩く音に息を殺す夕方も、
もうない。
「俺も会社、持ち直してきたしな」
修一は店のガラスを見ながら言った。
「いつまでもアパートってのもな」
その言葉に、和子の胸がふわっと浮いた。
「ほんとに……?」
修一は少し照れくさそうに鼻をこすった。
「当たり前だろ」
そして、少しだけ優しい声になった。
「家くらい、買ってやるよ」
その言葉を聞いた瞬間、和子の目の奥がじんと熱くなった。
古いアパートの六畳。
冬はすきま風が入り、夏は蒸し風呂のようになる。
台所は狭く、
洗濯機はベランダ。
それでも文句を言わず暮らしてきた。
でも――
家。
自分たちの家。
その響きは、夢みたいだった。
「ねえ」
和子は不動産屋のガラス越しに、模型の住宅を見つめた。
小さな庭。
白い壁。
窓にはカーテン。
「庭に、花植えたいな」
「花?」
修一が笑う。
「好きだろ、お前」
和子は頷いた。
「あとね、台所は少し広い方がいい」
「料理するからな」
「うん」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
あの暗い日々が嘘みたいだった。
数週間後。
住宅会社の応接室には、新しい木の匂いが漂っていた。
テーブルの上には分厚い書類の束。
コーヒーの湯気がゆらゆら立っている。
「では、こちらが契約書になります」
営業の男が丁寧に説明している。
和子は緊張して背筋を伸ばしていた。
窓の外では、春の光がやわらかく差し込んでいる。
ついに。
今日、家を買う。
胸の鼓動が少し早い。
修一はペンをくるくる回していた。
「ローンは問題ありませんね」
「ええ」
修一は軽く頷いた。
「大丈夫です」
そのとき、ドアがノックされた。
コンコン。
営業の男が振り向く。
「失礼します」
ドアが開いた。
和子は振り向き、思わず声を上げた。
「……お父さん?」
父が立っていた。
濃いグレーのスーツ。
相変わらず背筋は真っ直ぐ。
修一も驚いた顔をした。
「お義父さん?」
父は静かに言った。
「少し話がある」
その声は、穏やかだが有無を言わせない響きがあった。
修一は立ち上がる。
「……はい」
二人は廊下に出た。
ドアが閉まる。
和子は応接室で一人になった。
コーヒーの匂いがやけに濃く感じる。
廊下の向こうで、低い声が聞こえた。
父の声だった。
「修一君」
「はい」
「家を買うそうだな」
「……はい」
少し緊張した声。
父は続けた。
「一つだけ条件がある」
沈黙。
修一が聞き返す。
「条件……ですか?」
「家の名義は和子にしなさい」
一瞬、廊下の空気が止まった。
「……え?」
修一の声が小さくなる。
「なぜ……?」
父は淡々と言った。
「理由はわかるだろう」
修一は何も言えない。
あの夜のこと。
借金。
土下座。
すべて思い出したのだろう。
父の声は静かだった。
「私は君を信用していないわけではない」
少し間が空く。
「だが、娘の人生を守る責任がある」
修一の喉が鳴る。
「……」
「名義は和子」
父ははっきり言った。
「それが条件だ」
沈黙が落ちた。
廊下の蛍光灯が、ジジッと小さく鳴る。
やがて修一が口を開いた。
「……わかりました」
声は、少しだけ固かった。
「名義は和子にします」
父は短く頷いた。
「それでいい」
応接室のドアが開いた。
修一が戻ってくる。
表情は少し硬いが、無理に笑っている。
「待たせたな」
和子は不思議そうに聞いた。
「何の話?」
修一はペンを手に取った。
「大したことじゃない」
営業の男が書類を差し出す。
「では、こちらにご署名を」
紙の上に、修一の手が動く。
さらさらとペンが走る音。
和子の胸が高鳴る。
窓の外では、青い空が広がっていた。
春の風がカーテンを揺らす。
「はい、これで契約成立です」
営業の男が微笑んだ。
修一が肩を回す。
「これで俺たちも、家持ちだな」
和子は嬉しくて、何度も頷いた。
「うん……!」
父は黙って二人を見ていた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
それから年月が流れる。
庭に花を植え、
台所で料理をし、
子どもが走り回る。
家は、確かに幸せの形になっていった。
だが。
人の記憶というものは、不思議だ。
都合の悪いことほど、ゆっくり薄れていく。
修一はいつしか言うようになった。
「この家は俺が建てた」
「俺の家だからな」
笑いながら。
誇らしげに。
まるで最初から、そうだったかのように。
あの日、廊下で交わした約束も。
名義の話も。
そして――
父の静かな声も。
修一の記憶の中から、少しずつ消えていった。
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