4 / 11
第3話:未成年後見人
しおりを挟む
第3話:未成年後見人
施設の玄関チャイムは、いつもより一拍長く鳴った。
その音が、胸の奥のどこかを叩く。――嫌な予感、と言えば簡単だけれど、私の中で動いたのはもっと冷たいものだった。五年前からずっと、何かを期待しないように固めてきた氷が、ぎしりと軋んだような感覚。
廊下には石鹸とワックスの匂いが漂っている。朝の掃除が終わったばかりで、床が不自然なほどつるりとしていた。靴底が擦れる音が、やけに大きい。
「心陽ちゃん、ちょっと来てくれる?」
三浦先生が声をかけてくる。いつも柔らかい声なのに、今日はほんの少し、慎重に言葉を選んでいるみたいだった。
「……はい」
返事をすると、自分の声が自分のものじゃないみたいに遠い。
応接室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
甘さのない香水。新しいスーツの布の匂い。紙と革の匂い。施設の“生活の匂い”とは違う、外の世界の匂いがそこにあった。
窓際に、男が座っていた。
黒に近い紺のスーツ。白いシャツ。結び目が寸分違わないネクタイ。眼鏡の奥の目は、冷たくないのに、まっすぐで、逃げ道を与えない。
彼は立ち上がり、深く一礼した。
「三浦心陽様ですね」
その呼び方が、耳の奥を熱くする。
様。
名前に敬称がつくのは、怒鳴られるときでも罵られるときでもなかった。私が聞いてきたのは、命令のための名前だけだった。
「……はい。三浦心陽です」
名乗ると、彼はさらに丁寧に頭を下げた。
「橘と申します。弁護士です。本日は、重要なお話があって参りました」
弁護士。
その単語が、硬い石みたいに胸に落ちる。
「あなたの――未成年後見人として、正式にご挨拶を」
「……未成年後見人?」
言い返した瞬間、声が少しだけ裏返った。恥ずかしさより先に、警戒心が立ち上がる。施設に来る大人は大抵、こちらを“かわいそう”か“面倒”のどちらかで見る。私はその視線に慣れている。
でも、橘は違った。
かわいそうでも、面倒でもない。
ただ、淡々と“事実”を運んでくる人の目。
三浦先生が私の横に座り、手を膝の上で組んだ。
「心陽ちゃん、びっくりするよね。でもね、ちゃんと聞こう」
私は頷いた。頷くしかなかった。
橘は鞄から、薄い封筒を取り出した。角が少し擦れている。何度も出し入れされた紙の疲れた匂いがした。
「まず、あなたに確認させてください。お父様が亡くなられたのは、あなたが十三歳のとき。そうですね」
「……はい」
父の顔が浮かぶ。新聞の陰。湯呑の湯気。あの日の線香の匂い。
「その後、あなたは施設へ入所した」
「……そうです」
「その際、“お父様の遺志”だと聞かされた」
私は息を吸った。喉の奥がきしむ。
「……そう言われました」
言った途端、舌が苦くなる。信じた言葉だ。信じたくなかったのに、信じるしかなかった言葉だ。
橘は小さく頷き、静かな声で続けた。
「結論から申し上げます。施設入所が遺志だったという話は、事実ではありません」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
「……え?」
自分の声が、誰かの声みたいに聞こえた。
「虚偽です。あなたを施設へ送るために、死者の名を使った――そう言い換えても構いません」
死者の名を使った。
その言い方が、胸の奥に火花を散らした。怒りなのか、悔しさなのか、分からない。分からないまま、体の奥が熱くなっていく。
「では……私がここにいるのは……」
「あなたを守るための時間でした」
橘の声は淡々としているのに、その言葉だけが不意に柔らかい。
守る。
その単語が、私の中でうまく形にならない。守られた記憶なんて、ほとんどないから。
「あなたは、お父様の唯一の相続人です」
その瞬間、窓の外の音が遠のいた。
廊下を歩く足音も、時計の針の音も、すべてガラス越しになったみたいに。
「……相続人?」
「はい。お父様は遺言を残されています」
遺言。
その言葉は私にとって、刃だった。
私を切り捨てるための言葉だと思っていた。
なのに。
橘は封筒を机の上に置き、まっすぐ私を見た。
