『統計上の失踪者』 ―9万人の中の一人にされた男―

かおるこ

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第3話 後見申立て

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第3話 後見申立て

封筒は、昼過ぎに届いた。

ベージュの、厚手の紙。
表には黒々とした活字。

**東京家庭裁判所**

その文字だけで、空気が一段冷える。

森本隆は、指先で封をなぞった。
紙の縁がわずかにざらついている。

リビングには、昼の光が斜めに差している。
洗濯洗剤の匂い。
キッチンからは煮物の甘い匂い。

あまりに、日常だった。

「何それ?」

真紀がエプロン姿で振り向く。

「裁判所からだ」

「……ああ」

一瞬の間。

真紀はゆっくり手を拭きながら近づいた。

「開けてみて」

森本は封を切る。
紙が裂ける乾いた音が、やけに大きい。

中から数枚の書類。

活字が整然と並ぶ。

**保佐開始の申立てについて**

視界が、狭くなる。

「……これは何だ」

声が低くなる。

真紀は、落ち着いた声で言った。

「申立てをしたの」

「誰が」

「私」

沈黙。

遠くで、時計の秒針が鳴る。

「保佐って何だ」

「あなたの判断能力が不十分だと認められた場合、財産管理をサポートする制度よ」

「不十分?」

「最近のあなたを見ていて、怖かったの」

森本は書類をめくる。
紙の匂いが鼻に刺さる。

**申立人:森本真紀(配偶者)**

「俺は、検査で異常なしと言われた」

「経過観察だったでしょう」

「それを根拠に?」

真紀の声は、驚くほど穏やかだった。

「完全に壊れてからじゃ遅いの」

その言葉が、静かに落ちる。

森本は妻を見る。

「俺は壊れていない」

「自覚がないのよ」

「それは詭弁だ」

「怒ってる」

「怒って当然だ」

「ほら」

その一言が、刃物のように細い。

森本の胸の奥がざわつく。

「保佐が始まったら、どうなる」

真紀は椅子に腰を下ろし、書類を揃えた。

「あなたの大きな契約や資産移動には、同意が必要になる」

「つまり」

「私が関わる」

さらりと言う。

窓の外で、車のクラクションが鳴った。

「俺の会社の決裁もか」

「生活に影響するものは、家族で守るべきよ」

「守る?」

「あなたの財産は、家族のために守られるべきなの」

その声は、優しい。

だが温度がない。

森本は立ち上がる。
足裏にフローリングの冷たさ。

「俺の財産だ」

「違うわ」

即答だった。

「家族のものよ」

その目は、揺れない。

「あなた一人で築いたと思ってる?」

「少なくとも、判断能力はある」

「今はね」

森本の喉が乾く。

「今は、だと?」

「初期の人ほど、自分は正常だって言うの」

「それを誰が決める」

「裁判所」

真紀は、机の上の書類を指で叩く。

「ちゃんと審理がある。医師の意見も出る。私は正しい手続きを踏んでいるだけ」

正しい。

その言葉が、部屋の温度を下げる。

「俺を、法的に無力化する気か」

「守るの」

「同じだ」

真紀はゆっくり首を振る。

「あなたが間違った投資をしたら?詐欺にあったら?誰が責任を取るの?」

「そんな兆候はない」

「自覚がないの」

森本は一歩近づく。

「これは、奪う行為だ」

「違う」

真紀の声が、初めてわずかに強くなる。

「あなたは最近、家族より仕事を優先してる。もし本当に症状が進んだら、私たちは何もできなくなる」

「だから今、先に縛る?」

「先に備えるの」

森本は書類を握る。
紙がくしゃりと鳴る。

その音に、真紀の視線が鋭くなる。

「破らないで」

低い声。

「それは正式な書類よ」

その一言で、森本は理解する。

これは夫婦喧嘩ではない。

手続きだ。

制度だ。

紙の上で、自分の能力が疑われている。

「俺は、審理で否定する」

「もちろんできるわ」

真紀は微笑む。

「でもね、家庭裁判所は“安全側”に倒れるの」

心臓が一瞬止まる。

「安全側?」

「疑いがあるなら、保護する」

保護。

森本は、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。

「俺は被保護者じゃない」

「まだ、ね」

その「まだ」が、深く刺さる。

娘の部屋のドアが軋む。
足音が近づく。

「どうしたの?」

娘が顔を出す。

真紀は即座に、柔らかい声に戻る。

「お父さんの将来のための話よ」

「何それ」

「お父さん、最近忘れっぽいでしょう?」

娘の視線が揺れる。

森本は、娘を見る。

「俺は正常だ」

娘は目を逸らす。

「でも、お母さん心配してる」

その一言で、足元が崩れる。

家族の証言。

医師の経過観察。

裁判所の書類。

点と点が、線になる。

「……本気か」

森本は静かに聞く。

真紀はまっすぐ答える。

「本気よ」

その目には、迷いがない。

怒りではない。

復讐でもない。

確信。

森本は、初めて理解する。

これは疑いではない。

計画だ。

紙の匂い。
洗剤の匂い。
夕暮れの光。

すべてが、急に遠く感じる。

自分はここに立っている。
記憶も、判断も、はっきりしている。

だが。

一枚の申立書が、
自分を「判断能力不十分」として扱う。

その重さが、胸にのしかかる。

「俺は、戦う」

低く言う。

真紀は、静かに微笑む。

「もちろん。手続きの中でね」

その言葉は、
優しく、
そして決定的だった。

森本は、初めて本気で悟る。

これは家庭内の問題ではない。

制度と戦うことになる。

そしてその制度の入り口に、
妻が立っている。

戦いは、
もう始まっている。


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