「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

かおるこ

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第5話 入院と豹変

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 午後の空は、薄い雲に覆われていた。

 和子はスーパーの袋を両手に提げ、ゆっくり坂道を歩いていた。
 春なのに風は少し冷たく、頬をかすめていく。

「今日は肉じゃがにしようかしら」

 袋の中でジャガイモがごろりと転がる。
 修一は甘い肉じゃがが好きだった。昔から。

 坂の途中で、家の屋根が見えた。
 庭のツツジが赤く咲いている。

 そのときだった。

 足元で、カツン、と石が転がった。

「……あっ」

 体がぐらりと傾く。

 次の瞬間。

 ドンッ。

 背中がアスファルトに打ちつけられた。
 袋が空中に舞う。

 卵のパックが割れる音。
 ネギが転がる。

「……っ!」

 右足に、鋭い痛みが走った。

 まるで骨の奥を誰かがねじっているみたいだった。

「い……たい……」

 息がうまく吸えない。

 足を動かそうとすると、ズキン、と強い痛みが突き上げる。

 空は青かった。
 その青さが、やけに遠く感じる。

「大丈夫ですか!」

 知らない人の声が聞こえた。

 視界が、少しずつ白くぼやけていく。

 

 目を覚ますと、白い天井があった。

 鼻にツンとくる消毒液の匂い。
 どこかで電子音がピッ、ピッ、と鳴っている。

 和子はゆっくり首を動かした。

 足が重い。

 見ると、右足は分厚いギプスで固められていた。

 医者がカルテを見ながら言った。

「足の骨折ですね」

 淡々とした声。

「しばらく歩けません」

 和子の喉が乾いた。

「……どれくらいですか」

「一ヶ月は無理でしょう」

 窓の外で、カラスが鳴いた。

 カア、カア。

 その声が妙に響いた。

 

 夕方。

 病室の窓からオレンジ色の光が差し込んでいる。

 カーテンが少し揺れる。

 ドアがガラリと開いた。

「……おい」

 修一だった。

 和子はほっとした。

「来てくれたのね」

 修一はベッドの足元を見た。

 白いギプス。

 その瞬間、顔が露骨に歪んだ。

「……うわ」

 嫌そうな声。

「マジかよ」

 和子の胸が、少しだけ冷たくなった。

「転んじゃって」

「はあ……」

 修一は大きくため息をついた。

 椅子を引き、ドカッと座る。

 ギシ、と古い椅子が鳴った。

「ついてないな」

 和子は少し笑った。

「年ね」

「笑い事じゃない」

 修一は腕を組んだ。

「それ、どれくらい治らないんだ」

「一ヶ月くらい……」

 その瞬間、修一の眉が思い切りしかめられた。

「一ヶ月?」

「うん」

「……はあ」

 深い、深いため息。

 修一は頭をかいた。

「面倒なことになったな」

 その言葉が、胸に刺さる。

「……面倒?」

「そうだろ」

 修一は言った。

「歩けないんだろ?」

「しばらくはね」

「じゃあトイレとかどうすんだ」

 和子は言葉に詰まる。

「看護師さんが……」

「退院したら?」

 その声が鋭くなった。

 和子は答えられなかった。

 窓の外で風が吹き、カーテンが揺れた。

 修一は苛立ったように舌打ちした。

「チッ」

 そして言った。

「介護?冗談じゃない」

 その言葉は、あまりにも冷たかった。

 和子は思わず修一の顔を見る。

「……修一さん」

「俺は無理だ」

 はっきり言った。

「そんな面倒見きれるか」

 病室の空気が凍る。

 隣のベッドのカーテンの向こうで、気配が止まった。

「四十年……」

 和子の声は小さかった。

「私たち、四十年……」

「だから何だ」

 修一は言った。

「もう十分だろ」

 そしてポケットから封筒を取り出した。

 茶色い封筒。

 中から紙を引き抜く。

 パサリ。

 ベッドの上に置いた。

 和子の視線が落ちる。

 離婚届。

 心臓が大きく鳴った。

「……え?」

 修一はボールペンを取り出した。

「ハンコ押せ」

 和子の指が震える。

「どういうこと……?」

「見てわからないのか」

 修一は言った。

「離婚だ」

「どうして……」

「決まってるだろ」

 修一はギプスを指さした。

「そんな体になったら面倒だ」

 その言葉が、静かに落ちる。

「俺は介護なんてしたくない」

 和子の胸の奥で、何かが崩れた。

「……そんな」

「それにな」

 修一は続けた。

「家は俺が住む」

 和子は顔を上げた。

「……え?」

「お前は出ていけ」

 まるで当たり前のことのように言う。

「施設でも行けばいい」

 病室の蛍光灯が、ジジッと鳴った。

 和子の喉が乾く。

「この家……」

 やっと声が出た。

「私たちの家じゃないの?」

 修一は笑った。

 鼻で。

「俺の家だろ」

 その言葉は、冷たく響いた。

 四十年。

 結婚してからの時間が、頭の中を流れる。

 弁当を作った朝。
 子どもが熱を出した夜。
 義母の介護。

 すべての時間が、静かに遠ざかっていく。

 和子は離婚届を見つめた。

 白い紙。

 そこに書かれた線が、やけに冷たく見える。

 そして胸の奥で――

 遠い記憶が、ゆっくりと動き始めていた。

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