3 / 11
第2話:施設の窓辺
しおりを挟む
第2話:施設の窓辺
夜の消灯時間を告げるチャイムは、どこか湿った音がした。
施設の廊下はいつも少しだけ洗剤の匂いがする。床に塗られたワックスと、古い建物の木の匂いが混じって、甘くもなく苦くもない空気を作っている。
私はその匂いが、嫌いではなかった。
少なくとも、あの家の香水の匂いよりは。
「心陽、まだ起きてるの?」
同室の真帆が、上段ベッドから顔を覗かせる。
「うん。眠れなくて」
「また夢?」
私は答えなかった。
窓の外には、鉄柵越しに街灯が滲んでいる。ガラスに映る自分の顔は、感情を抜き取られたみたいに静かだ。
眠ると、家の夢を見る。
リビングの笑い声。
グラスが触れ合う乾いた音。
私を呼ばない声。
目が覚めると、いつも胸の奥がひりつく。
「ねえ、心陽ってさ」
真帆がぽつりと言う。
「なんでそんなに静かなの?」
「……うるさいのは、嫌いだから」
「違うよ。怒らないの?」
私は少しだけ考える。
怒りは、あった。
でも出し方を忘れた。
怒ると、もっと面倒になると知っているから。
「怒っても、変わらない」
そう言うと、真帆はふうん、と鼻を鳴らした。
「私はさ、怒るよ。めっちゃ怒る。ここ来たとき、皿投げたもん」
「皿?」
「うん。紙皿だけど」
思わず、喉の奥が小さく震えた。笑いそうになったのだと気づくのに少し時間がかかる。
笑うのも、久しぶりだった。
翌朝、食堂の味噌汁は少し薄かった。
湯気に顔を近づけると、わずかな出汁の香りがする。
母の味とは違う。
でも、温かい。
「おかわり、する?」
配膳台の向こうから、職員の三浦先生が声をかけてくる。
「……いいんですか」
「もちろん。いっぱいあるよ」
私はお椀を差し出す。
誰かが、私のために注いでくれる。
それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
午後、学習室の窓辺に座る。
冬の日差しは白く、机に細長い影を落としている。ノートに鉛筆を走らせると、紙のざらりとした感触が指先に残る。
「心陽、ここ違うよ」
隣に座った真帆が、数学の問題を指差す。
「え?」
「この公式、さっき先生言ってたじゃん」
「あ……」
私は、授業中もどこか遠くにいることが多い。
黒板のチョークの音が、時々、家の皿が割れる音に重なる。
「ぼーっとしてると置いてくよ?」
真帆は笑う。
「置いてかれるの、慣れてるから」
無意識に口から出た言葉に、自分で驚く。
真帆は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「じゃあさ、今度は私が隣にいる」
その言葉が、胸の奥で静かに波打った。
夕方、洗濯物を取り込む手伝いをする。
外気にさらされたタオルは冷たく、指先がじんと痺れる。頬をかすめる風は乾いていて、遠くから焼き魚の匂いが漂ってきた。
どこかの家の夕食だ。
一瞬、胸が締めつけられる。
でも。
「心陽、これお願い」
三浦先生が笑いながらタオルの山を渡してくる。
「はい」
私は両腕いっぱいに抱え込む。
布の柔らかさが、あたたかい。
夜、再び窓辺に立つ。
鉄柵越しの街灯。
吐く息が白い。
「帰りたい?」
背後から、三浦先生の声。
私は少し考える。
帰りたい場所は、どこだろう。
あの家か。
母のいた時間か。
それとも、まだ見ぬ未来か。
「……分かりません」
正直に答える。
先生は隣に並び、窓の外を見る。
「無理に強くならなくていい。でもね、ここは通過点だよ」
通過点。
その言葉が、静かに胸に落ちる。
私はずっと、「追い出された場所」に囚われていた。
でも、もしかしたら。
ここは「置き去りにされた場所」ではなく、
「立ち止まれる場所」なのかもしれない。
布団に潜り込む。
薄い毛布は少しチクチクするけれど、清潔な石鹸の匂いがする。
目を閉じる。
今夜も夢を見るかもしれない。
それでもいい。
目が覚めたら、窓辺がある。
味噌汁の湯気がある。
隣で問題を間違いだと笑う誰かがいる。
胸の奥に、ほんの少しだけ余白ができていることに気づく。
灰の中にいた私は、まだ灰色のままだ。
けれど。
完全な闇ではない。
窓の向こう、わずかな光が、
明日もそこにあると知っているから。
夜の消灯時間を告げるチャイムは、どこか湿った音がした。
施設の廊下はいつも少しだけ洗剤の匂いがする。床に塗られたワックスと、古い建物の木の匂いが混じって、甘くもなく苦くもない空気を作っている。
私はその匂いが、嫌いではなかった。
少なくとも、あの家の香水の匂いよりは。
「心陽、まだ起きてるの?」
同室の真帆が、上段ベッドから顔を覗かせる。
「うん。眠れなくて」
「また夢?」
私は答えなかった。
窓の外には、鉄柵越しに街灯が滲んでいる。ガラスに映る自分の顔は、感情を抜き取られたみたいに静かだ。
眠ると、家の夢を見る。
リビングの笑い声。
グラスが触れ合う乾いた音。
私を呼ばない声。
目が覚めると、いつも胸の奥がひりつく。
「ねえ、心陽ってさ」
真帆がぽつりと言う。
「なんでそんなに静かなの?」
「……うるさいのは、嫌いだから」
「違うよ。怒らないの?」
私は少しだけ考える。
