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第8話 夫の勘違い
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昼の居酒屋は、少し油の匂いが強かった。
カウンターの奥では、フライヤーの音がジュウジュウ鳴っている。
昼間なのに、ビールを飲んでいる客もちらほらいた。
修一はテーブルにふんぞり返り、ジョッキをぐいっとあおった。
「ぷはぁ」
冷たいビールが喉を通り、胸の奥まで落ちていく。
「相変わらずいい飲みっぷりだな」
向かいに座るのは高校時代の友人、田辺だった。
白髪は増えたが、笑い方は昔と変わらない。
「まあな」
修一は口の端を上げた。
「俺は今、人生の第二ステージだからな」
「第二ステージ?」
田辺が首をかしげる。
修一は得意げに言った。
「離婚だよ」
田辺の箸が止まった。
「は?」
「もう別れる」
唐揚げをつまみながら、軽い口調で言う。
「うちのやつ、骨折して入院してるんだけどな」
「骨折?」
「そう」
修一は肩をすくめた。
「歩けないんだと」
「それで離婚?」
「介護なんて冗談じゃない」
修一は笑った。
「俺はもう働いたんだ。これからは楽する番だろ」
田辺は少し顔をしかめた。
「おいおい……」
「それに」
修一はビールをもう一口飲んだ。
冷たい泡が唇に残る。
「家は俺のものだからな」
その言葉に、田辺が眉を上げる。
「家?」
「そう」
修一は指を立てた。
「俺が建てた」
自信たっぷりに言う。
「ローンも俺が払った」
「まあ、そうかもしれんが」
田辺は苦笑した。
「でも四十年だろ?」
「十分だ」
修一は笑った。
「女なんてな」
そう言いかけて、唐揚げを口に放り込む。
「離婚しても、家は残る」
そして得意げに言った。
「俺の城だ」
その翌日。
駅前のビルの三階に、小さな事務所があった。
ドアには小さなプレート。
**司法書士事務所**
修一は少しだけ背筋を伸ばして椅子に座っていた。
机の上には書類の束。
窓から入る光が、紙の端を白く照らしている。
向かいには、四十代くらいの男が座っていた。
眼鏡をかけた、落ち着いた顔。
「離婚をお考えなんですね」
「ええ」
修一は頷いた。
「それで、家のことなんですが」
司法書士はペンを持ったまま聞いた。
「財産分与ですね」
「いや」
修一は笑った。
「家は俺のものですから」
「そうですか」
司法書士は静かに言った。
「では確認させてください」
パソコンを操作する。
カタカタ、とキーボードの音。
「住所はこちらですね」
「ええ」
「少々お待ちください」
画面を見ながら、マウスを動かす。
数秒。
修一は腕を組み、椅子にもたれた。
窓の外では、車のクラクションが小さく鳴った。
「おかしいですね」
司法書士がぽつりと言った。
「え?」
修一は顔を上げた。
「どうしました」
司法書士は画面を見つめている。
「少し確認します」
またキーボードの音。
カタカタカタ。
修一の胸に、わずかな違和感が生まれる。
「何か問題でも?」
「いえ」
司法書士は言った。
「ただ」
数秒の沈黙。
そしてゆっくり口を開いた。
「名義は奥さんですね」
時間が止まった。
「……は?」
修一は思わず聞き返した。
「何て?」
司法書士は画面を指差した。
「所有者」
そこに表示されている文字。
和子。
「奥様のお名前です」
修一は一瞬、笑った。
「いやいや」
手を振る。
「それはない」
「登記簿の情報です」
司法書士は落ち着いた声で言った。
「この家の所有者は奥様です」
修一の喉が乾いた。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「俺が建てたんですよ?」
「ローンの支払いと名義は別です」
静かな説明。
修一の胸の奥がざわつく。
「いや……そんなはず」
記憶を探る。
住宅会社。
契約。
春の日。
だが――
はっきり思い出せない。
「確認されますか」
司法書士が紙を差し出した。
登記簿の写し。
修一はそれを受け取った。
紙がカサリと鳴る。
目を落とす。
住所。
地番。
そして。
**所有者 和子**
その文字が、やけに濃く見えた。
「……」
修一の顔から、血の気が引いていく。
耳の奥で、心臓の音が響く。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「つまり」
司法書士は静かに言った。
「離婚しても」
修一の手がわずかに震えた。
「家は奥様のものになります」
修一は何も言えなかった。
頭の中が真っ白になる。
昨日、居酒屋で言った言葉が浮かぶ。
――俺の城だ。
その城は。
