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第1話:灰色の朝に届いた遺言
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第1話:灰色の朝に届いた遺言
十八歳の朝、私は“捨てられた娘”を卒業する。
そう思ったのは、黒塗りの車が施設の門前に滑り込んできた瞬間だった。
それまでは、ただ寒いだけの二月の朝だった。
肺の奥まで透き通るような冷気。
安っぽい洗面台の鏡に映る自分の顔は、いつの間にか母の面影を追い越し、見知らぬ大人の輪郭を帯びている。
「心陽ちゃん、卒業おめでとう」
職員の声に、私は小さく頷いた。
卒業。
その言葉は、普通なら未来への扉だ。
けれど私にとっては、「保護の終了通知」にすぎない。
八歳の夏、母が死んだ。
あの日を境に、家の匂いが変わった。
出汁の優しい香りは消え、代わりに鼻を刺す安物の甘い香水が廊下に満ちた。
父が連れてきた、新しい「母」と、その連れ子の姉妹。
「今日から家族よ」
父はそう言ったが、私を見なかった。
その日から、私の椅子は消えた。
家族が囲む食卓の代わりに、キッチンの隅。
温かい料理の代わりに、冷えた残り物。
冬の床は氷のように冷たく、裸足の指先はいつも白くなっていた。
「心陽、学校より家のことが大事でしょ?」
継母のその一言で、私の朝は家政婦に変わった。
掃除、洗濯、買い出し、弁当作り。
連れ子の姉妹のために詰める色鮮やかな弁当。
自分の分は、ない。
遅刻が続き、担任に叱られた。
でも理由は言わなかった。言えば、もっと面倒なことになると分かっていたから。
父は、何も言わなかった。
新聞の陰に隠れ、食器が割れる音をやり過ごし、私が罵倒される声を聞かないふりをした。
気づかなかったのか。
それとも、気づかないことを選んだのか。
十三歳の冬、父は心筋梗塞で急死した。
悲しみよりも先に湧いたのは、「これで完全に独りだ」という感覚だった。
四十九日の法要が終わった日の夕方。
線香の匂いが残る居間で、継母は言った。
「あなた、今日から施設に行くの。それがお父様の遺言よ」
遺言。
その二文字が、私の心に杭を打った。
お父様は、最後まで私を選ばなかったのか。
そう思うしかなかった。
ボストンバッグ一つで家を出るとき、誰も見送らなかった。
窓越しに目が合った連れ子の姉妹は、私の大切にしていたぬいぐるみをゴミ箱に放り投げた。
私は振り返らなかった。
あの家は、もう私の家ではない。
私は、娘ですらなくなった。
それから五年。
施設での生活は不自由だったが、少なくとも理不尽な暴力はなかった。
私は学んだ。
期待しないこと。
甘えないこと。
感情を表に出さないこと。
そして十八歳の今朝。
玄関を出た瞬間、場違いなほど艶やかな黒のセダンが目の前に止まった。
中から現れた男は、完璧なスーツ姿で深く一礼した。
「心陽様ですね。お迎えに上がりました」
様。
その敬称が、遠い世界の言葉のように響く。
応接室に通され、差し出されたのは一通の封筒。
父の筆跡だった。
震える指で封を切る。
『心陽へ』
視界が滲む。
『父として、私は失格だった。
お前のぬいぐるみがゴミ箱に捨てられた日、私は初めて、すべてを知った』
呼吸が止まった。
『だが、お前が未成年のうちは、あの女から完全に引き離す術がなかった。
施設は、私が選んだ。守るためだ。
十八歳になったら、すべてを取り戻せ。
家も、財産も、お前の人生もだ』
涙が落ちた。
悔しくて、愛しくて、怒りが燃え上がる。
隣で弁護士が告げる。
「ご自宅の土地建物は、すでにあなた名義です。預貯金、株式、不動産を含め、全資産は本日よりあなたの管理下に入ります」
告げられた金額は、現実感を持たない桁だった。
「後妻には遺留分のみ。施設入所が遺志という話は虚偽です」
嘘だった。
私は捨てられたのではない。
遅すぎたけれど、父は剣を残していた。
「……家へ、戻ります」
車は、見慣れた高級住宅街へ入る。
玄関の前で止まる。
インターホンを押す。
現れた継母は、余裕の笑みを浮かべていた。
「あら、何しに来たの? もうここは——」
「橘さん、書類を」
登記事項証明書が差し出される。
継母は鼻で笑う。
「そんな紙切れで——」
「本物です。すでに法務局で確認済みです」
弁護士の声は冷静だった。
継母の指先が震える。
「本日より、この家の所有者は私です。一時間以内に退去してください」
「嘘よ……!」
「いいえ。あなたが吐いたのが、嘘です」
静かに、私は一歩踏み込んだ。
かつて必死に磨いた大理石の床。
今度は違う。
誰かの顔色を窺うためではない。
私の人生を整えるために。
「ざまぁみろ、とは言いません。ただ、返してもらうだけです。――私のすべてを」
灰色の朝は終わった。
今日、私は被害者をやめる。
ここから、本当の人生が始まる。
十八歳の朝、私は“捨てられた娘”を卒業する。
そう思ったのは、黒塗りの車が施設の門前に滑り込んできた瞬間だった。
それまでは、ただ寒いだけの二月の朝だった。
肺の奥まで透き通るような冷気。
安っぽい洗面台の鏡に映る自分の顔は、いつの間にか母の面影を追い越し、見知らぬ大人の輪郭を帯びている。
「心陽ちゃん、卒業おめでとう」
職員の声に、私は小さく頷いた。
卒業。
その言葉は、普通なら未来への扉だ。
けれど私にとっては、「保護の終了通知」にすぎない。
八歳の夏、母が死んだ。
あの日を境に、家の匂いが変わった。
出汁の優しい香りは消え、代わりに鼻を刺す安物の甘い香水が廊下に満ちた。
父が連れてきた、新しい「母」と、その連れ子の姉妹。
「今日から家族よ」
父はそう言ったが、私を見なかった。
その日から、私の椅子は消えた。
家族が囲む食卓の代わりに、キッチンの隅。
温かい料理の代わりに、冷えた残り物。
冬の床は氷のように冷たく、裸足の指先はいつも白くなっていた。
「心陽、学校より家のことが大事でしょ?」
継母のその一言で、私の朝は家政婦に変わった。
掃除、洗濯、買い出し、弁当作り。
連れ子の姉妹のために詰める色鮮やかな弁当。
自分の分は、ない。
遅刻が続き、担任に叱られた。
でも理由は言わなかった。言えば、もっと面倒なことになると分かっていたから。
父は、何も言わなかった。
新聞の陰に隠れ、食器が割れる音をやり過ごし、私が罵倒される声を聞かないふりをした。
気づかなかったのか。
それとも、気づかないことを選んだのか。
十三歳の冬、父は心筋梗塞で急死した。
悲しみよりも先に湧いたのは、「これで完全に独りだ」という感覚だった。
四十九日の法要が終わった日の夕方。
線香の匂いが残る居間で、継母は言った。
「あなた、今日から施設に行くの。それがお父様の遺言よ」
遺言。
その二文字が、私の心に杭を打った。
お父様は、最後まで私を選ばなかったのか。
そう思うしかなかった。
ボストンバッグ一つで家を出るとき、誰も見送らなかった。
窓越しに目が合った連れ子の姉妹は、私の大切にしていたぬいぐるみをゴミ箱に放り投げた。
私は振り返らなかった。
あの家は、もう私の家ではない。
私は、娘ですらなくなった。
それから五年。
施設での生活は不自由だったが、少なくとも理不尽な暴力はなかった。
私は学んだ。
期待しないこと。
甘えないこと。
感情を表に出さないこと。
そして十八歳の今朝。
玄関を出た瞬間、場違いなほど艶やかな黒のセダンが目の前に止まった。
中から現れた男は、完璧なスーツ姿で深く一礼した。
「心陽様ですね。お迎えに上がりました」
様。
その敬称が、遠い世界の言葉のように響く。
応接室に通され、差し出されたのは一通の封筒。
父の筆跡だった。
震える指で封を切る。
『心陽へ』
視界が滲む。
『父として、私は失格だった。
お前のぬいぐるみがゴミ箱に捨てられた日、私は初めて、すべてを知った』
呼吸が止まった。
『だが、お前が未成年のうちは、あの女から完全に引き離す術がなかった。
施設は、私が選んだ。守るためだ。
十八歳になったら、すべてを取り戻せ。
家も、財産も、お前の人生もだ』
涙が落ちた。
悔しくて、愛しくて、怒りが燃え上がる。
隣で弁護士が告げる。
「ご自宅の土地建物は、すでにあなた名義です。預貯金、株式、不動産を含め、全資産は本日よりあなたの管理下に入ります」
告げられた金額は、現実感を持たない桁だった。
「後妻には遺留分のみ。施設入所が遺志という話は虚偽です」
嘘だった。
私は捨てられたのではない。
遅すぎたけれど、父は剣を残していた。
「……家へ、戻ります」
車は、見慣れた高級住宅街へ入る。
玄関の前で止まる。
インターホンを押す。
現れた継母は、余裕の笑みを浮かべていた。
「あら、何しに来たの? もうここは——」
「橘さん、書類を」
登記事項証明書が差し出される。
継母は鼻で笑う。
「そんな紙切れで——」
「本物です。すでに法務局で確認済みです」
弁護士の声は冷静だった。
継母の指先が震える。
「本日より、この家の所有者は私です。一時間以内に退去してください」
「嘘よ……!」
「いいえ。あなたが吐いたのが、嘘です」
静かに、私は一歩踏み込んだ。
かつて必死に磨いた大理石の床。
今度は違う。
誰かの顔色を窺うためではない。
私の人生を整えるために。
「ざまぁみろ、とは言いません。ただ、返してもらうだけです。――私のすべてを」
灰色の朝は終わった。
今日、私は被害者をやめる。
ここから、本当の人生が始まる。
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