「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

かおるこ

文字の大きさ
7 / 15

第6話 静かな違和感

しおりを挟む
 昼下がりの病室は、やけに静かだった。

 窓の外では、風がゆっくり木の葉を揺らしている。
 遠くで救急車のサイレンがかすかに聞こえた。

 和子はベッドの上で、ぼんやり天井を見ていた。

 白い天井。
 蛍光灯の光。

 足のギプスが、ずしりと重い。

 あの紙――
 離婚届。

 まだ枕元の引き出しに入っている。

 思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 そのとき、廊下から早い足音が近づいてきた。

 コツコツコツコツ。

 ドアが勢いよく開く。

「お母さん!」

 娘の美咲だった。

 三十代になった今でも、怒ると昔のままの顔になる。

「大丈夫!?」

 和子は少し笑った。

「ええ、大げさよ」

 美咲はベッドの足元を見た。

 白いギプス。

「……ほんとに骨折してる」

「転んじゃってね」

「もう、お母さん!」

 そう言いながら、椅子を引いて座る。

 椅子がギシ、と鳴った。

 そのとき。

 病室の隅にいた修一が、咳払いした。

「来たのか」

 美咲の顔が一瞬で変わった。

 さっきまでの心配そうな表情が、怒りに変わる。

「お父さん」

 低い声だった。

「……何?」

「本当なの?」

 修一は新聞をめくった。

「何がだ」

「離婚届」

 空気が止まった。

 和子の胸がドクンと鳴る。

 修一はゆっくり顔を上げた。

「言ったよ」

 平然と。

「ハンコ押せって」

 次の瞬間。

「お父さん最低!」

 美咲の声が病室に響いた。

 カーテンの向こうで誰かが動く気配がする。

「何考えてるの!?」

「何って」

 修一は肩をすくめた。

「面倒だからだ」

「面倒!?」

 美咲は立ち上がった。

 椅子がガタンと倒れる。

「お母さん骨折してるんだよ!?」

「知ってる」

「じゃあなんで離婚なの!」

 修一はうんざりした顔をした。

「介護なんてしたくない」

 その言葉が落ちる。

 和子は目を閉じた。

 美咲の声が震えた。

「……信じられない」

「大げさだな」

 修一は言った。

「それに家は俺のものだ」

 その言葉に、美咲が固まる。

「……は?」

「だから」

 修一は腕を組んだ。

「家は俺のもの」

 美咲の眉がつり上がる。

「何言ってるの」

「俺が建てたんだ」

「はあ?」

「俺が働いてローン払った」

 修一は当然のように言った。

「だから俺の家だ」

 美咲は呆れた顔をした。

「ちょっと待って」

 和子は二人を見つめていた。

 胸の奥に、小さな違和感が生まれていた。

 今まで何度も聞いた言葉。

 ――俺の家。

 でも。

 和子の頭の奥で、古い記憶がゆっくり動く。

 春の日。

 住宅会社。

 父の声。

 廊下の静かな空気。

「名義は和子にしなさい」

 その言葉が、はっきりと蘇る。

 和子の胸がドクンと鳴った。

「……お母さん?」

 美咲が顔をのぞき込む。

「大丈夫?」

「ええ……」

 和子は少しぼんやりしていた。

 修一は鼻で笑う。

「何ぼーっとしてる」

 和子はゆっくり言った。

「ねえ、修一さん」

「何だ」

「この家」

 少し間が空く。

「名義って……どうなっていたかしら」

 修一は一瞬きょとんとした。

「は?」

「家の名義」

 和子は静かに言った。

「あなた?」

「当たり前だろ」

 修一は笑った。

「そんなの」

 でもその笑いは、ほんの少しだけ曖昧だった。

 和子は天井を見た。

 白い光。

 父の声が、胸の奥で繰り返される。

 ――名義は和子にしなさい。

 あのとき確かに聞いた。

 あれは夢じゃない。

 和子の胸の奥で、小さな疑問が形になっていく。

 もし。

 もし、あの通りなら――。

 ベッドの上で、和子はゆっくり息を吸った。

 そして思った。

 **この家、本当に修一のものなの?**

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】真実の愛とやらに目覚めてしまった王太子のその後

綾森れん
恋愛
レオノーラ・ドゥランテ侯爵令嬢は夜会にて婚約者の王太子から、 「真実の愛に目覚めた」 と衝撃の告白をされる。 王太子の愛のお相手は男爵令嬢パミーナ。 婚約は破棄され、レオノーラは王太子の弟である公爵との婚約が決まる。 一方、今まで男爵令嬢としての教育しか受けていなかったパミーナには急遽、王妃教育がほどこされるが全く進まない。 文句ばかり言うわがままなパミーナに、王宮の人々は愛想を尽かす。 そんな中「真実の愛」で結ばれた王太子だけが愛する妃パミーナの面倒を見るが、それは不幸の始まりだった。 周囲の忠告を聞かず「真実の愛」とやらを貫いた王太子の末路とは?

〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?

ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」 その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。 「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

悪役断罪?そもそも何かしましたか?

SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。 男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。 あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。 えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。 勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。

処理中です...