最初から――
自分のものではなかった。
修一の顔が、ゆっくり青ざめていった。
カウンターの奥では、フライヤーの音がジュウジュウ鳴っている。
昼間なのに、ビールを飲んでいる客もちらほらいた。
修一はテーブルにふんぞり返り、ジョッキをぐいっとあおった。
「ぷはぁ」
冷たいビールが喉を通り、胸の奥まで落ちていく。
「相変わらずいい飲みっぷりだな」
向かいに座るのは高校時代の友人、田辺だった。
白髪は増えたが、笑い方は昔と変わらない。
「まあな」
修一は口の端を上げた。
「俺は今、人生の第二ステージだからな」
「第二ステージ?」
田辺が首をかしげる。
修一は得意げに言った。
「離婚だよ」
田辺の箸が止まった。
「は?」
「もう別れる」
唐揚げをつまみながら、軽い口調で言う。
「うちのやつ、骨折して入院してるんだけどな」
「骨折?」
「そう」
修一は肩をすくめた。
「歩けないんだと」
「それで離婚?」
「介護なんて冗談じゃない」
修一は笑った。
「俺はもう働いたんだ。これからは楽する番だろ」
田辺は少し顔をしかめた。
「おいおい……」
「それに」
修一はビールをもう一口飲んだ。
冷たい泡が唇に残る。
「家は俺のものだからな」
その言葉に、田辺が眉を上げる。
「家?」
「そう」
修一は指を立てた。
「俺が建てた」
自信たっぷりに言う。
「ローンも俺が払った」
「まあ、そうかもしれんが」
田辺は苦笑した。
「でも四十年だろ?」
「十分だ」
修一は笑った。
「女なんてな」
そう言いかけて、唐揚げを口に放り込む。
「離婚しても、家は残る」
そして得意げに言った。
「俺の城だ」
その翌日。
駅前のビルの三階に、小さな事務所があった。
ドアには小さなプレート。
**司法書士事務所**
修一は少しだけ背筋を伸ばして椅子に座っていた。
机の上には書類の束。
窓から入る光が、紙の端を白く照らしている。
向かいには、四十代くらいの男が座っていた。
眼鏡をかけた、落ち着いた顔。
「離婚をお考えなんですね」
「ええ」
修一は頷いた。
「それで、家のことなんですが」
司法書士はペンを持ったまま聞いた。
「財産分与ですね」
「いや」
修一は笑った。
「家は俺のものですから」
「そうですか」
司法書士は静かに言った。
「では確認させてください」
パソコンを操作する。
カタカタ、とキーボードの音。
「住所はこちらですね」
「ええ」
「少々お待ちください」
画面を見ながら、マウスを動かす。
数秒。
修一は腕を組み、椅子にもたれた。
窓の外では、車のクラクションが小さく鳴った。
「おかしいですね」
司法書士がぽつりと言った。
「え?」
修一は顔を上げた。
「どうしました」
司法書士は画面を見つめている。
「少し確認します」
またキーボードの音。
カタカタカタ。
修一の胸に、わずかな違和感が生まれる。
「何か問題でも?」
「いえ」
司法書士は言った。
「ただ」
数秒の沈黙。
そしてゆっくり口を開いた。
「名義は奥さんですね」
時間が止まった。
「……は?」
修一は思わず聞き返した。
「何て?」
司法書士は画面を指差した。
「所有者」
そこに表示されている文字。
和子。
「奥様のお名前です」
修一は一瞬、笑った。
「いやいや」
手を振る。
「それはない」
「登記簿の情報です」
司法書士は落ち着いた声で言った。
「この家の所有者は奥様です」
修一の喉が乾いた。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「俺が建てたんですよ?」
「ローンの支払いと名義は別です」
静かな説明。
修一の胸の奥がざわつく。
「いや……そんなはず」
記憶を探る。
住宅会社。
契約。
春の日。
だが――
はっきり思い出せない。
「確認されますか」
司法書士が紙を差し出した。
登記簿の写し。
修一はそれを受け取った。
紙がカサリと鳴る。
目を落とす。
住所。
地番。
そして。
**所有者 和子**
その文字が、やけに濃く見えた。
「……」
修一の顔から、血の気が引いていく。
耳の奥で、心臓の音が響く。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「つまり」
司法書士は静かに言った。
「離婚しても」
修一の手がわずかに震えた。
「家は奥様のものになります」
修一は何も言えなかった。
頭の中が真っ白になる。
昨日、居酒屋で言った言葉が浮かぶ。
――俺の城だ。
その城は。
最初から――
自分のものではなかった。
修一の顔が、ゆっくり青ざめていった。
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