『相続人は、追い出された娘でした』

かおるこ

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第5話:帰還

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第5話:帰還

車が減速する。

窓の外に、見覚えのある白い塀が現れた。
冬の光を反射して、まぶしい。

五年ぶりの景色なのに、体は覚えている。
坂道の傾斜。
門柱の傷。
植え込みの手入れが雑になっていることまで。

胸がざわつく。

怖い?

違う。

これは、緊張だ。

「到着しました」

橘の声は落ち着いている。

ドアを開けると、冷たい空気が頬を刺した。
高級住宅街特有の、静まり返った匂い。
遠くで犬が吠える声がする。

私は門の前に立つ。

あの日、ボストンバッグ一つで出て行った門。

“ここに戻ることはない”と思った門。

橘が小さくうなずく。

「行きましょう」

インターホンを押す。

ピンポーン、と乾いた電子音。

しばらくして、内側で足音がする。
ヒールではない。スリッパを引きずる音。

ガチャ、とドアが開いた。

継母は、以前より少し太っていた。
ワインの匂いが、ふわりと流れ出る。

「あら……」

目が細められる。

「何しに来たの? 施設はどうしたの」

その声には、警戒よりも、侮りが混じっている。

私は一歩も引かない。

「今日は、話があります」

「話?」

継母は鼻で笑った。

「寄付なら、他を当たってちょうだい。うちも大変なのよ」

“うち”。

その言葉に、胸の奥で何かが静かに弾けた。

橘が前に出る。

「初めまして。弁護士の橘と申します。本日は法的通知に参りました」

継母の眉がぴくりと動く。

「……弁護士?」

背後から、連れ子の姉妹が顔を出す。
派手なネイル。強い香水。
視線が、私を上から下までなぞる。

「あー、施設の子じゃん」

「まだいたんだ」

私は、目を逸らさない。

橘が書類を取り出す。
紙が擦れる音が、やけに大きい。

「本日をもって、当該不動産の所有権は三浦心陽様に完全帰属いたしました」

継母が笑う。

「何を言ってるの? ここは私の家よ」

「いいえ」

橘は淡々と続ける。

「公正証書遺言に基づき、五年前より名義変更手続きは準備されておりました。本日、心陽様が十八歳に達したため、効力が確定しました」

空気が、変わる。

継母の顔色が、わずかに曇る。

「……そんな話、聞いてないわ」

「お伝えする義務はありませんでした」

その一言が、冷たく落ちる。

連れ子の姉が声を荒げる。

「ちょっと待ってよ! パパの家でしょ?」

“パパ”。

その呼び方が、胸を刺す。

私は、ゆっくり口を開いた。

「父の家です」

一拍置く。

「そして、今は私の家です」

沈黙。

風が吹き、門の植え込みがかすかに揺れる。

継母の唇が震えた。

「冗談じゃないわ。私は五年間ここで生活してきたのよ!」

「遺留分は支払われます」

橘が言う。

「月額、最低限の生活費のみ。それ以上の請求はできません」

「最低限?」

声が裏返る。

「私たちを追い出すつもり!?」

私は、玄関の敷居に足をかけた。

五年前、裸足で立たされた大理石。
冷たさを覚えている。

今日は、違う。

靴底越しに感じる感触は、ただの床だ。

「あなたが出ていく番です」

声は震えなかった。

継母の目が見開かれる。

「何様のつもり?」

「所有者です」

連れ子の妹が叫ぶ。

「最低! 今さら戻ってきて、何様よ!」

私は視線を向ける。

「あなたたちは、私のぬいぐるみを捨てましたね」

一瞬、顔色が変わる。

覚えている。

冬の夕方。
ゴミ箱に落ちる音。
勝ち誇った笑い。

「……子どものことよ」

継母が吐き捨てる。

「あなたも子どもだったでしょう」

静かに言うと、言葉が凍る。

橘が腕時計を見る。

「本日中に退去していただきます。必要であれば、法的措置を取ります」

「警察を呼ぶわよ!」

「どうぞ」

橘は動じない。

「不法占拠として、こちらも正式に対応いたします」

沈黙が落ちる。

継母の呼吸が荒い。
ワインの匂いが強くなる。

私は玄関に足を踏み入れる。

家の中の空気が、鼻を刺す。

甘い香水と、古いカーペットの湿気。
そして、どこか乱れた生活の匂い。

かつて整えていた空間は、荒れている。

テーブルの上に空き瓶。
ソファに投げ出された服。

私は深く息を吸う。

「ここは、父が私に残した場所です」

継母が震える声で言う。

「あなたは何もしていないじゃない」

その言葉に、私は首をかしげる。

「しました」

視線を合わせる。

「掃除も、洗濯も、料理も。あなたが“家族”と笑っている間に」

連れ子たちが黙る。

橘が最後の通告を告げる。

「一時間です」

その数字が、重く落ちる。

継母は何か言おうとしたが、言葉にならない。

私は靴を脱ぎ、静かに家へ上がる。

大理石の床が、ひんやりしている。

でも今日は、凍えない。

リビングに足を踏み入れると、壁に掛かった父の写真が目に入る。

あの無表情な顔。

私は写真の前に立つ。

「……遅いよ」

小さくつぶやく。

「でも、受け取った」

背後で、スーツケースの音がする。
引きずる音。
焦った足音。

ざまぁ、とは言わない。

ただ、取り戻す。

玄関のドアが乱暴に閉まる音が響く。

家の中が、急に静かになる。

ワインの匂いが薄れ、空気が澄んでいく気がした。

私はリビングの中央に立つ。

光が、床に落ちている。

五年前、ここで立つことは許されなかった。

今日は、違う。

「ここから始める」

誰に向けたわけでもない。

でも確かな宣言。

ざまぁ第一波は、静かに終わった。

そして私は、ようやくこの家で、

息をした。
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