怒りは、あった。
でも出し方を忘れた。
怒ると、もっと面倒になると知っているから。
「怒っても、変わらない」
そう言うと、真帆はふうん、と鼻を鳴らした。
「私はさ、怒るよ。めっちゃ怒る。ここ来たとき、皿投げたもん」
「皿?」
「うん。紙皿だけど」
思わず、喉の奥が小さく震えた。笑いそうになったのだと気づくのに少し時間がかかる。
笑うのも、久しぶりだった。
翌朝、食堂の味噌汁は少し薄かった。
湯気に顔を近づけると、わずかな出汁の香りがする。
母の味とは違う。
でも、温かい。
「おかわり、する?」
配膳台の向こうから、職員の三浦先生が声をかけてくる。
「……いいんですか」
「もちろん。いっぱいあるよ」
私はお椀を差し出す。
誰かが、私のために注いでくれる。
それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
午後、学習室の窓辺に座る。
冬の日差しは白く、机に細長い影を落としている。ノートに鉛筆を走らせると、紙のざらりとした感触が指先に残る。
「心陽、ここ違うよ」
隣に座った真帆が、数学の問題を指差す。
「え?」
「この公式、さっき先生言ってたじゃん」
「あ……」
私は、授業中もどこか遠くにいることが多い。
黒板のチョークの音が、時々、家の皿が割れる音に重なる。
「ぼーっとしてると置いてくよ?」
真帆は笑う。
「置いてかれるの、慣れてるから」
無意識に口から出た言葉に、自分で驚く。
真帆は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「じゃあさ、今度は私が隣にいる」
その言葉が、胸の奥で静かに波打った。
夕方、洗濯物を取り込む手伝いをする。
外気にさらされたタオルは冷たく、指先がじんと痺れる。頬をかすめる風は乾いていて、遠くから焼き魚の匂いが漂ってきた。
どこかの家の夕食だ。
一瞬、胸が締めつけられる。
でも。
「心陽、これお願い」
三浦先生が笑いながらタオルの山を渡してくる。
「はい」
私は両腕いっぱいに抱え込む。
布の柔らかさが、あたたかい。
夜、再び窓辺に立つ。
鉄柵越しの街灯。
吐く息が白い。
「帰りたい?」
背後から、三浦先生の声。
私は少し考える。
帰りたい場所は、どこだろう。
あの家か。
母のいた時間か。
それとも、まだ見ぬ未来か。
「……分かりません」
正直に答える。
先生は隣に並び、窓の外を見る。
「無理に強くならなくていい。でもね、ここは通過点だよ」
通過点。
その言葉が、静かに胸に落ちる。
私はずっと、「追い出された場所」に囚われていた。
でも、もしかしたら。
ここは「置き去りにされた場所」ではなく、
「立ち止まれる場所」なのかもしれない。
布団に潜り込む。
薄い毛布は少しチクチクするけれど、清潔な石鹸の匂いがする。
目を閉じる。
今夜も夢を見るかもしれない。
それでもいい。
目が覚めたら、窓辺がある。
味噌汁の湯気がある。
隣で問題を間違いだと笑う誰かがいる。
胸の奥に、ほんの少しだけ余白ができていることに気づく。
灰の中にいた私は、まだ灰色のままだ。
けれど。
完全な闇ではない。
窓の向こう、わずかな光が、
明日もそこにあると知っているから。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
真実の愛は水晶の中に
立木
恋愛
学園の卒業を祝うパーティーの最中、レイシア・マレーニ侯爵令嬢は第三王子とピンク髪の女、その取り巻きたちによって断罪されようとしていた。
しかし断罪劇は思わぬ方向へ進んでいく。
※「なろう」にも重複投稿しています。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
【完結】悪気がないかどうか、それを決めるのは私です
楽歩
恋愛
人見知りで目立つのが苦手なフローリアは、独学で宮廷薬師となり、同期のソフィアとウィリアムと共に働いていた。
華やかで人望の厚いソフィアは、王妃からも称賛を受ける存在。一方フローリアは、表に出ることなく、実験や薬草採取といった地道な仕事を黙々と引き受けていた。
「協力」の名のもとで負担は偏り、成果は記録に残らないまま、それでも彼女は薬師としての仕事をこなしてきた。
だが美容部門設立をきっかけに、人員整理の対象として選ばれたのはフローリアだった。
一生懸命働いてきたはずなのに、評価されず、居場所を失う。その現実を前に、彼女は初めて、自分が何を奪われてきたのかを思い知る。
妹のために愛の無い結婚をすることになりました
バンブー竹田
恋愛
「エミリー、君との婚約は破棄することに決まった」
愛するラルフからの唐突な通告に私は言葉を失ってしまった。
婚約が破棄されたことはもちろんショックだけど、それだけじゃない。
私とラルフの結婚は妹のシエルの命がかかったものでもあったから・・・。
落ちこむ私のもとに『アレン』という大金持ちの平民からの縁談が舞い込んできた。
思い悩んだ末、私は会ったこともない殿方と結婚することに決めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる