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第4話 家族の選択
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第4話 家族の選択
夕食の匂いが、やけに甘かった。
すき焼きだ。
砂糖と醤油の焦げる匂いが、部屋に重く漂っている。
森本は席に着いた。
向かいに娘。
斜めに息子。
その隣に真紀。
いつもの配置。
だが空気が違う。
箸の先が、鍋の縁に当たる金属音がやけに響く。
「今日は、みんなに話があるの」
真紀が静かに言った。
森本の背筋が、わずかに強張る。
娘が顔を上げる。
息子はスマホを置いた。
「お父さんのことなんだけど」
森本は鍋の湯気越しに、妻を見る。
「やめろ」
「聞いてほしいの」
声は穏やかだ。
「お父さんの判断能力が落ちたら、学費は止まるかもしれない」
その一言が、部屋の温度を変えた。
娘の箸が止まる。
「え……?」
息子が顔をしかめる。
「どういうこと?」
真紀は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「もし会社の契約を間違えたり、大きな損失を出したら……あなたたちの学費も生活費も、払えなくなる可能性があるの」
森本は声を荒げる。
「そんな兆候はない」
「でも、可能性はあるでしょう?」
「仮定の話だ」
「予防の話よ」
娘が不安そうに森本を見る。
「お父さん……大丈夫なの?」
その目が、痛い。
「大丈夫だ」
即答する。
「今まで問題を起こしたことはない」
息子が小さく言う。
「でも、最近お母さん、すごい心配してる」
森本は息子を見る。
「心配と事実は違う」
真紀がすぐに口を挟む。
「ほら、そうやって強く言うのも、最近増えてるの」
「議論だ」
「怒ってる」
「怒っていない!」
声が響いた。
鍋の湯気が揺れる。
娘がびくっと肩を震わせた。
森本は、はっとする。
「……悪い」
だが、遅い。
真紀が静かに続ける。
「家庭裁判所にお願いして、保佐という制度を使えば、大きな決定にはチェックが入るの」
息子が眉をひそめる。
「チェックって?」
「お父さん一人で、大きなお金を動かせなくなるの」
森本の胸が締め付けられる。
「それは制限だ」
「安全装置よ」
真紀は、子どもたちの方を向く。
「あなたたちの将来を守るためなの」
守る。
その言葉が、甘くて重い。
娘がゆっくり言う。
「もし……本当にお父さんが間違えたら、私たち、どうなるの?」
森本は、娘の顔を見る。
小さいころ、熱を出して泣いていた顔が重なる。
「間違えない」
「でも、絶対ってないよね?」
その言葉が、刃になる。
息子が低く言う。
「俺、大学行きたい」
森本の心臓が跳ねる。
「行ける」
「保証あるの?」
言葉に詰まる。
真紀がすっと言う。
「保佐があれば、安定する」
森本は立ち上がる。
椅子が床を擦る音が鋭い。
「俺は、無能じゃない」
娘が目を伏せる。
「そうじゃなくて……」
「じゃあ何だ」
「お母さんが泣いてたの、何回も見た」
その一言で、足元が崩れる。
真紀は何も言わない。
ただ、視線を落としている。
演技か、本心か。
もう分からない。
息子が言う。
「俺たち、安心したいだけなんだ」
安心。
森本は、喉が締まる。
「俺を縛ることでか」
娘が、震える声で言う。
「もし何もなかったら、それでいいじゃん」
「何もないなら、縛る必要はない」
「でも、あったら怖い」
その“怖い”が、決定打だった。
子どもたちは、敵ではない。
ただ、不安なのだ。
だがその不安が、自分を追い詰める。
真紀が静かに言う。
「私たちは、家族でしょう?」
森本は、ゆっくり座り直す。
箸を持つが、手が震える。
肉の味が分からない。
甘いはずなのに、砂を噛んでいるようだ。
「……お前たちは、母さん側か」
娘が涙ぐむ。
「側とかじゃない」
「じゃあ何だ」
「普通に、安心したいだけ」
森本は、息が浅くなるのを感じる。
家族の食卓。
温かいはずの場所。