「こちらは、あなた宛てに残された手紙です。遺言書とは別に保管されていました。あなたが十八歳になったら渡すように、と」
封筒には、見覚えのある筆跡があった。
右上がりの、少し急いだような文字。
――心陽へ。
指先が、勝手に震えた。
「……本当に……父の、字……」
声が、喉の奥でほどけてしまう。
橘は小さく頷く。
「開封はあなたの意思で。無理にとは申しません」
無理にとは――言わない。
そんなふうに扱われたのは、いつ以来だろう。私の意思。私の選択。私のタイミング。
私は封筒に手を伸ばした。紙のざらつきが指に伝わる。ほんの少しだけ、煙草の匂いがした気がした。父の上着に染みついていた匂い。冬の夕方の玄関にいつも残っていた匂い。
封を切る音が、やけに大きく響いた。
便箋を取り出した途端、心臓が跳ねた。紙が軽いのに、手が重い。
『心陽へ。
お前がこれを読む頃、私はもういないだろう』
目が、熱くなる。
『父として、私は失格だった。
お前を守れなかった。
何度も、何度も、言い訳をして逃げた』
文字が滲む。滲むのに、読まなきゃいけない気がした。読まないと、五年が全部、嘘になってしまう。
『だが、私は何も知らなかったわけではない。
あの女が、お前に何をさせ、何を奪ったか。
連れ子たちが何をして笑ったか。
全部、知っていた』
――知っていた。
喉が詰まり、息がひゅっと漏れた。
知っていたのに。
見ていたのに。
黙っていたのに。
怒りが湧く。湧くのに、涙が止まらない。矛盾しているのに、体は正直だった。
『お前が十三の冬、俺は倒れた。
その前から心臓は限界だった。
だから、遺言でしか、お前に残せないものがあると思った』
便箋が、指の震えでかすかに擦れる音を立てる。
『未成年のうちに、お前をあの家に置いておけば、あの女に搾り取られる。
法は守ってくれない。
俺はもっと早く動くべきだった。
だが、遅すぎた。
だから、お前を“遠ざける”ことだけが、俺の残った手段だった』
遠ざける。
施設に行けという“遺志”が、嘘だったこと。
それでも、私がここにいたのは偶然じゃないこと。
胸の奥が、ずるずると崩れていく。五年間、固めていた氷が溶けて、冷たい水になって流れ出す。
『心陽。
十八歳になったら、すべてを取り戻せ。
家も、財産も、名前も、尊厳も。
それは“復讐”のためではない。
お前が、お前の人生を生きるためだ』
尊厳。
その言葉が、私の中で初めて意味を持つ。
私はずっと、奪われる前提で生きてきた。自分の意見は面倒を呼ぶ。希望は裏切りを連れてくる。だから、何も持たないふりをしてきた。
でも、父は言う。
取り戻せ、と。
『証拠は揃えてある。
通帳、録音、写真、日記。
必要なら、橘先生がすべて渡す。
お前が望むなら、法は味方になる』
法は味方になる。
その一文が、驚くほど温かい。
守ってくれないと思っていたものが、味方になると言われたから。
私は便箋を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。慌てて手を緩める。父の文字を、壊したくない。
「……父は……」
声を出した瞬間、涙が落ちた。便箋に雫が落ち、インクがほんの少し滲む。
「あの人……知ってたのに……」
怒りのはずなのに、声が震える。喉の奥が痛い。吐き出したいのに、言葉が詰まる。
三浦先生が、そっとティッシュを差し出した。
「心陽ちゃん……」
私はティッシュを受け取る手が震えて、うまく取れなかった。
橘は、少しだけ目を伏せた。
「……お父様は、あなたに直接渡せないことを悔いていました。亡くなる直前まで、この件の書類を整えていました」
「じゃあ……どうして……私に……何も……」
“どうして”の先が言えない。
どうして助けてくれなかった。
どうして私を置いて死んだ。
どうして――。
橘は、言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに言った。
「あなたが未成年の間、あなたの後見は奥様側にありました。お父様の死後、あなたを直接保護する法的権限は、あなたが思うほど簡単には動きません。……それでも、お父様は“十八歳になったときに剣を渡す”形を選んだ」
