『相続人は、追い出された娘でした』

かおるこ

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第3話:未成年後見人

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 第3話:未成年後見人

施設の玄関チャイムは、いつもより一拍長く鳴った。

その音が、胸の奥のどこかを叩く。――嫌な予感、と言えば簡単だけれど、私の中で動いたのはもっと冷たいものだった。五年前からずっと、何かを期待しないように固めてきた氷が、ぎしりと軋んだような感覚。

廊下には石鹸とワックスの匂いが漂っている。朝の掃除が終わったばかりで、床が不自然なほどつるりとしていた。靴底が擦れる音が、やけに大きい。

「心陽ちゃん、ちょっと来てくれる?」

三浦先生が声をかけてくる。いつも柔らかい声なのに、今日はほんの少し、慎重に言葉を選んでいるみたいだった。

「……はい」

返事をすると、自分の声が自分のものじゃないみたいに遠い。

応接室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。

甘さのない香水。新しいスーツの布の匂い。紙と革の匂い。施設の“生活の匂い”とは違う、外の世界の匂いがそこにあった。

窓際に、男が座っていた。

黒に近い紺のスーツ。白いシャツ。結び目が寸分違わないネクタイ。眼鏡の奥の目は、冷たくないのに、まっすぐで、逃げ道を与えない。

彼は立ち上がり、深く一礼した。

「三浦心陽様ですね」

その呼び方が、耳の奥を熱くする。

様。

名前に敬称がつくのは、怒鳴られるときでも罵られるときでもなかった。私が聞いてきたのは、命令のための名前だけだった。

「……はい。三浦心陽です」

名乗ると、彼はさらに丁寧に頭を下げた。

「橘と申します。弁護士です。本日は、重要なお話があって参りました」

弁護士。

その単語が、硬い石みたいに胸に落ちる。

「あなたの――未成年後見人として、正式にご挨拶を」

「……未成年後見人?」

言い返した瞬間、声が少しだけ裏返った。恥ずかしさより先に、警戒心が立ち上がる。施設に来る大人は大抵、こちらを“かわいそう”か“面倒”のどちらかで見る。私はその視線に慣れている。

