『60歳からの再起動』

かおるこ

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第3話:推し活から生まれる投資 ― 専門家を超えろ

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第3話:推し活から生まれる投資 ― 専門家を超えろ

四月の柔らかな陽光が、工藤の書斎に差し込んでいた。
かつては「出社までのタイムリミット」に追われていた朝の光が、今は思考を深めるための、穏やかなスポットライトに変わっている。

工藤は、デスクに置かれた「あるもの」を手に取った。
昨日、秋葉原のショップでようやく手に入れた、最新のソーシャルゲーム『スターライト・レゾナンス』の限定アクリルスタンドだ。
透明なプラスチックの板に、鮮やかな色彩で描かれた歌姫。

「……美しいな」

工藤は、エンジニア時代に培った鋭い観察眼で、その造形を眺める。
単なる「キャラクターグッズ」ではない。印刷の階調、カッティングの精度、そして何より、キャラクターの眼差しに宿る「熱量」が違う。

彼はPCを立ち上げ、証券会社が発行した「エンターテインメント業界レポート」を画面に呼び出した。

『……国内スマホゲーム市場は飽和状態にあり、新作「スターライト・レゾナンス」の収益貢献は限定的と予測される。目標株価は据え置き、投資判断は「中立」……』

工藤は鼻で笑った。
「飽和、か。数字の羅列しか見ていない連中には、この熱が視認できないらしい」

彼はブラウザのタブを、投資サイトから「ユーザーコミュニティ」の掲示板へと切り替えた。
そこには、昨夜行われたゲーム内イベントに対する、数万件に及ぶ書き込みが濁流のように流れていた。

> 342: **名無しの歌姫**
> 今回の更新、控えめに言って「神」。10万課金したけど一ミリも後悔してない。
> 345: **名無しの歌姫**
> 分かる。新曲のダンス、指先の動きがエロすぎるだろ。これ中の人の癖(くせ)まで再現してないか?
> 350: **名無しの歌姫**
> 推しが「生きてる」感やばい。今までのソシャゲが紙芝居に見える。ボーナス全部突っ込むわ。

「……見つけたぞ、異常値(アノマリー)を」

工藤の眼が、エンジニアとしての鋭さを増す。
彼は美津子を書斎へ呼んだ。

「美津子、ちょっとこの画面を見てくれ。何を感じる?」

美津子は画面を覗き込み、眉をひそめた。「……何これ。すごい文字数。みんな、こんなに一晩中喋ってるの?」

「ああ。アナリストたちは、去年のヒット作と比較して『ユーザー数は横ばいだ』と言っている。だが、彼らは致命的なバグを見落としているんだ。アクティブユーザーの『密度』が違う。今回のアップデートで導入された3Dモーション……これを見てくれ」

工藤はデモ動画を再生し、キャラクターの手元を拡大した。
「この滑らかな指の動き。これは第2話で見つけた『スタジオ・クォンタム』のモーションキャプチャ技術だ。彼らが裏方として入ったことで、ゲームが単なるソフトから『信仰』へと昇華されたんだ。ユーザーは今、機能に金を払っているんじゃない。存在そのものに、祈りを捧げるように課金している」

工藤は美津子に向き直り、断言した。

「**『アナリストより、オタクの方が市場を知っている』**。これが俺の結論だ」

「オタクの方が……?」

「ああ。アナリストは、決算発表という『過去の遺物』を見て未来を語る。だが、オタクは『今、目の前で起きている熱狂』という一次情報を握っている。キャンプが好きなら、どのテントが本当に売れているか。釣りが好きなら、どのルアーに魚が食いつくか。趣味は、最強の市場調査なんだ」

工藤は再びデスクに座り、運営会社『アステリズム・エンターテインメント』の株価チャートを開いた。
横ばいの線が、今にも上へ突き抜けようと震えている。

「市場はまだ、この狂乱が次期の収益を爆発させることに気づいていない。だが、俺には聞こえる。世界中のユーザーが財布の紐を緩め、クレジットカードの承認音が鳴り響く、あのデジタルな合唱が」

工藤の指が、マウスの上で静止した。
第2話での三百万の投資は、すでに一割の含み益を出している。
だが、今回はその比ではない。

「……一千万、行く」

美津子が息を呑んだ。「健一さん、正気なの? 退職金の三分の一よ」

「正気だよ、美津子。これほど安全率の高い勝負はない」

工藤は、深く息を吸い込んだ。
マウスの左ボタンをクリックする。

「カチッ」

それは、工藤の人生という回路において、最大級の電流が流れた音だった。

「……よし。発注完了だ」

工藤は、椅子の背もたれに体を預けた。
モニターの光が、彼の顔を青白く、しかし力強く照らし出している。
恐怖はなかった。あるのは、自分が愛した世界が、巨大な資本の海で正当に評価される瞬間を、最前列で見届けるというワクワク感だけだ。

「さあ、見せてくれ。オタクの執着心が、市場の常識をいかに粉砕するかを」

工藤は、アクリルスタンドをそっとデスクの隅に置いた。
窓の外では、春の風が新しい季節の到来を告げていた。
彼という名のエンジニアが、投資家という名の「市場のデバッガー」へと完全にトランスフォームした瞬間だった。

---

**第3話 完**

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