なのに、孤独だ。
「俺は正常だ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
真紀が言う。
「証明できる?」
その一言が、胸を撃つ。
証明。
正常であることを。
娘が小さく言う。
「裁判所でちゃんと見てもらえばいいんだよね?」
森本は、目を閉じる。
守ってきたものが、
今、判断材料として並べられている。
家族の安心。
子どもの将来。
妻の不安。
その天秤の反対側に、
自分の“自由”が置かれている。
息子がぽつりと言う。
「俺は……保佐、賛成」
娘も、ゆっくりうなずく。
「私も」
音が消える。
冷蔵庫のモーター音だけが響く。
森本は、初めて本気で理解する。
味方はいない。
真紀は静かに目を上げる。
「これが、家族の選択よ」
森本の視界が滲む。
怒りではない。
喪失だ。
守るために働き、
守るために稼ぎ、
守るために戦ってきた。
その家族が、
自分を“制限”する側に回る。
孤立。
胸の奥が空洞になる。
「……そうか」
声が、やけに軽い。
真紀が、穏やかに言う。
「大丈夫。私はあなたの味方だから」
その言葉が、何より冷たい。
森本は、ゆっくり立ち上がる。
食卓の匂い。
家族の体温。
すべてが遠い。
自室のドアを閉めると、音が鈍く響いた。
暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。
ログは正確だ。
数字は嘘をつかない。
だが。
人は、数字で動かない。
森本は、ベッドに座り込む。
孤独が、静かに広がる。
戦いは制度とのものだと思っていた。
違う。
最初の敵は、
“恐れ”だ。
そしてその恐れが、
家族をこちら側から引き離す。
胸が締め付けられる。
初めて、本気で追い詰められた。
一人だ。
完全に。
---
ここが奈落です。
ここから反撃に入ると、爆発力が出ます。
さらに絶望を深めますか?
それとも次話で静かな逆襲に入りますか?
あなたの物語は、今いちばん熱い地点にいます。
夕食の匂いが、やけに甘かった。
すき焼きだ。
砂糖と醤油の焦げる匂いが、部屋に重く漂っている。
森本は席に着いた。
向かいに娘。
斜めに息子。
その隣に真紀。
いつもの配置。
だが空気が違う。
箸の先が、鍋の縁に当たる金属音がやけに響く。
「今日は、みんなに話があるの」
真紀が静かに言った。
森本の背筋が、わずかに強張る。
娘が顔を上げる。
息子はスマホを置いた。
「お父さんのことなんだけど」
森本は鍋の湯気越しに、妻を見る。
「やめろ」
「聞いてほしいの」
声は穏やかだ。
「お父さんの判断能力が落ちたら、学費は止まるかもしれない」
その一言が、部屋の温度を変えた。
娘の箸が止まる。
「え……?」
息子が顔をしかめる。
「どういうこと?」
真紀は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「もし会社の契約を間違えたり、大きな損失を出したら……あなたたちの学費も生活費も、払えなくなる可能性があるの」
森本は声を荒げる。
「そんな兆候はない」
「でも、可能性はあるでしょう?」
「仮定の話だ」
「予防の話よ」
娘が不安そうに森本を見る。
「お父さん……大丈夫なの?」
その目が、痛い。
「大丈夫だ」
即答する。
「今まで問題を起こしたことはない」
息子が小さく言う。
「でも、最近お母さん、すごい心配してる」
森本は息子を見る。
「心配と事実は違う」
真紀がすぐに口を挟む。
「ほら、そうやって強く言うのも、最近増えてるの」
「議論だ」
「怒ってる」
「怒っていない!」
声が響いた。
鍋の湯気が揺れる。
娘がびくっと肩を震わせた。
森本は、はっとする。
「……悪い」
だが、遅い。
真紀が静かに続ける。
「家庭裁判所にお願いして、保佐という制度を使えば、大きな決定にはチェックが入るの」
息子が眉をひそめる。
「チェックって?」
「お父さん一人で、大きなお金を動かせなくなるの」
森本の胸が締め付けられる。
「それは制限だ」