でも、橘は違った。

かわいそうでも、面倒でもない。
ただ、淡々と“事実”を運んでくる人の目。

三浦先生が私の横に座り、手を膝の上で組んだ。

「心陽ちゃん、びっくりするよね。でもね、ちゃんと聞こう」

私は頷いた。頷くしかなかった。

橘は鞄から、薄い封筒を取り出した。角が少し擦れている。何度も出し入れされた紙の疲れた匂いがした。

「まず、あなたに確認させてください。お父様が亡くなられたのは、あなたが十三歳のとき。そうですね」

「……はい」

父の顔が浮かぶ。新聞の陰。湯呑の湯気。あの日の線香の匂い。

「その後、あなたは施設へ入所した」

「……そうです」

「その際、“お父様の遺志”だと聞かされた」

私は息を吸った。喉の奥がきしむ。

「……そう言われました」

言った途端、舌が苦くなる。信じた言葉だ。信じたくなかったのに、信じるしかなかった言葉だ。

橘は小さく頷き、静かな声で続けた。

「結論から申し上げます。施設入所が遺志だったという話は、事実ではありません」

頭の中が一瞬、真っ白になった。

「……え?」

自分の声が、誰かの声みたいに聞こえた。

「虚偽です。あなたを施設へ送るために、死者の名を使った――そう言い換えても構いません」

死者の名を使った。

その言い方が、胸の奥に火花を散らした。怒りなのか、悔しさなのか、分からない。分からないまま、体の奥が熱くなっていく。

「では……私がここにいるのは……」

「あなたを守るための時間でした」

橘の声は淡々としているのに、その言葉だけが不意に柔らかい。

守る。

その単語が、私の中でうまく形にならない。守られた記憶なんて、ほとんどないから。

「あなたは、お父様の唯一の相続人です」

その瞬間、窓の外の音が遠のいた。

廊下を歩く足音も、時計の針の音も、すべてガラス越しになったみたいに。

「……相続人?」

「はい。お父様は遺言を残されています」

遺言。

その言葉は私にとって、刃だった。
私を切り捨てるための言葉だと思っていた。

なのに。

橘は封筒を机の上に置き、まっすぐ私を見た。

「こちらは、あなた宛てに残された手紙です。遺言書とは別に保管されていました。あなたが十八歳になったら渡すように、と」

封筒には、見覚えのある筆跡があった。

右上がりの、少し急いだような文字。

――心陽へ。

指先が、勝手に震えた。

「……本当に……父の、字……」

声が、喉の奥でほどけてしまう。

橘は小さく頷く。

「開封はあなたの意思で。無理にとは申しません」

無理にとは――言わない。

そんなふうに扱われたのは、いつ以来だろう。私の意思。私の選択。私のタイミング。

私は封筒に手を伸ばした。紙のざらつきが指に伝わる。ほんの少しだけ、煙草の匂いがした気がした。父の上着に染みついていた匂い。冬の夕方の玄関にいつも残っていた匂い。

封を切る音が、やけに大きく響いた。

便箋を取り出した途端、心臓が跳ねた。紙が軽いのに、手が重い。

『心陽へ。
お前がこれを読む頃、私はもういないだろう』

目が、熱くなる。

『父として、私は失格だった。
お前を守れなかった。
何度も、何度も、言い訳をして逃げた』

文字が滲む。滲むのに、読まなきゃいけない気がした。読まないと、五年が全部、嘘になってしまう。

『だが、私は何も知らなかったわけではない。
あの女が、お前に何をさせ、何を奪ったか。
連れ子たちが何をして笑ったか。
全部、知っていた』

――知っていた。

喉が詰まり、息がひゅっと漏れた。

知っていたのに。
見ていたのに。
黙っていたのに。

怒りが湧く。湧くのに、涙が止まらない。矛盾しているのに、体は正直だった。

『お前が十三の冬、俺は倒れた。
その前から心臓は限界だった。
だから、遺言でしか、お前に残せないものがあると思った』

便箋が、指の震えでかすかに擦れる音を立てる。

『未成年のうちに、お前をあの家に置いておけば、あの女に搾り取られる。
法は守ってくれない。
俺はもっと早く動くべきだった。
だが、遅すぎた。
だから、お前を“遠ざける”ことだけが、俺の残った手段だった』

遠ざける。

施設に行けという“遺志”が、嘘だったこと。

それでも、私がここにいたのは偶然じゃないこと。

胸の奥が、ずるずると崩れていく。五年間、固めていた氷が溶けて、冷たい水になって流れ出す。

『心陽。
十八歳になったら、すべてを取り戻せ。
家も、財産も、名前も、尊厳も。
それは“復讐”のためではない。
お前が、お前の人生を生きるためだ』

尊厳。

その言葉が、私の中で初めて意味を持つ。

私はずっと、奪われる前提で生きてきた。自分の意見は面倒を呼ぶ。希望は裏切りを連れてくる。だから、何も持たないふりをしてきた。

でも、父は言う。

取り戻せ、と。

『証拠は揃えてある。
通帳、録音、写真、日記。
必要なら、橘先生がすべて渡す。
お前が望むなら、法は味方になる』

法は味方になる。

その一文が、驚くほど温かい。
守ってくれないと思っていたものが、味方になると言われたから。

私は便箋を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。慌てて手を緩める。父の文字を、壊したくない。