剣。
その言葉が、私の中で火種になる。
剣を持てば、戦える。
戦えば、奪われたものを取り返せる。
でも。
剣は重い。
握れば、もう戻れない。
「……私、何をすればいいの」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
橘は、鞄からもう一つの書類を出した。紙の角が揃っている。インクの匂いが新しい。
「まずは確認です。ご自宅の土地建物はすでにあなた名義に変更済みです。あなたが十八歳になった本日、正式に管理権があなたへ移ります」
「……私の……名義」
言葉が、口の中で転がる。
名義なんて、縁のない世界の言葉だった。私のものは、いつも“使わせてもらっているもの”だったから。
「預貯金、多額の株式、不動産。総資産の詳細は後ほど一覧でお渡しします。今日お伝えするべきことは一つ――あなたは、捨てられたのではない。権利を奪われていただけだ、ということです」
権利。
それは私の中で、形のない幽霊みたいなものだった。
あると言われても信じられない。
でも、机の上の書類と、父の文字は嘘をつけない。
「……あの人たちは」
声が低くなるのが分かった。
「まだ、あの家に……いるんですよね」
橘は頷いた。
「はい」
その肯定は、燃料だった。
胸の奥の炎が、はっきりと形になる。
「……行きます」
三浦先生が息を呑む。
「心陽ちゃん……」
私は便箋を胸に押し当てた。紙越しに、自分の心臓の鼓動が伝わる。早い。うるさい。でも――生きている。
「……私、帰ります。帰るっていうか……取り戻しに」
“帰る場所”はない。
でも、“取り戻す場所”はある。
それは、復讐のためじゃない。
父の言葉が、まだ胸の中で濡れている。
――お前が、お前の人生を生きるためだ。
橘が立ち上がり、ゆっくりと一礼した。
「では、参りましょう。心陽様」
様。
その敬称を、今度は拒みたくなかった。
私は立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、甲高い音がした。足が少し震えた。怖い。でも、怖いまま進むしかない。
応接室のドアを開けると、廊下の石鹸の匂いが戻ってくる。
五年間の匂い。
生き延びた匂い。
私は一度だけ振り返り、三浦先生を見た。
「先生」
「うん」
「……ありがとう」
言えた。ちゃんと言えた。
先生の目が細くなる。泣いているのか笑っているのか分からない顔。
「行っておいで。心陽ちゃん。……あなたの家に」
家。
その言葉が、胸の奥で鳴った。
私はドアの向こうへ歩き出す。
廊下の窓から差し込む冬の光が、床に白い帯を作っている。その上を踏むと、靴底がきゅっと鳴った。
黒塗りの車のドアが開く。
外の空気は、施設の中よりずっと冷たい。頬が一瞬で痛くなる。でも、その痛みは、確かに私を“今”に引き戻した。
私はシートに腰を下ろし、父の便箋をもう一度見た。
滲んだ文字が、消えずに残っている。
消えない。
奪わせない。
車が静かに走り出す。タイヤが砂利を踏む音が、遠ざかっていく。
私は、窓の外の世界を見た。
逃げるためじゃない。
取り戻すために。
施設の玄関チャイムは、いつもより一拍長く鳴った。
その音が、胸の奥のどこかを叩く。――嫌な予感、と言えば簡単だけれど、私の中で動いたのはもっと冷たいものだった。五年前からずっと、何かを期待しないように固めてきた氷が、ぎしりと軋んだような感覚。
廊下には石鹸とワックスの匂いが漂っている。朝の掃除が終わったばかりで、床が不自然なほどつるりとしていた。靴底が擦れる音が、やけに大きい。
「心陽ちゃん、ちょっと来てくれる?」
三浦先生が声をかけてくる。いつも柔らかい声なのに、今日はほんの少し、慎重に言葉を選んでいるみたいだった。
「……はい」
返事をすると、自分の声が自分のものじゃないみたいに遠い。
応接室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
甘さのない香水。新しいスーツの布の匂い。紙と革の匂い。施設の“生活の匂い”とは違う、外の世界の匂いがそこにあった。
窓際に、男が座っていた。
黒に近い紺のスーツ。白いシャツ。結び目が寸分違わないネクタイ。眼鏡の奥の目は、冷たくないのに、まっすぐで、逃げ道を与えない。
彼は立ち上がり、深く一礼した。
「三浦心陽様ですね」
その呼び方が、耳の奥を熱くする。
様。
名前に敬称がつくのは、怒鳴られるときでも罵られるときでもなかった。私が聞いてきたのは、命令のための名前だけだった。
「……はい。三浦心陽です」
名乗ると、彼はさらに丁寧に頭を下げた。
「橘と申します。弁護士です。本日は、重要なお話があって参りました」
弁護士。
その単語が、硬い石みたいに胸に落ちる。
「あなたの――未成年後見人として、正式にご挨拶を」
「……未成年後見人?」
言い返した瞬間、声が少しだけ裏返った。恥ずかしさより先に、警戒心が立ち上がる。施設に来る大人は大抵、こちらを“かわいそう”か“面倒”のどちらかで見る。私はその視線に慣れている。
でも、橘は違った。
かわいそうでも、面倒でもない。
ただ、淡々と“事実”を運んでくる人の目。
三浦先生が私の横に座り、手を膝の上で組んだ。
「心陽ちゃん、びっくりするよね。でもね、ちゃんと聞こう」
私は頷いた。頷くしかなかった。
橘は鞄から、薄い封筒を取り出した。角が少し擦れている。何度も出し入れされた紙の疲れた匂いがした。
「まず、あなたに確認させてください。お父様が亡くなられたのは、あなたが十三歳のとき。そうですね」
「……はい」
父の顔が浮かぶ。新聞の陰。湯呑の湯気。あの日の線香の匂い。
「その後、あなたは施設へ入所した」
「……そうです」
「その際、“お父様の遺志”だと聞かされた」
私は息を吸った。喉の奥がきしむ。
「……そう言われました」
言った途端、舌が苦くなる。信じた言葉だ。信じたくなかったのに、信じるしかなかった言葉だ。
橘は小さく頷き、静かな声で続けた。
「結論から申し上げます。施設入所が遺志だったという話は、事実ではありません」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
「……え?」
自分の声が、誰かの声みたいに聞こえた。
「虚偽です。あなたを施設へ送るために、死者の名を使った――そう言い換えても構いません」
死者の名を使った。
その言い方が、胸の奥に火花を散らした。怒りなのか、悔しさなのか、分からない。分からないまま、体の奥が熱くなっていく。
「では……私がここにいるのは……」
「あなたを守るための時間でした」
橘の声は淡々としているのに、その言葉だけが不意に柔らかい。
守る。
その単語が、私の中でうまく形にならない。守られた記憶なんて、ほとんどないから。
「あなたは、お父様の唯一の相続人です」
その瞬間、窓の外の音が遠のいた。
廊下を歩く足音も、時計の針の音も、すべてガラス越しになったみたいに。
「……相続人?」
「はい。お父様は遺言を残されています」
遺言。
その言葉は私にとって、刃だった。
私を切り捨てるための言葉だと思っていた。
なのに。
橘は封筒を机の上に置き、まっすぐ私を見た。
「こちらは、あなた宛てに残された手紙です。遺言書とは別に保管されていました。あなたが十八歳になったら渡すように、と」
封筒には、見覚えのある筆跡があった。
右上がりの、少し急いだような文字。
――心陽へ。
指先が、勝手に震えた。
「……本当に……父の、字……」
声が、喉の奥でほどけてしまう。
橘は小さく頷く。
「開封はあなたの意思で。無理にとは申しません」
無理にとは――言わない。
そんなふうに扱われたのは、いつ以来だろう。私の意思。私の選択。私のタイミング。
私は封筒に手を伸ばした。紙のざらつきが指に伝わる。ほんの少しだけ、煙草の匂いがした気がした。父の上着に染みついていた匂い。冬の夕方の玄関にいつも残っていた匂い。
封を切る音が、やけに大きく響いた。
便箋を取り出した途端、心臓が跳ねた。紙が軽いのに、手が重い。
『心陽へ。
お前がこれを読む頃、私はもういないだろう』
目が、熱くなる。
『父として、私は失格だった。
お前を守れなかった。