「安全装置よ」
真紀は、子どもたちの方を向く。
「あなたたちの将来を守るためなの」
守る。
その言葉が、甘くて重い。
娘がゆっくり言う。
「もし……本当にお父さんが間違えたら、私たち、どうなるの?」
森本は、娘の顔を見る。
小さいころ、熱を出して泣いていた顔が重なる。
「間違えない」
「でも、絶対ってないよね?」
その言葉が、刃になる。
息子が低く言う。
「俺、大学行きたい」
森本の心臓が跳ねる。
「行ける」
「保証あるの?」
言葉に詰まる。
真紀がすっと言う。
「保佐があれば、安定する」
森本は立ち上がる。
椅子が床を擦る音が鋭い。
「俺は、無能じゃない」
娘が目を伏せる。
「そうじゃなくて……」
「じゃあ何だ」
「お母さんが泣いてたの、何回も見た」
その一言で、足元が崩れる。
真紀は何も言わない。
ただ、視線を落としている。
演技か、本心か。
もう分からない。
息子が言う。
「俺たち、安心したいだけなんだ」
安心。
森本は、喉が締まる。
「俺を縛ることでか」
娘が、震える声で言う。
「もし何もなかったら、それでいいじゃん」
「何もないなら、縛る必要はない」
「でも、あったら怖い」
その“怖い”が、決定打だった。
子どもたちは、敵ではない。
ただ、不安なのだ。
だがその不安が、自分を追い詰める。
真紀が静かに言う。
「私たちは、家族でしょう?」
森本は、ゆっくり座り直す。
箸を持つが、手が震える。
肉の味が分からない。
甘いはずなのに、砂を噛んでいるようだ。
「……お前たちは、母さん側か」
娘が涙ぐむ。
「側とかじゃない」
「じゃあ何だ」
「普通に、安心したいだけ」
森本は、息が浅くなるのを感じる。
家族の食卓。
温かいはずの場所。
なのに、孤独だ。
「俺は正常だ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
真紀が言う。
「証明できる?」
その一言が、胸を撃つ。
証明。
正常であることを。
娘が小さく言う。
「裁判所でちゃんと見てもらえばいいんだよね?」
森本は、目を閉じる。
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家族の安心。
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妻の不安。
その天秤の反対側に、
自分の“自由”が置かれている。
息子がぽつりと言う。
「俺は……保佐、賛成」
娘も、ゆっくりうなずく。
「私も」
音が消える。
冷蔵庫のモーター音だけが響く。
森本は、初めて本気で理解する。
味方はいない。
真紀は静かに目を上げる。
「これが、家族の選択よ」
森本の視界が滲む。
怒りではない。
喪失だ。
守るために働き、
守るために稼ぎ、
守るために戦ってきた。
その家族が、
自分を“制限”する側に回る。
孤立。
胸の奥が空洞になる。
「……そうか」
声が、やけに軽い。
真紀が、穏やかに言う。
「大丈夫。私はあなたの味方だから」
その言葉が、何より冷たい。
森本は、ゆっくり立ち上がる。
食卓の匂い。
家族の体温。
すべてが遠い。
自室のドアを閉めると、音が鈍く響いた。
暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。
ログは正確だ。
数字は嘘をつかない。
だが。
人は、数字で動かない。
森本は、ベッドに座り込む。
孤独が、静かに広がる。
戦いは制度とのものだと思っていた。
違う。
最初の敵は、
“恐れ”だ。
そしてその恐れが、
家族をこちら側から引き離す。
胸が締め付けられる。
初めて、本気で追い詰められた。
一人だ。
完全に。
---
ここが奈落です。
ここから反撃に入ると、爆発力が出ます。
さらに絶望を深めますか?
それとも次話で静かな逆襲に入りますか?
あなたの物語は、今いちばん熱い地点にいます。
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