「……父は……」

声を出した瞬間、涙が落ちた。便箋に雫が落ち、インクがほんの少し滲む。

「あの人……知ってたのに……」

怒りのはずなのに、声が震える。喉の奥が痛い。吐き出したいのに、言葉が詰まる。

三浦先生が、そっとティッシュを差し出した。

「心陽ちゃん……」

私はティッシュを受け取る手が震えて、うまく取れなかった。

橘は、少しだけ目を伏せた。

「……お父様は、あなたに直接渡せないことを悔いていました。亡くなる直前まで、この件の書類を整えていました」

「じゃあ……どうして……私に……何も……」

“どうして”の先が言えない。

どうして助けてくれなかった。
どうして私を置いて死んだ。
どうして――。

橘は、言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに言った。

「あなたが未成年の間、あなたの後見は奥様側にありました。お父様の死後、あなたを直接保護する法的権限は、あなたが思うほど簡単には動きません。……それでも、お父様は“十八歳になったときに剣を渡す”形を選んだ」

剣。

その言葉が、私の中で火種になる。

剣を持てば、戦える。
戦えば、奪われたものを取り返せる。

でも。

剣は重い。
握れば、もう戻れない。

「……私、何をすればいいの」

自分でも驚くほど、素直な声だった。

橘は、鞄からもう一つの書類を出した。紙の角が揃っている。インクの匂いが新しい。

「まずは確認です。ご自宅の土地建物はすでにあなた名義に変更済みです。あなたが十八歳になった本日、正式に管理権があなたへ移ります」

「……私の……名義」

言葉が、口の中で転がる。

名義なんて、縁のない世界の言葉だった。私のものは、いつも“使わせてもらっているもの”だったから。

「預貯金、多額の株式、不動産。総資産の詳細は後ほど一覧でお渡しします。今日お伝えするべきことは一つ――あなたは、捨てられたのではない。権利を奪われていただけだ、ということです」

権利。

それは私の中で、形のない幽霊みたいなものだった。
あると言われても信じられない。
でも、机の上の書類と、父の文字は嘘をつけない。

「……あの人たちは」

声が低くなるのが分かった。

「まだ、あの家に……いるんですよね」

橘は頷いた。

「はい」

その肯定は、燃料だった。

胸の奥の炎が、はっきりと形になる。

「……行きます」

三浦先生が息を呑む。

「心陽ちゃん……」

私は便箋を胸に押し当てた。紙越しに、自分の心臓の鼓動が伝わる。早い。うるさい。でも――生きている。

「……私、帰ります。帰るっていうか……取り戻しに」

“帰る場所”はない。
でも、“取り戻す場所”はある。

それは、復讐のためじゃない。

父の言葉が、まだ胸の中で濡れている。

――お前が、お前の人生を生きるためだ。

橘が立ち上がり、ゆっくりと一礼した。

「では、参りましょう。心陽様」

様。

その敬称を、今度は拒みたくなかった。

私は立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、甲高い音がした。足が少し震えた。怖い。でも、怖いまま進むしかない。

応接室のドアを開けると、廊下の石鹸の匂いが戻ってくる。

五年間の匂い。
生き延びた匂い。

私は一度だけ振り返り、三浦先生を見た。

「先生」

「うん」

「……ありがとう」

言えた。ちゃんと言えた。

先生の目が細くなる。泣いているのか笑っているのか分からない顔。

「行っておいで。心陽ちゃん。……あなたの家に」

家。

その言葉が、胸の奥で鳴った。

私はドアの向こうへ歩き出す。

廊下の窓から差し込む冬の光が、床に白い帯を作っている。その上を踏むと、靴底がきゅっと鳴った。

黒塗りの車のドアが開く。

外の空気は、施設の中よりずっと冷たい。頬が一瞬で痛くなる。でも、その痛みは、確かに私を“今”に引き戻した。

私はシートに腰を下ろし、父の便箋をもう一度見た。

滲んだ文字が、消えずに残っている。

消えない。
奪わせない。

車が静かに走り出す。タイヤが砂利を踏む音が、遠ざかっていく。

私は、窓の外の世界を見た。

逃げるためじゃない。

取り戻すために。

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