何度も、何度も、言い訳をして逃げた』
文字が滲む。滲むのに、読まなきゃいけない気がした。読まないと、五年が全部、嘘になってしまう。
『だが、私は何も知らなかったわけではない。
あの女が、お前に何をさせ、何を奪ったか。
連れ子たちが何をして笑ったか。
全部、知っていた』
――知っていた。
喉が詰まり、息がひゅっと漏れた。
知っていたのに。
見ていたのに。
黙っていたのに。
怒りが湧く。湧くのに、涙が止まらない。矛盾しているのに、体は正直だった。
『お前が十三の冬、俺は倒れた。
その前から心臓は限界だった。
だから、遺言でしか、お前に残せないものがあると思った』
便箋が、指の震えでかすかに擦れる音を立てる。
『未成年のうちに、お前をあの家に置いておけば、あの女に搾り取られる。
法は守ってくれない。
俺はもっと早く動くべきだった。
だが、遅すぎた。
だから、お前を“遠ざける”ことだけが、俺の残った手段だった』
遠ざける。
施設に行けという“遺志”が、嘘だったこと。
それでも、私がここにいたのは偶然じゃないこと。
胸の奥が、ずるずると崩れていく。五年間、固めていた氷が溶けて、冷たい水になって流れ出す。
『心陽。
十八歳になったら、すべてを取り戻せ。
家も、財産も、名前も、尊厳も。
それは“復讐”のためではない。
お前が、お前の人生を生きるためだ』
尊厳。
その言葉が、私の中で初めて意味を持つ。
私はずっと、奪われる前提で生きてきた。自分の意見は面倒を呼ぶ。希望は裏切りを連れてくる。だから、何も持たないふりをしてきた。
でも、父は言う。
取り戻せ、と。
『証拠は揃えてある。
通帳、録音、写真、日記。
必要なら、橘先生がすべて渡す。
お前が望むなら、法は味方になる』
法は味方になる。
その一文が、驚くほど温かい。
守ってくれないと思っていたものが、味方になると言われたから。
私は便箋を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。慌てて手を緩める。父の文字を、壊したくない。
「……父は……」
声を出した瞬間、涙が落ちた。便箋に雫が落ち、インクがほんの少し滲む。
「あの人……知ってたのに……」
怒りのはずなのに、声が震える。喉の奥が痛い。吐き出したいのに、言葉が詰まる。
三浦先生が、そっとティッシュを差し出した。
「心陽ちゃん……」
私はティッシュを受け取る手が震えて、うまく取れなかった。
橘は、少しだけ目を伏せた。
「……お父様は、あなたに直接渡せないことを悔いていました。亡くなる直前まで、この件の書類を整えていました」
「じゃあ……どうして……私に……何も……」
“どうして”の先が言えない。
どうして助けてくれなかった。
どうして私を置いて死んだ。
どうして――。
橘は、言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに言った。
「あなたが未成年の間、あなたの後見は奥様側にありました。お父様の死後、あなたを直接保護する法的権限は、あなたが思うほど簡単には動きません。……それでも、お父様は“十八歳になったときに剣を渡す”形を選んだ」
剣。
その言葉が、私の中で火種になる。
剣を持てば、戦える。
戦えば、奪われたものを取り返せる。
でも。
剣は重い。
握れば、もう戻れない。
「……私、何をすればいいの」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
橘は、鞄からもう一つの書類を出した。紙の角が揃っている。インクの匂いが新しい。
「まずは確認です。ご自宅の土地建物はすでにあなた名義に変更済みです。あなたが十八歳になった本日、正式に管理権があなたへ移ります」
「……私の……名義」
言葉が、口の中で転がる。
名義なんて、縁のない世界の言葉だった。私のものは、いつも“使わせてもらっているもの”だったから。
「預貯金、多額の株式、不動産。総資産の詳細は後ほど一覧でお渡しします。今日お伝えするべきことは一つ――あなたは、捨てられたのではない。権利を奪われていただけだ、ということです」
