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第2話 診断の演出
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第2話 診断の演出
病院の自動ドアが開いた瞬間、冷たい消毒液の匂いが鼻を刺した。
白い。
壁も、床も、天井も。
受付のカウンター越しに、機械音のような声が流れる。
「森本様、物忘れ外来ですね」
真紀が一歩前に出る。
「はい。最近、急に症状が進んでしまって」
“症状”。
森本は黙って保険証を差し出す。
カードの端がわずかに汗ばんでいる。
待合室。
テレビでは昼の情報番組。
「高齢者の徘徊問題」というテロップが偶然流れている。
真紀が小声で言う。
「大丈夫よ。ちゃんと診てもらえば安心だから」
その声はやわらかい。
だが指先が、森本の腕を強く握っている。
「何を、診るんだ」
「あなたのためよ」
視線を向けると、真紀は微笑んだ。
献身的な妻の顔だ。
名前を呼ばれる。
診察室はさらに白い。
エアコンの風が首筋に当たる。
医師は四十代半ば。
落ち着いた声。
「今日はどうされましたか」
真紀が先に口を開いた。
「主人が、最近、同じことを何度も言うんです。出張の予定も忘れて」
森本が言う。
「忘れていません」
医師は穏やかにうなずく。
「奥様のお話も、あとでゆっくり聞きます。まずは簡単な検査をしましょう」
紙と鉛筆が差し出される。
「今日は何年何月何日ですか」
「令和六年三月十二日」
「ここはどこですか」
「品川区、〇〇クリニック」
医師のペンが走る音。
カリカリ、と乾いた音が静かな部屋に響く。
「では、三つの単語を覚えてください。桜、猫、電車」
「桜、猫、電車」
「後で聞きます」
数字を逆から言う。
図形を写す。
百から七を引き続ける。
「百、九十三、八十六、七十九……」
真紀が口を挟む。
「こういうの、仕事柄慣れてるんです。ITのコンサルで、数字ばかり扱ってますから」
医師がちらりと森本を見る。
「なるほど」
真紀は続ける。
「ITの仕事をしているから、取り繕うのが上手なんです」
空気が、わずかに重くなる。
森本は医師の目を見る。
「取り繕う必要はありません。正常ですから」
医師は微笑む。
「森本さん、奥様は心配されているんですよ」
その言葉が、柔らかく胸に落ちる。
心配。
善意。
「桜、猫、電車。覚えていますか」
「桜、猫、電車」
医師はペンを置いた。
「現時点で、明らかな認知症所見は見られません」
真紀の指がぴくりと動く。
だが医師は続ける。
「ただ、初期段階では検査に出にくいこともあります。経過観察をしましょう」
“経過観察”。
白い部屋に、その言葉だけが浮いた。
森本はゆっくり聞く。
「つまり?」
「半年ほど様子を見て、再検査を」
真紀が安堵したように息を吐く。
「やっぱり……少し出ているんですね」
「断定はできませんが、ご家族の証言も重要です」
家族の証言。
森本の指先が冷える。
「私は、業務に支障はありません。商談記録も全てあります」
医師は首を傾げる。
「それを否定しているわけではありません。ただ、奥様が感じる違和感も事実です」
事実。
森本は、椅子のビニールの感触を指でなぞる。
冷たい。滑る。
真紀が、優しい声で言う。
「あなた、最近怒りっぽいのも自覚ないでしょう?」
「怒っていない」
「ほら」
医師が穏やかに割って入る。
「感情の変化も初期症状としてあります」
世界が、少しだけ傾く。
自分は冷静だ。
怒っていない。
論理的に話している。
だがその“冷静さ”が、
逆に証拠になる。
診察室を出たとき、廊下の蛍光灯がまぶしかった。
真紀が小声で言う。
「ほら、ちゃんと診てもらえてよかったでしょう?」
「何が“ちゃんと”だ」
「否定されなかったでしょ」
エレベーターの中。
鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。
「経過観察だ」
「うん。だから安心なの」
真紀は微笑む。
だがその目の奥に、
わずかな確信が宿っている。
“完全に否定はされなかった”。
それで十分なのだ。
病院の外に出ると、春の風が頬に触れた。
排気ガスの匂い。
遠くのクラクション。
森本は空を見上げる。
青い。
曇りひとつない。
それでも、何かが薄く覆いかぶさっている。
善意は否定できない。
医師は敵ではない。
だが、味方でもない。
静かに理解する。
悪意より怖いのは、
正しい手続きを踏んで進む誤解だ。
真紀が腕を絡める。
「大丈夫よ。私がついてるから」
その手の温もりが、
妙に冷たく感じた。
戦いは、
目に見えないところで進んでいる。
そしてそれは、
ゆっくりと、
確実に。
森本を“観察対象”へと変えていくのだった。
病院の自動ドアが開いた瞬間、冷たい消毒液の匂いが鼻を刺した。
白い。
壁も、床も、天井も。
受付のカウンター越しに、機械音のような声が流れる。
「森本様、物忘れ外来ですね」
真紀が一歩前に出る。
「はい。最近、急に症状が進んでしまって」
“症状”。
森本は黙って保険証を差し出す。
カードの端がわずかに汗ばんでいる。
待合室。
テレビでは昼の情報番組。
「高齢者の徘徊問題」というテロップが偶然流れている。
真紀が小声で言う。
「大丈夫よ。ちゃんと診てもらえば安心だから」
その声はやわらかい。
だが指先が、森本の腕を強く握っている。
「何を、診るんだ」
「あなたのためよ」
視線を向けると、真紀は微笑んだ。
献身的な妻の顔だ。
名前を呼ばれる。
診察室はさらに白い。
エアコンの風が首筋に当たる。
医師は四十代半ば。
落ち着いた声。
「今日はどうされましたか」
真紀が先に口を開いた。
「主人が、最近、同じことを何度も言うんです。出張の予定も忘れて」
森本が言う。
「忘れていません」
医師は穏やかにうなずく。
「奥様のお話も、あとでゆっくり聞きます。まずは簡単な検査をしましょう」
紙と鉛筆が差し出される。
「今日は何年何月何日ですか」
「令和六年三月十二日」
「ここはどこですか」
「品川区、〇〇クリニック」
医師のペンが走る音。
カリカリ、と乾いた音が静かな部屋に響く。
「では、三つの単語を覚えてください。桜、猫、電車」
「桜、猫、電車」
「後で聞きます」
数字を逆から言う。
図形を写す。
百から七を引き続ける。
「百、九十三、八十六、七十九……」
真紀が口を挟む。
「こういうの、仕事柄慣れてるんです。ITのコンサルで、数字ばかり扱ってますから」
医師がちらりと森本を見る。
「なるほど」
真紀は続ける。
「ITの仕事をしているから、取り繕うのが上手なんです」
空気が、わずかに重くなる。
森本は医師の目を見る。
「取り繕う必要はありません。正常ですから」
医師は微笑む。
「森本さん、奥様は心配されているんですよ」
その言葉が、柔らかく胸に落ちる。
心配。
善意。
「桜、猫、電車。覚えていますか」
「桜、猫、電車」
医師はペンを置いた。
「現時点で、明らかな認知症所見は見られません」
真紀の指がぴくりと動く。
だが医師は続ける。
「ただ、初期段階では検査に出にくいこともあります。経過観察をしましょう」
“経過観察”。
白い部屋に、その言葉だけが浮いた。
森本はゆっくり聞く。
「つまり?」
「半年ほど様子を見て、再検査を」
真紀が安堵したように息を吐く。
「やっぱり……少し出ているんですね」
「断定はできませんが、ご家族の証言も重要です」
家族の証言。
森本の指先が冷える。
「私は、業務に支障はありません。商談記録も全てあります」
医師は首を傾げる。
「それを否定しているわけではありません。ただ、奥様が感じる違和感も事実です」
事実。
森本は、椅子のビニールの感触を指でなぞる。
冷たい。滑る。
真紀が、優しい声で言う。
「あなた、最近怒りっぽいのも自覚ないでしょう?」
「怒っていない」
「ほら」
医師が穏やかに割って入る。
「感情の変化も初期症状としてあります」
世界が、少しだけ傾く。
自分は冷静だ。
怒っていない。
論理的に話している。
だがその“冷静さ”が、
逆に証拠になる。
診察室を出たとき、廊下の蛍光灯がまぶしかった。
真紀が小声で言う。
「ほら、ちゃんと診てもらえてよかったでしょう?」
「何が“ちゃんと”だ」
「否定されなかったでしょ」
エレベーターの中。
鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。
「経過観察だ」
「うん。だから安心なの」
真紀は微笑む。
だがその目の奥に、
わずかな確信が宿っている。
“完全に否定はされなかった”。
それで十分なのだ。
病院の外に出ると、春の風が頬に触れた。
排気ガスの匂い。
遠くのクラクション。
森本は空を見上げる。
青い。
曇りひとつない。
それでも、何かが薄く覆いかぶさっている。
善意は否定できない。
医師は敵ではない。
だが、味方でもない。
静かに理解する。
悪意より怖いのは、
正しい手続きを踏んで進む誤解だ。
真紀が腕を絡める。
「大丈夫よ。私がついてるから」
その手の温もりが、
妙に冷たく感じた。
戦いは、
目に見えないところで進んでいる。
そしてそれは、
ゆっくりと、
確実に。
森本を“観察対象”へと変えていくのだった。
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