『統計上の失踪者』 ―9万人の中の一人にされた男―

かおるこ

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第9話 確率

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第9話 確率

家庭裁判所の待合室は、静かすぎた。

空調の低い風。
古いカーペットの埃っぽい匂い。
壁の時計が、秒を刻む。

森本隆は、膝の上に両手を置いて座っている。

掌は乾いている。

震えていない。

扉が開く。

「森本様」

書記官の声。

白い光の廊下を歩く。
靴底が、わずかに軋む。

法廷。

木の机。
傍聴席の硬い椅子。

正面に裁判官。
右に鑑定医。
左に真紀。

視線が交差する。

裁判官が淡々と告げる。

「鑑定結果が提出されました」

紙をめくる音。

森本の鼓動が、一瞬だけ早くなる。

「結論から申し上げます。認知症の医学的所見なし」

空気が、わずかに揺れた。

胸の奥に、熱が戻る。

だが。

真紀がすぐに口を開く。

「初期は検査に出ないこともあります」

声は落ち着いている。

「MMSEだけで全ては判断できません」

鑑定医が言う。

「総合的に判断しております」

真紀は食い下がる。

「日常の変化は、家族が一番分かるはずです」

裁判官が森本を見る。

「申立人の主張に対し、何かありますか」

森本は、ゆっくり立ち上がる。

木の机の匂い。
法廷の乾いた空気。

「あります」

声は、静かだ。

「私は半年間、担当プロジェクトで業務エラーゼロを維持しています」

真紀が口を挟む。

「それは部下が優秀だから」

森本は続ける。

「財務記録、契約書、議事録、すべてログがあります」

裁判官が言う。

「それが何を意味しますか」

森本は一歩、前に出る。

「認知症患者が、半年間、複数企業との契約管理において重大エラーゼロを維持する確率は?」

法廷の空気が止まる。

真紀の眉が動く。

「確率の問題ではありません」

「いいえ、確率です」

森本の声は落ち着いている。

「統計的に、認知機能低下が進行している場合、業務ミスの頻度は上昇します」

裁判官が腕を組む。

「具体的な数字は」

森本は資料を提出する。

「国内外の研究では、中等度の認知機能低下がある場合、業務エラー発生率は平均で三倍以上に増加」

真紀が言う。

「でも、彼はITの仕事をしている。取り繕うことは可能」

森本は振り向く。

「取り繕うために、毎日三十件の契約判断を正確に行うのか?」

沈黙。

鑑定医が口を開く。

「臨床的にも、現時点での機能低下は認められません」

真紀の声がわずかに硬くなる。

「家族の証言は?」

森本は、深く息を吸う。

空気が肺に入る。

冷たい。

「家族の不安と、医学的事実は別です」

彩花が傍聴席で目を伏せる。

恒一は、拳を握っている。

森本は続ける。

「私に対する虚偽の捜索願は三回提出されています」

法廷がざわつく。

裁判官が眉を上げる。

「虚偽と断定できますか」

「出張中、空港、商談中。位置情報、搭乗履歴、録音データがあります」

佐伯刑事が後方で小さく頷く。

真紀の顔が強張る。

「それは心配から」

森本は言う。

「心配が三回続き、全て業務中だった確率は?」

その一言が、鋭い。

裁判官が書類をめくる。

「申立人、三回の捜索願について説明できますか」

真紀の喉がわずかに動く。

「不安だったんです」

「不安は事実を変えません」

森本の声は、低く、静かだ。

怒鳴らない。

「制度は、不安を保護するためにあります。しかし、事実を無視するためではありません」

空気が、変わる。

裁判官の視線が、真紀から森本へ移る。

森本は最後に言う。

「私は統計の対象ではありません」

一瞬、言葉を飲み込む。

「年間九万人の行方不明者。その中に、虚偽が混じる確率は?」

静寂。

木の机の匂い。
誰かの咳払い。

裁判官が静かに告げる。

「本件、保佐開始の要件を満たすとは認められません」

その言葉が、落ちる。

重く。

確実に。

真紀の肩が、わずかに落ちる。

森本の膝から、力が抜ける。

だが倒れない。

立ったまま、息を吐く。

胸の奥に溜まっていた重石が、ゆっくり外れる。

恒一が、小さく言う。

「……父さん」

彩花の目に涙が滲む。

真紀は、視線を逸らした。

森本は理解する。

勝った。

だが。

家族の亀裂は、すぐには戻らない。

法廷を出ると、外は晴れていた。

青い空。

光が眩しい。

森本は、静かに呟く。

「俺は、統計じゃない」

その声は、誰にも聞こえなかった。

だが確かに、世界は反転していた。


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