権利。
それは私の中で、形のない幽霊みたいなものだった。
あると言われても信じられない。
でも、机の上の書類と、父の文字は嘘をつけない。
「……あの人たちは」
声が低くなるのが分かった。
「まだ、あの家に……いるんですよね」
橘は頷いた。
「はい」
その肯定は、燃料だった。
胸の奥の炎が、はっきりと形になる。
「……行きます」
三浦先生が息を呑む。
「心陽ちゃん……」
私は便箋を胸に押し当てた。紙越しに、自分の心臓の鼓動が伝わる。早い。うるさい。でも――生きている。
「……私、帰ります。帰るっていうか……取り戻しに」
“帰る場所”はない。
でも、“取り戻す場所”はある。
それは、復讐のためじゃない。
父の言葉が、まだ胸の中で濡れている。
――お前が、お前の人生を生きるためだ。
橘が立ち上がり、ゆっくりと一礼した。
「では、参りましょう。心陽様」
様。
その敬称を、今度は拒みたくなかった。
私は立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、甲高い音がした。足が少し震えた。怖い。でも、怖いまま進むしかない。
応接室のドアを開けると、廊下の石鹸の匂いが戻ってくる。
五年間の匂い。
生き延びた匂い。
私は一度だけ振り返り、三浦先生を見た。
「先生」
「うん」
「……ありがとう」
言えた。ちゃんと言えた。
先生の目が細くなる。泣いているのか笑っているのか分からない顔。
「行っておいで。心陽ちゃん。……あなたの家に」
家。
その言葉が、胸の奥で鳴った。
私はドアの向こうへ歩き出す。
廊下の窓から差し込む冬の光が、床に白い帯を作っている。その上を踏むと、靴底がきゅっと鳴った。
黒塗りの車のドアが開く。
外の空気は、施設の中よりずっと冷たい。頬が一瞬で痛くなる。でも、その痛みは、確かに私を“今”に引き戻した。
私はシートに腰を下ろし、父の便箋をもう一度見た。
滲んだ文字が、消えずに残っている。
消えない。
奪わせない。
車が静かに走り出す。タイヤが砂利を踏む音が、遠ざかっていく。
私は、窓の外の世界を見た。
逃げるためじゃない。
取り戻すために。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
真実の愛は水晶の中に
立木
恋愛
学園の卒業を祝うパーティーの最中、レイシア・マレーニ侯爵令嬢は第三王子とピンク髪の女、その取り巻きたちによって断罪されようとしていた。
しかし断罪劇は思わぬ方向へ進んでいく。
※「なろう」にも重複投稿しています。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
【完結】悪気がないかどうか、それを決めるのは私です
楽歩
恋愛
人見知りで目立つのが苦手なフローリアは、独学で宮廷薬師となり、同期のソフィアとウィリアムと共に働いていた。
華やかで人望の厚いソフィアは、王妃からも称賛を受ける存在。一方フローリアは、表に出ることなく、実験や薬草採取といった地道な仕事を黙々と引き受けていた。
「協力」の名のもとで負担は偏り、成果は記録に残らないまま、それでも彼女は薬師としての仕事をこなしてきた。
だが美容部門設立をきっかけに、人員整理の対象として選ばれたのはフローリアだった。
一生懸命働いてきたはずなのに、評価されず、居場所を失う。その現実を前に、彼女は初めて、自分が何を奪われてきたのかを思い知る。
妹のために愛の無い結婚をすることになりました
バンブー竹田
恋愛
「エミリー、君との婚約は破棄することに決まった」
愛するラルフからの唐突な通告に私は言葉を失ってしまった。
婚約が破棄されたことはもちろんショックだけど、それだけじゃない。
私とラルフの結婚は妹のシエルの命がかかったものでもあったから・・・。
落ちこむ私のもとに『アレン』という大金持ちの平民からの縁談が舞い込んできた。
思い悩んだ末、私は会ったこともない殿方と結婚することに決めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる